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     おお、運命よ 姿を変える月の如きものよ
     お前はつねに満ち また欠ける
     恐ろしく はかない運命
     お前は回る輪 お前はつねにもろい
                    ――オルフェ




     第四楽章 運命




 ユナは顔を青ざめさせ、口を半ば開いたまま一言も発することができずにアリアガとロランドの二人を見つめていた。
「フォアメルリ殿。貴殿を刺した者を貴殿は覚えておられるか」
 アスカリヒの問いに、アリアガは頷いた。
「その者らがしていた会話も、それが誰であったのかも、私ははっきりと見聞きし、覚えております」
「その者は、この場にいるか」
「そうです」
 アリアガは真っ直ぐにユナを見据えた。顔色はまだ悪かったが、杖に頼りながらではあったがしっかりと自分の足で立ち、右手を力強く挙げてユナを指差した。
「アルマンド公を暗殺した後に皇帝陛下と皇太子殿下を暗殺するたくらみを立て、私を殺せと命じられたのは――あなただ、皇后陛下」
「……」
 凍りついたようなユナの表情。その体が小刻みに震えていた。アリアガの告発から、しばらくの沈黙を置いてユナは口を開いた。当人を前にして告発を否定できるだけの対抗手段を彼女は持っていなかったので、その事には触れずに別の逃げ道を探した。
「そなたを刺したのは、わらわではない。わらわは何もしておらぬ」
「さよう。手を下したのはラルホーン伯です。陛下に命じられる前に、彼が私を殺そうとしたことも確かです」
 答えるアリアガの目には、どこか憐憫のようなものがあった。
「ならばラルホーン伯を呼べ。女の身なるわらわ一人を尋問の場に立たせるとは、騎士の名にもとる行いぞ」
 朝のサラキュールに対する査問の場に出席せず、その前からこの件に関する情報が入らぬようにされていたユナは、当然カミーユが死んだことを知らなかった。彼女は男たちを睥睨し、叱りつけるように言った。
「陛下が仰るのはカミーユ卿のことでございましょうが、彼は亡くなりました。昨夜、アルマンド公の手にかかって」
 アスカリヒの言葉に、ユナはさらなる衝撃を受けたようであった。
「どういうことです。……まさか……」
「そうです。表向きは当主であるアルマンド公に対する謀反が誅伐の理由でございますが、本当の理由は陛下ご自身が一番よくご存知でしょう」
「……」
 ユナは何も言わなかったが、その表情が何よりも雄弁に語っていた。アスカリヒの後を引き受けて、アルフォンソが続けた。
「よし、この計画を思いついた者が亡きラルホーン伯であったとしても、加担したあなたの罪が雪がれるわけではない。もしそうであったならば、臣下の叛心を諌め、皇帝陛下にそのことを申し上げるのが皇后としてのあなたのつとめであったはず。それを忘れ、あろうことか自ら暗殺者を手配するなど――どのように仰られようとも、免れようもない罪でございます」
 厳しい言葉であった。
「皇后陛下がイェライン陛下を暗殺せんと送り込んだギウリアと申す毒使い、ならびにリュアミル殿下のもとに送り込まれたモルナの両名、すでに捕らえて獄中にございます。両名とも、誰に雇われて何を命じられたのか、全て白状しております」
 アルドゥインがとどめのように言った。その目は静かだが深い怒りに燃えているようだった。もう言い逃れはできなかった。ユナにできるのは、取り乱さずにこの状況を受け入れることだけであった。
「わらわに、どうせよというのです」
「それは我々が決められることにはございません。これより後のことは、全て皇帝陛下のご意思にお任せいたします」
 アスカリヒの言葉を待っていたように、玉座横の扉が、再びかすかな軋みを上げて開いた。ユナの目がたゆたうようにそちらに向けられる。
「あなた……」
 現れた人に、ユナの表情は再び大きく揺れた。その瞬間から、ユナはイェラインしか見ていなかった。あれほど憎んでいたのに、その傍らについて入ってきたリュアミルには全く目もくれず、夫の姿だけを見つめていた。
 殺そうとした者と、殺されそうになった者。二人の視線がぶつかりあった。だがその対峙から先に逃れたのは、ユナの方だった。うつむくように目をそらしたユナに、アスカリヒが問う。
「皇后陛下。あなたの罪は、陛下に対する暗殺未遂だけではございませんな?」
 ユナは何も答えなかった。
「ミラルカ妃殿下の死を覚えておいでか」
「何を今さら、そのような賤しい女の名を出すのです」
 彼女は明らかにその事には触れたくない様子で顔を上げ、アスカリヒを睨んだ。罪を暴かれて打ちひしがれてはいても、彼女の豪胆はいまだ萎えていなかった。アスカリヒを制して、口を開いたのはイェラインだった。
「忘れたとは言わせぬ。ユナよ。お前は、ミラルカを殺したな」
「……」
 視線をそらしていたユナの肩がぴくりと動いた。続いた沈黙は、これまでのどの沈黙よりも長かった。やがて、ユナは震える唇を開いた。
「あの女は自ら毒をあおったのではございませんか、陛下。それまで、わらわのせいになさいますか」
「だがその毒は――」
「あなたが母に、贈られたものでございました。皇后陛下」
 初めて、リュアミルが口を開いた。このような場ではほとんど口を出さないリュアミルであっただけに、思わずその場の全員がリュアミルを見つめる。イェラインまでもが彼女に目を向けた。
「私ははっきりと覚えております。母が飲んだワインは……あの毒入りのワインは、皇后陛下が母にお手ずから下されたものです」
 リュアミルは長い睫毛に感情を隠すように伏し目がちになりながら、ユナではなく腹の上の辺りで組んだ自分の指先をじっと見つめていた。それは、何かに耐えているようでもあった。
 それから彼女は、しんと静まり返った中で最初に父親を見、それから背後の男たちを振り返った。
「父上、差し出口をお許しください。法務大臣、続けてもよいですか?」
 虚を衝かれたようにアスカリヒは一瞬肩をこわばらせたが、すぐに頷いた。
「殿下のお言葉は重要な証言と思われます。どうぞ、お続けください」
 リュアミルは礼を言う代わりに軽く頭を下げ、再びユナに体を向けた。
「そのワインを、母は飲まずに置いておりました。女官たちにも手を付けてはいけないと命じて。その理由は、陛下ご自身がよくご存知でしょう。一月経っても手付かずであることを知ったあなたは、どうして飲まぬのかと母を詰った。皇后の贈り物を受け取らないのは、おのれの方が皇帝陛下の寵愛を受けていると自惚れてでもいるのか、と」
 妾妃の立場で、正妃であるユナに逆らえるはずもない。ミラルカに許された選択肢は一つしかなかった。イェラインに打ち明けて助けを求めるという選択肢もあったはずだったが、気の優しい彼女にはそんなことはできなかった。
 リュアミルは眼前に浮かぶ何かの光景を振りやるように一度強く目を閉じ、それからまっすぐにユナを見据えた。
「――母は死にました。皇后陛下が贈られたワインを飲んで、私の目の前で」
 イェラインは瞠目した。
 ミラルカが幼い娘の目の前で命を絶っていたということを、彼はこのときまで知らずにいたのである。彼がミラルカの死を知らされたとき、既に彼女の遺体は現場から移されていたし、発見した女官はミラルカに取りすがって泣くリュアミルを見て、第一発見者が幼い皇女だということはわかったが、まさか死の瞬間にまで立ち会っていたとは気づかなかった。リュアミル自身が母の死を語るのも、これが初めてだったのである。
 この事が、リュアミルの心に影を落としたのは間違いないことだろう。自分もいつ母と同じ仕打ちに遭わないとも限らないのだ。だから、二十年近くもおのれの心一つにしまっておいて、明かさずにいた。
「それでもそなたは、ミラルカの死におのれは関わっておらぬと申すか?」
 口をつぐんでしまったリュアミルに代わって、イェラインが訊ねた。ユナは何を思ったか数秒目を伏せて黙っていたが、やがてゆっくりと首を横に振った。
「もう、何も申しますまい。わらわを罰すると仰せなら、なさりたいようになさいませ、陛下」
 それまでの抵抗から考えると不気味なほどしおらしく、ユナは言った。イェラインもまた、口重くなりながら告げた。
「……メビウス皇后ユナ・ド・ハークラー・ドゥ・メビウス。ミラルカ・デ・セフェリス殺害及び皇帝と皇太子に対する暗殺未遂の罪により、そなたにカルレオン城での蟄居を命じる」
 カルレオンは皇帝の直轄地の中でも最も北に位置する、最も近い町にも馬で半日以上かかるような、メビウスの中でも特にひなびた山中の城である。それは罪に問われた者が逼塞するにはふさわしい、寂れた場所であった。
「何か、申すことはないか。ユナ」
「……あなたにはございません。ただ、リュアミルに申したいことがございます」
 かぶりを振って言いながら、ユナは暗い目でリュアミルを睨み付けた。だが、リュアミルは怯まずにその目を受け止め、真っ直ぐに見返した。紅のはげかけた唇が歪み、低い声が漏れた。
「これで満足か、リュアミル。お前のその、いかにも耐えているのだというしおらしげな顔を見るだけで虫唾が走る。お前はわらわを憎んでいるのだろう。そうならばそうと態度で示せばよかろう。この偽善者め」
「私はあなたを憎みません、皇后陛下」
 リュアミルは静かに言った。
「偽善者と仰るならそれでもいいでしょう。確かに陛下は、私の母を殺し、私を殺そうとしました。それを思えば心安かろうはずがありません。母は死ぬ前に、あなたを恨んではならないと言い残しましたが、偽りなく申し上げるならば、私はあなたを許すことができません」
 決して声を荒げることはなかったが、リュアミルの声はどことなく強かった。
「けれど――あなたを憎んだら、私はあなたと同じになる。あなたは私の母を憎み、母を愛した父を憎んで生きてきた。私は、自分の人生を憎しみや恨みなどで閉ざしたくはない。憎しみや恨みからは、何も生まれません。何も生まれないだけではなく、いずれはおのれ自身を食いつくし、破滅させるだけだと私は信じています。だから、私はあなたを憎みません。むしろあなたが哀れでなりません」
 それは義母に対して反論など一度もしてこなかったリュアミルの、初めての反論だった。彼女の言葉を聞いたとたん、ユナの顔がさっと青ざめ、半ば開きかけた唇がわなわなと震えた。リュアミルの声は優しかったけれども、それはユナの半生を否定し、ユナを拒否する言葉に他ならなかったからだ。
「皇后陛下、こちらにおいでいただきましょう」
 アスカリヒと、入ってきた二人の近衛兵が、それきり言葉を失ってしまったユナを促した。ユナはふらつくような足取りでそれに従い、水晶の間へと続く回廊に歩いていった。彼女の後ろ姿をリュアミルは毅然と顎を引き締め、真っ直ぐに背中を伸ばしたまま見送った。リュアミルのロザリアの花を思わせるその瞳は、これまで誰も見たことのないような強い光をたたえていた。

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