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     君が旅立ち
     遠く隔たる空の下にある時
     我が身は共にあらざれども
     愛し人よ、我が心は常に君とともに
              ――ベンガリアの歌より




     第一楽章 遠い空




 新年もはや一旬が過ぎ、街中に満ちていたお祭り気分もようやっと全て消えた。街角に飾られていた新年を祝うオヴァリフォリアのリースや花飾りは取り外され、人々の暮らしは日常へと返っている。
 常と変わるところのない新年であったが、クラインでは少し違った意味もあった。去年の元旦にレウカディアは戴冠式を済ませた。つまり今年のユーリースの月で、彼女の治世が始まってまる一年が過ぎたことになる。
 一年が過ぎたのだし、これでレウカディアも自信をおいおい付けて落ち着いていくだろうというのが、大方の貴族たちの見方であった。しかし新年のパーティーにせよ初謁見にせよ、レウカディアの憂鬱そうで不機嫌な態度にあまり去年と変わるところはなかった。そしてカーティス公が公務においても私生活においても、女帝に遠慮がちであるのも変わらなかった。
 そのカーティス公の居城、レンティア小宮殿。
 冬には冬の花が咲き乱れる美しい庭園に囲まれた宮殿は、あたかもそこだけは常春の国であるかのような趣をただよわせている。アラリアで水色一色に統一された花壇に面する一室で、サライは久々の来客を迎えていた。黒光りするほど磨き上げられた寝椅子の肘掛けにそっと置かれた腕は、前よりも痩せたように見えた。
「変わりはないようだね。奥様はお元気?」
「はい。その節はお見舞いをいただきまして、ありがとうございます」
 大いに照れながら、バーネットは頭を下げた。去年のルデュラン伯爵家は慶事続きであった。八月にバーネットがファウビス法務大臣の娘ナジア姫と結婚し、彼の妹フレデグントも同じ月にアーバイエ候シェレンに嫁いだ。そして十月には、兄妹の父であるワルターと、シェレンの母、アデリシア夫人が再婚し、何ともややこしい親族関係になってしまったのであった。
「とはいえ、私事でお招きをお断りしてしまい、申し訳ありませんでした」
 先日レンティアで開かれたカーティス公の新年祝賀パーティーにバーネットは招待されていたのだが、妻の悪阻がひどかったので、傍についているために欠席したのである。その謝罪とあらためての挨拶のために、今日彼はサライを尋ねたのだった。サライは薄く微笑んだ。
「そんなことは、謝る事でも何でもないよ。大事な時期なのだから、大切にしてあげなければ」
「ありがとうございます」
「君が父親になり、私も春には結婚する。……時は過ぎるものだね」
 ため息のような呟きだった。来旬には、婚約者となったヴェンド公の息女ファイラ姫がカーティスにやってくる。結婚式までの間、サライの後見人であるダネイン候アリオンのもとで暮らす予定となっている。ヴェンド公にしてみれば、故郷を遠く離れて嫁ぐ娘に、その間にクラインの風習やカーティスの水に慣れてもらい、クライン宮廷に馴染ませておこう、というつもりらしい。
 その知らせを、サライは奇妙な感慨とともに受け取った。自分が結婚する、という実感がどうしても湧いてこなかったのである。顔も見たことがない妻を愛せるのかどうか判らなかったし、同じように相手が自分を愛してくれるのかも判らない。不安ばかりが先に立っている、といってもよかった。
「そうですね。サライ様と初めてお会いしたのは、サライ様が精鋭軍に入った時ですから……」
「十四歳のときだよ」
「なら、私は二十か二十一でしたか。それから考えれば、もう九年になります」
「でも君は変わらないね」
 サライはバーネットを上から下まで見つめた。バーネットは二十九歳になったばかりだったが、毎日体を鍛えているせいもあるのか、見た目には二十をそれほど越えていないくらいに見えた。
「私はもう成長しきっていましたからね。まだ子供だったサライ様と違って。あんなに小さかったサライ様が、あっという間に隊長になって、今ではカーティス公にまでなってしまわれたんですから。時とは過ぎるものですね」
「本当に、生意気な子供だったな。今にして思えば」
 肘掛けに頬杖をつき、懐かしむ口調でサライは言った。
「十四歳から所属できるとはいえ、本当にその年で精鋭軍に入った者は、私以来いなかったんですよ。サライ様まで」
「憶えているかな。確か初対面の時に君はそう言って、手を差し出してくれたんだ」
「憶えていますよ」
 バーネットは頷いた。
「それに、髪と瞳の色が周りと全く違うのも、私とサライ様しかいませんでしたから。親近感があったんですよ。それまでは私一人が仲間外れだったんですが」
「仲間外れの仲間ができた、と」
 二人は顔を見合わせ、大笑いした。レウカディアと同様でこのところ沈みがちなサライが、声を上げて笑うなど久しぶりの事であった。
「失礼いたします、サライ様」
 笑いの余韻を口許に残しつつ、サライは振り向いた。
「どうした?」
 二人の会話を遮ってしまうことをあきらかに済まながっている様子で、アトは一礼して室内に入ってきた。
「エルカンゲールから報告がまいっております」
「そうか。アト、私が仕事を後回しにしても怒られないかな?」
 アトは微笑んで頷いた。これほど楽しげにしているサライを見るのは彼女にしても久々のことであったので、その気分を壊したくなかったのである。
「ナカーリアの刻までは結構ですわ。それほど急を要することではございませんようですから。エルカンゲールは次の間に待たせておきます。では」
「ありがとう」
 バーネットにも会釈して、アトは退室した。それを待って、バーネットは驚いたようなため息と共に言った。
「アトもすっかり大人になりましたね。幾つになるのでしたか」
「今年のディアナの月で十九だったかな。もうすぐ成人だ」
 アトがカーティスに来てからの年数を、サライは指を折って数えた。それから、何を思ったか声を立てずに笑って首を振った。
「懐かしがるほど昔の事でもないのに――。まるで老人だな」
「しかし、たった三年ほどでも、色々な事がありましたから」
「本当に」
 サライは言い、背もたれに背を預けて伸ばした。
「そういえば、話は変わるけれど、子供はいつ生まれる予定なの」
「ヌファールの月か、サライアの月になるそうです。フレデグントの方もそれくらいだそうで」
「その時にはお祝いを是非とも贈らせてもらうよ。君の父上も大変だね。一度に孫が二人もできてしまうと」
 結婚生活について先輩となったバーネットに幾つか尋ねたり、他にも精鋭軍時代のことで取りとめのない会話を楽しんで、退出する予定の時間まではあっという間に過ぎてしまった。
 玄関までバーネットを送ると、サライはエルカンゲールを待たせている部屋に向かった。エルカンゲールは、魔道師の塔とは別にサライが私的に雇い、中原各地に送って情報収集をさせている魔道師たちの一人であった。彼の受け持ちはゼーア三国、主にエトルリアを中心とする地域である。
(定期報告の日にはまだ早いし、新年早々、エトルリアで何か起こったようだな)
 国どうしの大きな戦争などもなく、このところ中原は静かであった。或いはそれは、嵐の前の静けさと言うべきものであったのかもしれなかったが。
「待たせてすまなかったね」
「いいえ、わたくしこそご来客中に失礼いたしました」
 部屋に入っていくと、エルカンゲールはさっと立ち上がって、主人を迎える時の礼をした。年の頃は二十代半ばの、まだ若い男である。隠密的な任務を帯びているので、魔道師のマントは身につけず、ごく普通の庶民の服を着ていた。それが魔道師と判るのは、額の環と、ベルトの代わりにさりげなく腰に巻かれた祈り紐があるからだった。
「かけていいよ。報告してくれ」
 エルカンゲールに座るように促して、サライは自分も椅子に腰掛けた。
「ラトキアでエトルリアに対する独立戦争が勃発いたしました。一両日中に宮廷の方にも情報が入ると思います」
「ラトキア軍を率いるのは?」
「第三公女シェハラザード姫です」
「やはりな」
 サライは頷いた。エトルリア大公の妾妃として白亜宮に監禁されていたシェハラザード公女が脱走したとの情報が入ったのは二ヶ月ほど前のことである。充分に予測できる事であった。
「それで、経過はどうなっている?」
「シェハラザード公女は一日にフェリス近郊で旗揚げをいたしました。その後シャームに向けて進軍し、現在はシャーム近郊のミシアで両軍とも膠着状態にあります」
「ふうん……。エトルリア側は手をこまねいているのか。意外だな」
 ゼーア最強の軍を誇るエトルリアが、実戦経験のない公女に率いられた寄せ集めの軍隊に膠着しているとは、サライには少々意外だった。
「エトルリア軍の主将はシャームに駐留していたラン公子。麾下の駐留軍と、もとラトキア兵によって構成された軍の合わせて二万強。対するシェハラザード公女軍は、ラトキア軍の残党を集め、さらには義勇兵として近隣の農民などが男女を問わず参戦しておりますので、実際の数字はつかみかねております。恐らく五万ほどになっているのではないでしょうか。そのどれほどが兵力になるのかは疑問ですが」
「それだけ集まっているのなら、エトルリア軍にはかなりの圧力だろうな。よほどエトルリアは嫌われているらしい」
 サライの口許に、皮肉めいた笑みが浮かぶ。
「公女の旗揚げを聞いて、各地でエトルリア軍に対する抵抗運動が活発化、内乱状態になっておりまして、その鎮圧に兵を割いている結果、数で押しつぶすという事もできかねているようです」
「我が国に援軍を求める、というような恐れはあるか?」
「現時点では無いものと思われます」
「それは結構。まあ、仮に援軍を求めてきても、陛下が首を縦に振る事は無いだろうけれどもね」
 だいぶ興味を失いつつある様子で、サライは両手の指先を軽くぶつけ合わせて遊びはじめた。
「ああ……エルカンゲール。シェハラザード公女の軍にはどんな武将がいるのか、情報はあるかな」
「はい。旧ラトキアの廷臣で主だったものとしては青騎士団副団長マギード・ステラ、白騎士団団長ハディースがおります。後はフェリス伯ら、戦争責任を問われ処刑された武将の遺児たちが数人加わっているようです」
 エルカンゲールは覚書らしい紙の束を繰りながら答えた。
「そこそこの人材は残っているようだな」
 ひとり言のように、サライは言った。エルカンゲールの覚書はまだ続いていた。
「そしてこれはラトキアの廷臣ではございませんが、アインデッド・イミルと申します男がおります」

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