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                                *



「おお――」
 シェハラザードの宣言を聞くなり、マギードとハディースをはじめ、ラトキア側の武官たちは感慨たっぷりの声を上げた。ラトキア大公の遺児が再びラトキアを彼らの手に取り戻してくれること、それこそが彼らの悲願であったのだから無理もない。
「では、明日にも――?」
 期待を隠しきれない様子で、赤騎士団の制服を着た青年が机に身を乗り出すようにして尋ねた。生粋のラトキア人らしく、黒のようにも見える濃い栗色の髪と、それよりも淡い瞳を持った、少女のような面差しの青年である。
「……そなたは?」
 シェハラザードは彼に見覚えがないようで、首を傾げた。
「失礼いたしました。私はポールと申します。前大公閣下より赤騎士団第二隊長を拝命つかまつり、このたびはもと赤騎士団であった者百七名を率いてこちらに馳せ参じてまいりました」
「百七とはまた、少ないわね」
「申し訳ございません」
 ポールは悲しげに呟いた。
「あの戦いのみぎり、セナメン閣下と第一隊長テレスフォロスを失い、エトルリア兵に囲まれ――赤騎士団はほぼ全滅いたしました。それゆえ、私が率いていたもとの部下しか集める事ができず、このような次第に」
「すまながることはないわ。そなたの忠義、嬉しく思います」
 つい言ってしまった本音で、彼に非常に心苦しい思いをさせたと気付いて、シェハラザードはすぐに何か慰めになりそうな言葉を探した。
「ともあれ、そなたたちは長駆タリムまで馳せ参じ、到着したのが昨日の真夜中――今日一日だけで兵士たちが充分に休息を取れたとは思えない。それに、今日は軍議で随分と遅くなってしまったし……」
 そう言って、シェハラザードは窓を見た。石壁の間に細く隙間を入れただけの窓であるが、外が既に真っ暗になってしまっているのは見えた。気付けば、部屋に置いてある蝋燭もだいぶ短くなっていた。
「明日は大晦日、ヤナスの聖日です。ヤナスは血を嫌うもの――ここは一日おき、開けて新年を迎えた元日に旗揚げを行えば、シェハラザード公女殿下による新たな時代の幕開けを飾るにふさわしく、また一は吉数であり、神々の加護は我々と共にあるでしょう」
 シェハラザードの言葉を補うように、ルカディウスが続けた。
「ルカディウス殿の言うことにも一理あるな」
 マギードが頷いたのをきっかけに、その場にいた面々も互いに顔を見合わせたりしながら頷きあった。最終的な判断を下したのはシェハラザードだった。
「では、正式な旗揚げは来年――ユーリースの月の一日とする。それと同時にこの砦は放棄し、シャームへ進軍を開始する」
 ルカディウスの思惑どおりにことが進んでいくのだが、誘導されているとは、単純なラトキア人には判らなかった。ルカディウスにしてみればティフィリス人のアインデッドもやや扱いにくくはあるが基本的には単純だとしか思えない人種だったので、アインデッドがその深緑色の目をすうっと細めて自分を見たのには気付かなかった。
 夜明け近くなってから、ようやっと軍議は終わり、アインデッドは足早に自室に戻る途中だった。そのあとを、ルカディウスが追いかけていく。
「アイン、アイン。何か怒ってないか、お前」
「当たり前だ」
 アインデッドは立ち止まり、ルカディウスの方を初めてまともに見て憮然として言い返した。ルカディウスは思わず首をすくめる。アインデッドは哀れなルカディウスなどには頓着せず、つんけんと言った。
「だいたい、何で俺がティフィリスの王子様にならなきゃならねえんだ。俺がいつお前にそんなほらを吹いた。いや、それよりも打ち合わせもなしにあんな事を言われたらこっちだってびびるじゃねえかよ。何と言えばいいのか、本当に困ったんだからな。今後はあんな馬鹿な事を、二度と言うんじゃねえぞ。いいな。それから、変な陰謀を巡らせるのは勝手だが、全部でなくてもいいからそういうことは俺に少しくらい、概要くらいは話せ。でないとお前の言うとおりになんぞ、動いてやらねえからな。俺の利益とお前の利益が一致してるから、今は一緒に行動してやってるだけなんだからな!」
「アイン――どうしてそう、俺を傷つけるんだよ。デッディ、デッディ! あの発言は確かに良くなかった。謝るよ。だからいいかげん機嫌を直してくれ」
「その愛称で呼ぶんじゃねえって、俺は前にも言ったはずだがな? 俺の機嫌を直したいならさっさとここから、俺の目の前から失せろ。そうしたら直るだろうよ」
 吐き捨てるようにして激しい言葉を叩きつけ、アインデッドはきびすを返してまた歩き出した。
(お前に何の価値もなくなったら――いや、お前の存在が俺の不利益、不幸につながりそうになったら、俺はもうお前の人形なんかやってやらねえぞ)
 アインデッドはまた、深い物思いに沈んでいた。
(俺がいつまでもお前の操り人形をやってると思ったら、大間違いだ。あくまで俺は俺だし、もし俺を自由にしようなんて考えを持っていやがると判ったら――覚悟してやがれ。そのそっ首叩き切ってやる)
 アインデッドの思考パターンは、性格そのもの歪みきって曲がりくねったルカディウスのものよりもたしかに単純であったが、それでもルカディウスが思っているほど彼は単純明快ではない。ひとよりも頭はいいし、ルカディウスが彼を操ろうとしていることくらいは薄々勘付いていた。ただ単に彼は深く考えるのを面倒がっているだけで、やろうと思えばルカディウスがいなくてもシェハラザードを救う事ぐらいはできただろう。
 しかしなにぶん、いちいち細かい事をとやかく言うのが好きではなかったので、ルカディウスの言うとおりにしてやっているのであった。大体、アインデッドは人に命令されたり、人の言うとおりに動くのが大嫌いだった。それにルカディウスがまだ気付いていないのが今は幸いであった。
「ああ、退屈だな。さっさと戦争が始まってくれりゃいいんだが。そうしたらルカ公がお膳立てしたものでも、喜んで戦ってやるのに」
 アインデッドは物騒な事をぶつぶつと呟いた。しかし人殺しが楽しいのかと問われたら、それは違った。ただ、自らを死にさらす事だけがアインデッドにとって自分の生を感じられる瞬間であり、それだけが生きる意味なのだった。
 死とともにあって、死に最も近づきつつ、それを拒んで戦うとき、アインデッドは自分が生きているのだと強烈に感じる。いつ死ぬかは判らないから楽しめるときには楽しんでおこうと思うし、そんな傭兵気風の生き方を愛している。
「早く戦いてえな。練兵程度じゃくさっちまうぜ、全く」
 物騒この上ないことを呟きながら、アインデッドは自室に戻った。しかし、彼と別れたルカディウスは自室の前に、あるところに立ち寄っていた。
「マギード殿、お時間を少々いただいてもよろしいでしょうか」
「おお、ルカディウス殿。どうぞ」
 マギードはルカディウスの風貌を最初見たときにはぎょっとしたのであったが、しかしそこは育ちのよい青年で、そんなことはおくびにも出さなかったし、極力気にしないようにしていた。快く部屋に招じ入れ、椅子を勧めた。
「私に何の御用でしょうか」
「少々、卿にご相談申し上げたい事がございまして」
 ルカディウスは声を低めた。
「はあ」
「我が主人の事――いえ、主人の周りの者どもについてです」
「ああ……」
 マギードはちょっと眉をひそめた。育ちのよい彼であるから、主の娘であるシェハラザードの周りに、いかにも盗賊上がりの胡乱な男たちばかりがひしめいているこの状態を好ましく思っていなかったのである。
「決してあれらのものと、あるじとを同じに見ていただきたくないので、申し上げますが……。あるじは盗賊の頭であったソーチを倒した事で、逆に盗賊たちに頭と祭り上げられるようになり、物珍しさも手伝って荒くれた生活に身を投じたのでありますが、元来は決して、さような立場の人間ではございません」
「それは、わかりますとも」
 大きく頷いて、マギードは請け合った。まだ彼は、最初のアインデッドの丁寧で優雅な挨拶と、ルカディウスがさっきぶち上げた嘘のおかげで、彼に対する印象を高貴そうなものと思っていたからである。
「卿も薄々お察しのとおり、あるじが傍近く使っております者どもは本来ならばシェハラザード殿下のような高貴な方の傍に近寄る事も許されぬはずの卑しい盗賊どもに他なりません。あるじがシェハラザード殿下の正規軍に、一将として加わる事をお許しいただけるのであれば、あのようなものたちと親しくするのもいかがなものかと、私は案じているのでございます。あるじは人を疑うという事を知りませんもので、あのような者どもでも、自分を慕ってくれているのだから、と目をかけてやっておりますが……」
「ルカディウス殿のご心配はごもっともかと」
 マギードはたいへん同情的に言い、励ましの気持ちを込めてルカディウスの手を取りさえした。
「むろん、周りのものどもの事はさておいても、アインデッド殿は我々の一員、ラトキア軍の一将として遇しましょう。シェハラザード殿下をエトルリアの手から救い出しただけでも、それにふさわしいだけの働きをされた方です」
「ありがたきお言葉にございます」
 ルカディウスは涙ぐむかのように顔を伏せたが、内心では快哉を叫んで舌を出して笑いたいくらいの気分だった。
「それで一つの事は安心いたしました。しかし、いまだ残るのはあれらの者どもをどうするか、ということでございます。むろん、今は一人の兵でも失うのは大きな痛手となりますゆえ、彼らに出ていけということは我々の命取りにすらなりかねませんが……」
「しかし、正規軍に迎えるわけにもいきませんからな。盗賊を味方にしたと噂が広まれば、シェハラザード様ご自身に悪い噂が立つ」
 ルカディウスの言いたいことを、マギードは先に言った。
「まさしく、私がご相談申し上げたかったのはその事でございまして」
 すかさず彼は言った。
「そこで、考えたのでございますが、もう少し近く寄って頂けませんか。誰かに聞かれては困ります」
「おお、そうですな」
 ルカディウスがそっと手真似で耳を寄せるように合図すると、マギードは素直に椅子を寄せて、小柄なルカディウスの口許に身をかがめて耳を近づけた。ちらりと扉に目をやって、何の気配もないことを確かめてから、ルカディウスは何事か囁き始めた。
 彼らの間でどのような相談がなされ、またどういった密約が取り交わされたのか、誰も知るものもなくその夜は明けた。ようやく彼らの前に堂々と姿を見せたシェハラザードは翌日の元旦にとうとうシャームに向けて出発するのだと知らせ、兵士たちは大喝采でそれに応えたのであった。
 その日の夜明け近くに、アインデッドは砦で一番高い塔に上った。塔と言っても、最上階はとっくに崩れ落ちて上れなくなっていたし、そんな所まで修理している時間も必要もなかったので、そこは荒れ果てたままになっていた。所々石の抜け落ちたり、崩れかけたりしている階段を上がり、壁が崩れて外が見える場所で足を止めた。そのままそこの階段に腰掛けて、アインデッドは程なく訪れるはずの夜明けを待った。
 今宵はヤナスの聖日――大晦日である。
 明ければ、暦は変わって一五四五年、黄狼の年になる。
 やがて明け初めた太陽が血のような赤さでタリムの森に光を射しこませた。紺碧の夜空は次第に水色がかり、緑や橙の色を織り交ぜながら鴇色に染まる。そして美しい、青白いリナイスの名残を残して、金色のサライアが地上に姿をあらわす。
(ああ――夜が、明けていく)
 アインデッドは何とも言い難い感慨を胸に、待ち焦がれた夜明けを迎えた。眩しすぎる朝日に目を細める。
(俺は……何処に行くんだろう)
 目を閉じても光が瞼を通して射し込み、眩い。アインデッドはやがて来るであろう、しかし今は遅すぎるとしか感じられない戦いが近い事を予感した。
(たくさんの血が見える……俺の為に流されていく人々の血だ。恨みの声が地を満たすかもしれない。だが、俺は……)
 アインデッドは目を開けた。
(ゆくしかない)
 それこそが彼にとっての運命の標示であり、もう後戻りのきかぬ道の入口であった。そしてまた、戦乱を招く魔神サライルの訪れであった。
 そして――
 野望の階段の、いずれ血にまみれ汚れてゆく輝かしい第一歩であった。



「Chronicle Rhapsody22 神の翼」 完 (2003年5月・初版脱稿)


語句解説
ニギディウス……第一楽章一節に登場。ナカーリアの従者で、おしゃべりな精霊。

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