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                                *



 水晶の間から近衛兵たちに左右を固められながら退出したユナは、その夜のうちにカルレオンに護送されることとなった。北のサーライナ門の前には既に、窓を目隠しの布で覆われた馬車が用意され、護送のための一部隊もそこに待機していた。
 国内外への外聞というものがあるので離婚こそせず、身分は皇后のままであったが、彼女が華やかな宮廷に戻ることも、大勢の人々にかしづかれ、皇后と呼ばれることも、もう二度とないだろう。
 追放される身のユナに、宮殿から持ち出せるものはほとんどなかったが、愛用のものや日用の品などで持って行きたいものがあれば、という配慮から彼女は一度紫晶殿に戻ることを許された。
 ユナが突然オルテア城を去る理由はまだ全員には明らかにされていなかったが、ユナの行動を監視するために後宮に共に入ってきた憲兵の存在に、不穏な空気と予感を感じ取ってでもいたのだろう。戻ってきたユナを迎えた女官たちの顔は一様に不安げにこわばっていた。
 ユナの罪状と、追放の由を知らされた皇后付き女官長のビューラはあまりのことに卒倒しかけ、女官たちもあからさまな動揺と狼狽をあらわにしてざわめいた。それを鎮めたのは、やはりユナであった。
「静かにおし。要らぬ騒ぎを起こすでない。お前たちのくだらぬ騒ぎでわらわを疲れさせるのはおやめ」
 たちまち、女官たちは顔を青ざめさせながらも口を閉ざした。そして、命じられた旅立ちの準備や、ユナ自身の身支度を整えるために動き出した。
 何も告げられていなかったし、生活の場は完全に区切られていたので、ユナは扉一枚隔てた棟にいる息子に何かを伝えることも、別れを告げることもできなかった。が、それについて彼女は一言も口にしなかった。ただ、身だしなみを整えるために座った鏡台の前で宝石きらめく装飾品がいくつも納められた宝石箱を膝に載せ、小さなため息を一つついただけであった。
「レティシア」
 髪を整えなおしている女官に、ユナは鏡を通して目を向けた。
「何でございましょうか」
「これはわらわにはもう必要のないもの。この宝石箱も、他の宝飾品も、そのまま全てルクリーシアに届けなさい」
「はい……」
 一つだけ取り出した小さな指輪を指先で弄びながら、ユナは静かに言った。レティシアが目頭をこっそりと拭ったのを見たけれども、彼女はもう、常のようにそれを叱り飛ばすようなことはしなかった。
 やがて一時間後、全ての準備が整えられて紫晶殿の裏玄関にユナが姿を見せた。カルレオンまでは、山道を数日かけての行程となる。それを考えてか、彼女はあまり裾の広がらない暗いグレーのドレスに衣装を改めていた。先ほどまで身を飾っていた宝石は全て外し、別人かと見まがうほど質素な装いとなっていた。さすがに身分高い女性の護送であるので、事情をあらかじめ知らされた女官が二人、世話係としてカルレオンまでを同道することになっていた。
「ご準備はよろしいでしょうか」
「ええ」
 紫晶殿を出たところで待っていたアルドゥインたちに、ユナは頷いた。背後には荷物を手にした女官が数人いたが、これは護送を承る兵士たちが受け取って先に馬車へと駆け足で向かった。ユナはゆっくりとした歩みでそれに続いた。
「その指輪は……」
 ユナの右手の中指に嵌められたトパーズの指輪の輝きに目を留めて、アルドゥインが尋ねた。ユナは眉をしかめて指輪の宝石を押さえ、尋ね返した。
「わらわが指輪をしていては、何か問題でも?」
「ございませんが……本当にその指輪でよろしいのですか?」
 何となく困惑したような顔で、アルドゥインは確かめた。
「かまわぬ。宝石など、カルレオンに持っていっても致し方のないこと。わらわにはこれだけで良い」
「……」
 アルドゥインは何か言いかけたが、しかしそのまま口を閉じてしまった。
 イェラインとアスカリヒが法の執行者として出発を見届けるためにそこで待っていたが、他に見送る者も、別れを告げに来る者とて無い。彼らの他には護衛や監視のための兵士たちしかいない。いかにも罪人らしく、夜闇に紛れて密かに送り出される。それはあまりにも哀れで侘しい転落の姿であった。
 ユナを護送する馬車とは別に、荷馬車に荷物が積み込まれる間、ユナは馬車に乗り込むこともせず待っていた。誰一人として口を開くこともない。そんな中で、つとイェラインがユナに近づいた。気配に気づいて振り向いたユナは、硬い表情で一礼した。
 数秒続いた沈黙を破ったのはユナの方からだった。
「陛下に最後のお願いがございます」
「何だ? 言ってくれ」
「こたびの事に、パリスは全く関係ございません。全てわらわの責任です。ですからわらわの罪は罪として、どうかパリスにはこれまで通りに接し、遇してくださいますようお願いいたします」
 深く頭を垂れ、ユナは低い声で言った。イェラインの表情も暗かった。
「それは無論のこと。あれは私の息子でもあるのだから。パリスのことについては何も心配要らぬ」
「有難うございます」
 表情は全く変わらなかったが、ほっとしたようにユナは顔を上げた。彼女の母親らしい言動を、アルドゥインは初めて見たように思った。その時、荷物を全て積み終わったと、出発の準備が整ったことを告げる声がかかった。
「それでは、失礼いたします、陛下。二度とお会いすることもございませんでしょうが……。どうか幾久しくお健やかに」
 毒を盛らせた本人が言えば皮肉とも取れる挨拶を述べて、ユナは背を返した。歩き出したユナの背中に、イェラインはすがるような声をかけた。
「最後に、一つだけ答えてくれぬか、ユナ」
「……はい?」
 落ち着き払った様子で、ユナが振り返る。今では裁きの場での狼狽も、剥き出しにした感情も、全て鉄のような無表情の仮面の下に隠されてしまっていた。代わって今度はイェラインが苦悩するかのような表情を浮かべる番だった。
「何故、このようなことを。それほどまでにそなたはミラルカを憎み……私を憎み、パリスを帝位につけたかったのか?」
「何故? 何故と仰せですか」
 ユナは唇を笑いの形につり上げた。
「ミラルカが憎かった――? パリスのため――? いいえ。どれも違います。あの女の娘が皇帝になろうが、我が息子がなろうが、そのようなこと、本当はどうでもよかったのです。たまたまラルホーン伯がパリスを帝位にと申しましたゆえ、事のついでにこちらも手を貸してやろうと思ったまでのこと」
 全ての憶測を否定した、あまりにも意外すぎる答えにイェラインは目を見開いた。
「ならば、何故……」
「ただ、あなたをこの手で殺してやりたかった。殺して、永遠にわたくしのものにしてしまいたかった。それだけのことです」
「……」
 呆然と言葉を失ったイェラインの表情を、ユナは楽しむように見つめた。いたわるような、残酷な優しさにも似たものをそのおもてに浮かべて。
「わたくしを恐ろしい女とお思いですか? ですが、全てはあなたのせいです、陛下。あなたがわたくしをこのようにしたのです」
 イェラインは意外な言葉を聞いたような表情を浮かべた。
「わたくしが初めから、陛下を憎んでいたとお思いですか。それは違います。わたくしは陛下を愛しておりました。心のまことを捧げて愛したのです。この二十数年、わたくしは陛下だけをお慕い申し上げておりました。わたくしの望みはただ一つ、陛下に愛されることでございました」
 ユナは夫の顔を真正面から見つめ、目をそらさなかった。
「でも、陛下はわたくしを一度も見ては下さらなかった。陛下はミラルカをしか見ておられなかった。ミラルカが死んだ後ですら、陛下のお心はミラルカにのみ向かっておいでだった。幾年過ぎようとも、子まで成そうとも、決して顧みぬ人に、どうして愛を捧げ続けられましょう?」
 ユナの血を吐くような叫び。イェラインはその目に見つめられて、耐え切れなくなったようにかすかにうなだれた。男のようなユナの顔が、初めて女らしい感情に揺れ、女性的なものを感じさせた。
「どうせ手に入らぬお心ならば、望むことを諦めようと思ったまでのこと。あなたに愛されぬのなら、わたくしももうあなたを愛さない。それだけのことでございます」
 それほどまで感情を高ぶらせていながら、ユナの瞳は乾いていた。だが、アルドゥインにはユナが涙を流しているように思えた。夫殺しを企てた悪女の姿は、もうどこにも見えなかった。そこにいたのは傷ついた心を抱え、二十数年もの間悩み、苦しみ続けた一人の女だった。
「あの娘一人を愛しておられれば良かったものを、何故わたくしを娶られましたのか。ミラルカを死なせたのは、あなたです。あなたがわたくしに、あの娘を殺させたのです。あなたゆえに、わたくしは人殺しに成り果てました。お恨み申し上げます。きっと、お恨み申し上げます」
 言い終えて、ユナは右手を口もとにやった。何事かと左右の近衛兵が顔を向け、アルドゥインが彼女の手を止めようとして手を伸ばす。しかし、彼女は既に指輪の宝石を口に含んでいた。
「皇后陛下!」
 とっさにユナの手を取って口から離させたが、すでに遅かった。トパーズを嵌めた台座が蓋のように開き、台座の空隙に納められていた何かの白っぽい粉末が僅かに残っていた。それが致死性の毒であると、その時になってやっと周囲の人々も気づいた。誰かが慌てて叫んだ。
「医師を! 早く!」
 ユナの体ががくりと力を失って崩れ、アルドゥインはユナの手を掴んだ腕と反対の腕でその体を支えようとした。しかし、ユナは意外なほどの強さでその腕を振り払い、石畳に膝をついたままイェラインを見上げた。
「ユナ……」
 どうすることもできず、イェラインは妻の顔を見た。ユナの顔は死人のように青ざめ、額に脂汗が浮き始めていた。それでも、彼女は気丈に体を真っ直ぐに伸ばしたまま、笑うように顔を歪めた。
「陛下……ご覧なさい。あなたが不幸にした女の死に様を。わたくしには……このような死こそふさわしい」
 ユナは喉元を両手で掴んだ。その喉が大きく引きつり、人とは思えぬようなくぐもった音が漏れた。それでも彼女はもう一度顔を上げ、自分が二十年以上も愛し、そして憎み、けれども決して自分を愛さなかった――何の感情も、情愛も通わせることはなかった夫を見た。まるで、その姿を瞳に焼き付けて、この世の名残にしようとするように。
 そのまなじりに一筋、流れるものがあった。
「……お慕いしております……たとえ地獄に落ちようとも……」
 ゆっくりと瞼が閉ざされる。それきり、ユナの唇が動くことは永遠になかった。
 それが――メビウス皇后ユナの最期だった。

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