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「アインデッド?」
 サライはごく静かに問い返した。そのおもては何の動揺も見せていなかったが、目だけは興味をひかれたようにエルカンゲールを見つめた。エルカンゲールはさらに覚書の頁を繰った。
「名前以外、詳しい事は一切不明ですが、どうやらシェハラザード公女のエトルリア脱出の手助けをしたのがこのアインデッドだという事でございます」
「そう……。他には」
「報告は以上でございます。他にはお耳を煩わすような事はございません」
「ありがとう。まさかこの戦争が飛び火するという事は無いだろうが、戦況の如何によっては我が国も無関係というわけにはいかなくなるかもしれない。引き続いて情報収集を行ってくれ」
「かしこまりました。失礼いたします」
 エルカンゲールは退出の礼を取ると、全く普通に扉から出ていった。魔道師は《閉じた空間》で出入りするもの、という固定概念が染み付いている頭では、彼の行動は意外に思えた。
「アインデッドが……」
 絞り出すようにサライは呟いた。
 足音が遠ざかりつつあるのを聞きながら、サライは背もたれに深く身を沈めた。ゆっくりと両手をあげて、指先で目頭を強く押さえる。そうしなければ、零れそうになるものがあった。
(生きていてくれた。アインが、無事でいた)
 赤い盗賊の被害の報告や、噂がぷつりと途絶えたのは去年のナカーリアの月頃のことだった。首領が捕らえられたといったような情報があったわけでもなく、赤い盗賊の姿は街道から唐突に消えてしまったのである。それにサライが気付かないはずが無かったし、また気にしないはずもなかった。
 姿を消したのは、捕らわれることはないまでもアインデッドが病に斃れ、あるいは仲間の裏切りにあって殺され、盗賊団が自然消滅したからではないかと、そんな嫌な想像ばかりが次々と浮かび、ずっと頭を離れなかった。
 それが。
 再び聞いた彼の名は、ラトキア独立軍の一将のものだという。
(アインは目的も無く何かをする男じゃない。今までのことは全て、このための軍資金や人手を集めるための準備だったんだ)
 サライの中で、全ての疑問がそれで解ける。商売や、その他の正当な手段では短期間に多くの金を集める事は不可能である。他人が集めた財産を収奪するほうがより早く、アインデッドほどの力量を持つ男なら簡単にできることだろう。そしてそんな彼ならば、慕って集まってくる部下たちにも事欠かないはずだ。
「どうなさいましたの、サライ様」
 優しい声が、ふとサライの心を現実に引き戻した。ガラスの杯に金で脚を付けた華奢なグラスと、錫のポットを盆に載せたアトが入ってきていた。
「いや……ちょっとね」
 サライは身を起こした。
「アーフェル水をお持ちいたしましたけれど、いかがでしょうか」
「ありがとう。もらうよ」
 サライは手を伸ばし、アトが差し出したグラスを受け取った。
「何か、重大な話でしたの?」
「重大といえば重大だね。ラトキアのシェハラザード公女の話は覚えているかい?」
「はい。つい最近の事ですもの」
 アトは頷いた。その間に、サライに勧められるまま、彼の座っている長椅子の端に腰掛けた。
「公女がエトルリアに対して独立を求めて戦争を起こしたそうだ」
「あれほど手痛い敗北を喫していて、ラトキアがエトルリアに勝てますのかしら?」
「ラトキア軍の中に、アインデッドと言う名の武将がいるそうだ。公女をエトルリアから逃がしたのも、どうやら彼らしい」
「まあ!」
 アトは藍色の瞳を見開いた。アトに話しているというよりも、おのれの想念を整理するためのように、サライは続けた。
「盗賊をやっていたのは、このための準備だったんだ。軍資金や兵力を蓄えるための。そうでなければアインデッドが盗賊などに身を落とすはずが無い。どうやったって、彼はきっと這い上がってくると思っていた。それが、たとえ……」
「サライ様?」
 どこか遠くを見るような眼差しになったサライに、アトは首を傾げながら声をかけた。アインデッドのことを話していると、時々そうやってサライは自分の物思いにとらわれてしまうことがあった。アトの声に気付いて、サライは微笑んだ。
「ああ、すまないね。つまり、私が言いたいのはこういうことだよ。アインデッドは勝ち目の無い勝負はしない人だった。だから……」
「だから?」
「この戦いはラトキアが勝つよ」
 サライは自信に満ちた口調で告げた。
「恐らくアインデッドは――というより、その参謀になった男は、と言うべきだろうね。彼はこのために今まで綿密な計画を立てて、準備をしてきたのだと思う。この戦いも勝算があってのことだろう。いや……確実に勝てると、アインデッドが確信できる何かがあるんだ、きっと。だからこそ、ラトキアの廷臣たちがどうしても果たせなかったシェハラザード公女の奪還も成功したんだ」
「でも、そうなればアインデッドさんはきっと……」
「私を殺しに、クラインに攻め込んでくる?」
 不安げなアトに、小さく笑いながらサライは言った。
「そこまで周到な男が、クラインを攻めるなんて無茶をアインデッドにさせると思う? クラインに事があればメビウスが黙っていないし、それにクラインの方がラトキアよりもずっと国力があるんだからね。少なくとも、今のラトキアにはクラインと戦って勝てる見込みはないよ。だからそのことは安心していていいよ、アト」
「そう仰るのなら、いいのですけれど」
 アトはそれでもまだ不安そうに呟いた。
「どうしてそう、顔を曇らせるのかな。君がそんなふうに落ち込んでいると、私がフェンドリックに文句を言われかねないよ」
「そ、そんなことありませんわ。それに、今の話には関係ないことです」
 慌ててアトは激しく首を振った。近頃どうも、フェンドリックとアトの仲は、単なる騎士団の団長と副団長という関係を越えたものになりつつあるようであった。それを知っていたので、サライもからかってみる気になったのだった。
「そう? とにかく、そんなことは今心配してもどうしようもないことだよ。心配性な君にもう一つ言っておくけど、もしラトキアがクラインに戦いを仕掛けられるほどの大国になり、その時アインデッドがラトキアを動かす一人になっていたとしても、彼の私怨だけで国は動かせないよ。それこそ国際政治というものがある」
 そこまで言われて、やっとアトは愁眉を開いた。
「それなら、私は安心していてもよろしいのですね?」
「だから、してもいいとさっきから言っているじゃないか。それよりも君には、自分の事を心配してもらいたいな。実際の所、フェンドリックとはどうなの? この前二人で出かけてたみたいだけど?」
 サライは苦笑した。
「申し上げるようなことは何もありません! すぐそうやって、話をはぐらかそうとなさるんですから。――それで、この話はまた、陛下のお耳に入るまでは内密ということで?」
「そうするつもりだ。情報収集は私の趣味でやっていることだから。緊急の事でないかぎりそうしておきたいね」
「判りました。ああ――言い忘れておりましたわ。アリオン様が、来旬の件で少しお話があるとのことでございましたから、ヌファールの刻にいらしてくださいますように申し上げておきました。お忘れにならないようにしてください。それでは失礼いたします」
「ヌファールの刻に、アリオン殿だね。判ったよ」
 アトに頷きかけて、サライは見送った。しかしその思いは、すぐにラトキアに、そしてアインデッドに引き戻されていった。
(もしアインデッドが私を殺すために、ラトキア軍を率いてクラインに攻めてくるとしても――。私が命を差し出せばそれで済むことだ。大したことじゃない。私はむしろその日が来ることを待っているような気がする)
 アインデッドが攻めてくる事よりも、サライがそれを受け入れるつもりであること――アトが心配していたのはまさにその事であった。
(ラトキアは勝つ。アインデッドはきっとやり遂げるだろう。恐らく勝算があるからこその旗揚げだ。でなければ……)
 失敗すればアインデッドはエトルリアに捕らえられ、シェハラザード公女ともども処刑される運命である。そうなれば、彼は今度こそサライの手の届かぬところに行ってしまうだろう。
(そんなことは許さない。絶対に勝たせてみせる。アインデッドは、王とならなければならない。私は彼の傍でその手伝いをすることはできなかった。けれど、このクラインで、今の私だからこそできることがある)
 鈴を鳴らすと、ただちに小姓が入ってきた。
「ワード、すまないが少し調べ物を頼まれてくれないか」
「どのような事でございましょうか?」
 主人のそういった頼み事には明らかに慣れている様子で、ワードは何のためにとも尋ねなかった。
「旧ラトキアの廷臣で国外に逃れたものがどれくらいいるのか、またその国はどこか、兵力はどの程度か。その廷臣の兵力、実力、などもできればね」
「国力などにつきましてはロデリックの方が詳しいかと存じますので、任せてもよろしいでしょうか」
「君が適任と思うのなら誰と協力してくれてもかまわない。ただし、外部にはくれぐれも漏れないように気をつけてくれ。報告はできれば直接欲しいけれども、できなければ私の書斎の机の上に置いておいてほしい。封筒に君の名前だけ書いておいてくれれば、すぐ判るから」
「かしこまりました」
 また一人になり、サライは考えの続きに戻った。
(クラインが関わることは、陛下のお考えからすれば絶対にありえないだろうし、これは私がどうとでもできるから問題ない。ペルジアが関わるような事はないだろうが、万が一ということを考えて、どちらにも関与しないように圧力をかけなければ。メビウスにも、今回のことはゼーア国内の紛争だから手出しはせずにおくと伝える。後は沿海州か。ファロスには比較的簡単に手が回せる。ダリアは元来ラトキアと友好を保ってきた国だ、少し焚きつければ一国だけでも動く可能性がある。他は――それこそ、私の力量が試されるというものだな)
 そこまで考えて、サライの頬に自嘲するような笑みが浮かんだ。
(不干渉を提言しておきながら、ラトキアに利するように動いたことを陛下に知られたら、反逆を疑われても仕方のないことだな。我が国には直接の利益も不利益もないこととはいえ、陛下のご意向を無視した行動である事に変わりはないのだから)
 しかしそれでも、サライに止める気は無かった。アインデッドが手にしかけている野望への第一歩、勝利がそこにあるのなら、それを完全なものにしてやるのが、彼を裏切った自分にできるせめてものことだと、サライはそう思っていた。

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