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                                *



 オルテア城の北の塔に、窓からの侵入者がまたも現れたのは、サラキュールの投獄から――そしてユナ皇后の死から――四日後のことであった。
「もう来るなと申したのに。性懲りも無い男だな」
 今回は自分で鉤をかけて登れるようにしてやったのに、アルドゥインが室内に入ってくるなりサラキュールは呆れてみせた。
「今度はちゃんとオーラフ殿に許可をいただいた」
 けろりとした顔で、アルドゥインは言った。サラキュールは首を傾げる。
「何の許可だ」
「決まってるだろ。北の塔への不法侵入の許可だよ」
「……」
「アルドゥイン様。許可をいただいたのなら、これは単なる侵入であって不法にはならないと思いますが」
 本当に呆れて言葉を失ったサラキュールの代わりに、ジークフリートが丁寧に応えてやった。
「ああ、そうか。そうなるな。ジークフリート殿はなかなか鋭いな」
 今さら気づいたように、アルドゥインは手を叩いた。
「お褒めに与り光栄です。ありがとうございます」
 ジークフリートはぺこりと頭を下げた。サラキュールは彼を睨んで、腕を掴んで引き寄せた。
「ジーク、こんな馬鹿にいちいち真面目に答えてやる必要などないぞ。それに、あまり近づくな。馬鹿がうつるから」
「馬鹿は病気ではないのですからうつりませんよ。サラキュール様」
 またもジークフリートは真面目に答えた。
「馬鹿とは何だ、馬鹿とは。俺のおかげで命を拾ったくせに」
「むろんそのことには感謝しておる。おぬしが毒に気づかねば、今頃私は死んでおったからな。が、それとこれとは話が別だ」
 アルドゥインは露骨にむっとした顔になった。
「ああそうかよ。それならいいさ。せっかく酒を持ってきてやったけど、馬鹿がうつるんなら俺の酒は飲めないよな。ジークフリート殿、付き合ってくれ」
 言いながら、彼は担いできた袋から麦藁で割れないように梱包した酒瓶を取り出した。準備のいいことに、つまみにするための料理を詰めた籠まで入っていた。
「私はサラキュール様ほどお酒には強くございませんが、それでもよろしいでしょうか」
「かまわないよ。そんなに持ってこなかったし」
 サラキュールを無視して、二人はグラスを出し、籠の中の料理をテーブルに並べた。テーブルの上には、即席の宴会の準備が整った。ジークフリートが酒の瓶を開け、アルドゥインのグラスに注いでやった。
 二人が最初の一杯を乾杯したところで、サラキュールが不機嫌に言った。
「私を無視するとはいい度胸だな、アルドゥイン、ジーク」
「俺に近づくと馬鹿がうつるんだろ」
「せっかくアルドゥイン様がお誘いくださったのですから、それをお断りしては失礼でございましょう?」
 アルドゥインは根に持った様子で返し、ジークフリートはすまなげに主人を見た。
「それとこれも別だ! 私をのけ者にするな!」
 子供のように怒りながら、サラキュールはアルドゥインとジークフリートの間に椅子を持ってきて割り込んだ。手にした空のグラスをジークフリートに突きつけると、何も言わなくても、忠実な従者であり幼なじみである彼は視線の言うところを理解して、酒を注いでやった。
 サラキュールが訊ねたわけではなかったが、アルドゥインはユナ皇后の裁きとその後のできごとを語った。
「そうか……。皇后陛下は自害なされたか」
 さして驚いた風もなくサラキュールはそれを聞き、物思うような目を窓の外に向けた。そこからは高すぎて、水晶殿の明かりを見ることはできなかったけれど。
「思えば、哀れな女性ではあったな。あまり好かぬ方ではあったが、私には皇后陛下だけが悪いようには思えぬ。皇后にさえならねば、あるいは皇帝陛下がミラルカ姫を愛さねば、あの方はもっと幸せな別の人生を歩めたかもしれぬのにな」
「お前が……」
 アルドゥインは驚いたように顔を上げた。
「お前が、そんなことを言うなんてな」
「意外か?」
 サラキュールはふっと笑った。
「だからといってあの方がしたことを全て肯定しようというつもりはないが、少なくとも同情の余地はあるだろう。女を幸せにするのも不幸にするのも、つまるところ添うた男の度量次第だ。皇帝陛下は、二人の女を同等に愛せる方ではなかった。それがミラルカ姫にとっても、皇后陛下にとっても不幸だったのだ」
 まるで悪いのはイェラインだとでも言いたげな言葉であった。確かに、原因の一つにはあったのだろうが。
「だが、時は巻き戻せないよ。せめて、不幸な女性がいたと覚えておいてさしあげること――同じ不幸を招かぬようにするくらいしか、俺たちにはできない」
「そうだな。……ところで、いつ頃ここから出られるか、そろそろ判らぬか」
「四日も経っているんだからもういいんじゃないかと思うんだが、陛下がなかなか、な。ラルホーン伯がお前の暗殺計画を立てていたことは明らかになったんだが、陛下は『それでも皇帝の意思を無視するのはけしからん』なんて仰ってさ。アルフォンソ殿は『挙式に間に合わなくなります!』って毎日抗議してる。でも少なくともあと三日は入っていてもらわないと駄目みたいだ」
「そうか……」
 サラキュールは残念そうな顔をした。
「しかし、これだけで済んで良かった。お前を海軍大元帥の任から解く、と仰った時にはおのれのことでもないのにぞっとしたよ。領地の没収くらいはあるだろうと思っていたが、まさかそこまで仰られるとは思っていなかったからな」
「だが結局は、北の塔だけに免じていただいた」
「そうだな。だが、それでも厳しい処分じゃないか?」
 アルドゥインが言うと、サラキュールはいつものように皮肉っぽく笑った。
「何の厳しいことか。そこが陛下の甘い所なのだ。まこと厳しい君主ならば、事情はわからぬでもないが罪は罪と、あっさり私を切り捨てているだろう。反逆者を一族から出してしまったのは事実だから」
 アルドゥインはぎょっとした。
「北の塔に収監するのは確かに、傍目には厳しい処分のように思われるだろうが、その実私が失うものはほとんどない。せいぜい名誉くらいのものだろう。領地も身分もそのままだからな。結局、罰さないのと同じことになる。本当に、お優しいことだ」
「お前なあ……」
 ため息をつくと、サラキュールはくすくす笑った。
「もちろん、感謝しておるよ。そのような君主を持てたことに。それに、甘いだけではこのメビウスの皇帝は務まらぬからな」
 言いながら、サラキュールは頬杖をついた。
「私を殺してしまえば話は簡単だが、そうはなさらなかった。アルマンド公は一門に謀反の企みがあったことを陛下に知られたまま、というわけだ。いわば、陛下に一番の弱みを握られたわけだな。そしてそこにこの寛大な措置、と来る。もとより歯向かうつもりなど私にはないが、これでますます陛下に忠誠を捧げねばならぬ」
「だが、陛下はきっと……」
「そうなのだ」
 アルドゥインが言いかけた言葉を、サラキュールは途中で遮って続けた。
「おそらく陛下は純粋に、私をあまり厳しく罰したくないと思ってこうなさっただけなのだろう。こうまで盛大に恩を売っておきながら、陛下には私に恩を売ったとか、弱みを握ったという自覚が全くないのが、一番困り物だな」
「サラキュール、そういうことを口に出して言っていいのか?」
「相手がおぬしで、聞いているのがジークだけならかまわぬさ。何せ私たちは、この国で一番の反逆者なのだろう?」
 サラキュールはどことなく試すような目をして笑った。アルドゥインもそれに応えて小さく笑った。
「そうだ、アルドゥイン。話は変わるのだが、明日も来てくれぬかな。できればまた酒など持ってきてもらえると嬉しいのだが」
「何でだ?」
 アルドゥインが首を傾げると、サラキュールは嬉しげに答えた。
「明日はジークの誕生日なのだ。このようなことは看守たちに頼めぬし、祝ってやるのが私だけでは侘しいからな」
「あ。もう一旬の銀の日でしたか」
 当人のジークフリートはすっかり忘れていたようで、頭の中の暦を確認するようにちょっと目を泳がせた。
「自分の誕生日を忘れてどうする、ジーク」
「最近ごたごた続きで、すっかり忘れておりました。……牢内で誕生日を迎えるというのも、なかなかない経験でございますね」
「つかぬことを聞くが、ジークフリート殿は今年で幾つになるんだ?」
「二十七です」
「…………そうか、そうだよな。うん」
「?」
 妙な間があったので、ジークフリートは不思議そうな顔をした。上であれ下であれ外見が実年齢と合わない人もいるし、言動が落ち着きすぎていること、サラキュールが彼には妙に甘えているように見えることから、実はアルドゥインは彼がもっと年上――下手をしたら三十を超えているのでは、と思っていたのである。そんな彼の様子を見て、サラキュールは疑わしげな声で訊ねた。
「さてはおぬし、ジークがもっと年だと思っていたか」
「そうなのですか?」
 ジークフリートが顔を覗きこんでくる。純粋に疑問に感じているだけのようなのだが、そんな目で見つめられるとよけいに何だか責められているようだ。
「いや、そんなことはないけど……ほら、ジークフリート殿は落ち着いているから、サラキュールより年上だろうとは思ったけど、それが幾つか判らなくて……」
 アルドゥインは何とか持ち上げようとしたが、結果としてサラキュールを「子供だ」と言っているようなものになってしまい、うまくいかなかった。
「全く、こやつは失礼な奴だな、ジーク。私を子供だと申したり、おぬしを老けていると申したり」
「いや、だから……それはすまん……」
「お謝りにならないでください。私は気にしておりませんから」
 と、微笑まれても困る。アルドゥインは逃げ出したい気分になった。が、扉からは出られないし窓から出るにも綱は片付けてしまってすぐには出られない。話題をそらそうと部屋を見回し、前回来たときには無かった物をそこに見つけた。
「……サラキュール、あれは何だ?」
 アルドゥインの視線の先を見やり、サラキュールはこともなげに答えた。
「見ての通り、楽器だが」
「何でそんなものが」
「退屈だし、近頃全く練習していなかったのでな。暇つぶしに持ってきてもらった」
「お前、囚人だって自覚あるのかよ」
「入用なものは何でも言いつけろと、看守長自らが申したのだから問題はなかろう。好意を無駄にしてはならんし、ここではすることもないからな。それ以外には場所にも食事にも贅沢は申しておらぬのだから、楽器の差し入れくらい可愛いものではないか」
 呆れ果てるアルドゥインに、サラキュールは胸を張って答えた。それでは反省しているようには見えないだろうとか、陛下と喧嘩した手前、反省の様子を見せたらそれはそれで問題なのか、とか色々考えたが、とりあえずこれ以上は何を言っても無駄だとアルドゥインは諦めた。
「そうだ。アルドゥイン、折角だから一曲聴いていけ。ジーク、よいな」
「はい」
 急に思い立ったらしく、サラキュールは軽い足取りで楽器を取りに行った。なぜジークフリートが呼ばれるのかと不思議に思ったアルドゥインだったが、理由はすぐに判った。二つある楽器のうち、ヴァイオリンをサラキュールが、バス・ヴィオールをジークフリートが弾く準備を始めたからだ。
(ジークフリート殿、楽器ができるんだ)
 身分高い貴族はたしなみとして何か一つは楽器ができるように仕込まれるし、アルドゥインも同様に十六歳までは弦楽器のビウエラをたしなんでいた。だが貴族ではあっても皇帝の直接の臣下ではなく、身分は低い従者にすぎないはずのジークフリートも楽器を弾けるというのは意外だった。
(案外、サラキュールが合奏したいからとかでやらせてたりな)
 アルドゥインがそんなことを考えているうちに、二人は何を演奏するかの相談も終え、音合わせを始めていた。サラキュールの合図でジークフリートが通奏低音を奏で始める。何小節かおいて、サラキュールが主旋律を弾き始めた。
「へえ……」
 人前に出せるような腕前でもないくせに、自分の手になるものを披露したがる人間も世の中には少なくないが、二人の演奏はなかなか見事なもので、聞いていけという要求に応えても納得できるだけのものは備えていた。
 ここが牢獄であることを考えてか、曲自体は華やかなものではなく、落ち着いた重厚な響きの曲である。簡単に言ってしまえば地味なのだが、それでも所々にさりげなく技巧を凝らしてあり、単なる指慣らしにしては難易度の高い曲といえるだろう。
 アルドゥインは感嘆の声を上げたきり黙って、その調べに耳を傾けた。
 北の塔に、時ならぬ流麗な音楽が流れてゆく。看守たちも咎めに来ることはなく、滅多に聞くこともできない美しい音楽に耳を傾けているようであった。

「Chronicle Rhapsody25 運命の一日」 完(2006年脱稿)


楽曲解説
・クオドリベット……幾つかのよく知られた旋律を一つの曲にしたもの。場面が区切りごとに変わるのでこんな題を付けてみました。エピグラフはイルゼビルのつもりで書きましたが、微妙にユナの心境かも。
・運命……ベートーベンから拝借。

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