前へ  次へ



                              *



 ルカディウスを睨みつけておいてから、アインデッドは再びシェハラザードに向き直った。
「え? 判るかよ。弱いってことは、負けるってことは、罪なんだ。裏切りなんだよ。むろんあの敗戦がすべてあんたのせいだったなんてことは俺は言わねえが、その裏切った相手に、あんたはのうのうと、自分が立ちさえすれば――という。ツェペシュ大公の公女シェハラザードの名のもとに何万、何十万が集まってこなくては嘘だと言う。何だって、そんなにひと一人の命や思いを軽く見ることができるんだ?
 あんたらツェペシュ大公家が、ラトキアの人民に占領の悲劇、略奪に遭い家を焼かれ、女は陵辱され、若い者は殺される惨状をもたらしたんだろ。 あんた自身だってサン大公の妾にさせられたにしろ、あんな小ぎれいな離宮をあてがわれ、食う苦労も、生きるための苦労も何一つしてねえじゃねえか。――それでどの面下げてあんたは、人民がすべてを捨てて集まる、なんて信じていられるんだよ? 旗揚げに集まればいくさなんだ。人を殺したり、殺されたり、一生治らねえ傷を負ったり、二度と家族のもとに戻れなかったりするんだぞ。
 本当を言や、人民なんざ、治めてるのがラトキアのツェペシュだろうがエトルリアのサンだろうが、そんなこたあどうでもいい。ただ平和で、戦なんかなくって、日々の暮らしがうまく立ち行くのが一番の望みなんだ。それで税が安けりゃ言うことなしさ。――そういう奴らを無理やりかき集めて、戦わせようとしてるんだってことくらいは、よく覚えておけ。でねえと誰一人集まってきたりなんかしねえぞ、お姫さんよ」
 一気にまくし立てて、少しはせいせいしたので、アインデッドはふいと顔を背け、そばにあった火酒のつぼをひったくって大きくがぶりと飲んだ。が、ついでにむせてしまって咳き込んだ。
 シェハラザードはこの暴言を、思ったよりも冷静に聞いていた。一年間の虜囚の生活は、さしもの彼女をも、少しは忍耐強く、自らを抑えることもできるようにしていたのである。それに正直、彼女とてもアインデッドの言葉に一理あることは認めずにいられなかったので、何と言ってよいのかわからなかったのだが、しかしそのまま黙って引き下がるわけにはゆかなかった。
「お前の言うようなことくらい、わたくしにだって判っているわ、ティフィリスのアインデッド」
「ほおーう」
 アインデッドはわざと意地悪そうに言った。シェハラザードは唇を噛み締めたが、押しかぶせるように続けた。
「でも、わたくしは信じる。というより、わたくしには、それより他の道は残されていないのだから。わたくしは、ラトキアの公女よ。だからわたくしはラトキアの人々にとって、ラトキア大公家の庇護のもとにあるのと、エトルリアの占領下にあるのは全く違うことだと信じているわ。少なくとも、ラトキア大公領であったとき、ラトキアの民は自由だった。幸福で――そうでないものもいたかもしれないけれど、ラトキア国民であることに満足し、誇りを持っていた。だからこそ彼らは剣を取って戦ってくれた。わたくしのためでなくともいい。ラトキアの為に、自由で幸福な自分の国を取り戻すために、彼らは集まり、戦ってくれるとわたくしは――そう――」
 シェハラザードの声がふいに激しく震えた。
「わたくしは信じているわ……」
 そう付け加えたとたん、シェハラザードは、突き上げてくる奔流のような思いが胸に迫って、泣き出しこそはしなかったが、言葉を続けることができなくなり、唇をぎゅっと噛み締めて、涙がこぼれないように精一杯目を見開いた。
 シェハラザードがそんなふうに今にも泣き出しそうになってしまったのは自分のせいだということをアインデッドはよく判っていた上に、しかも女の涙にはめっぽう弱かったので、たちまち後悔して気を落ち着けた。
「だが――ラトキアは若い国だ。建国から、三十年しか経ってねえ。どれほどの忠誠心が国民に育っているのか、それはわからない――おっと、誤解するなよ」
 肩をすくめて付け加える。
「別にあんたをやっつけて喜んだりしてるわけじゃない。いいか、俺も今じゃあんたと、いわば運命共同体なんだ。もし人数が思ったように集まらなかったら、そいつはあんた同様に俺にとっても身の終わりなんだ。俺は心の底から、あんたの言うとおりたくさんのラトキア兵が集まってくれることを望んでる。もし何十万も集まってくれりゃ、俺は面子もへちまもあったもんじゃねえ。あんたに、俺が悪うございました、公女殿下が正しかったと頭を下げるよ。――土下座したっていい。何とか、俺がそう言えるようになってほしいもんさ」
「……」
「それにしても――しかし」
 何かを思うような口調になりながら、アインデッドは言った。
「エトルリアがペルジアからラトキアを奪い、ツェペシュ・ラトキアがエトルリアからラトキアを奪い、独立を成し遂げ、またその独立は奪われ、そしてこうして、娘のあんたが再び独立と自由を取り戻そうとしてる――父親と、立場は違うだろうけれども――。歴史は繰り返すと言うのかな。それとも、これもヤナスのみわざなんだろうか。因果は巡ると諺に言うが――ヤナスは全てを知り、全てをしろしめしたまう。――そうだな」
 その思い――。
 それこそは、等し並みに、彼らの中にあった。
 全てはヤナスにかえってゆく。
 だとすればその大いなるわざの中で、人のわざ、一生などと言うものはあまりに儚く、移ろいやすく、むなしいものでしかない。
 人々は、同じようにそう考えながら黙り込んでいた。
 カルルの森、タリムの森に、夜鳴き鳥の物悲しい鳴き声が響く。夜が更けてゆく。朝はまだ、遠かった。
 その日の夜。
「おい、アイン」
 眠っていたとばかり思っていたルカディウスが、むくりと起き上がった。アインデッドはそっと吹いていた小さな笛を下ろし、雫を切って、かくしにしまいこんだ。
「眠らないのか? 体が持たないぞ」
「眠れないんだ」
 アインデッドはいつになく素直に答えた。楽なように片膝を抱え込み、天幕の柱に身をもたせかけ、消え残った焚き火の火と星明りに、その姿がほのかに浮かび上がって見える。ルカディウスは、アインデッドの関心がどこか他にあると知って、安心してその姿を眺めた。もともとはそうでなかったにしろ、顔の半分を醜く歪められ、それほど背も高くないルカディウスにとって、アインデッドの気性やその人格の魅力、不思議な運命もさることながら、つねにその美しい恵まれた容姿と容貌こそ彼をひきつけてやまぬもっとも強いものに違いなかった。
 特に何でもないときでも、アインデッドはふと、片隅からうっとりと憧れと崇拝に満ちて見守っているルカディウスの視線に気付くことがよくあった。それは、機嫌の悪いときには思い切り跳ね除けて吹っ飛ばしてやりたいような苛立ちを、機嫌のいいときでもうるさいハエがまとわりついてくるような感じをしか彼に与えはしなかったのだが。
 しかしたしかにアインデッドは美青年だったし、それもこのところ急激に、ずっとまつわりついていた少年めいたあどけなさを脱して、暗い火のような魅力を備えた、大人の男の――成長した狼の力強い美しさがあらわれはじめていた。
 連日の行軍の疲れも見せず、内からみなぎってくる生命の輝きではっと人を引きつけた。その鋭い目はいっそう鋭く、鷹のようになってきたが、ひきしまった口許がふっと笑いを浮かべるときの、天性の愛嬌は失われていなかった。
 笑うと、きつい顔立ちにあどけなさの名残がただよって、彼をいちだんと魅力的に見せる――もっとも、このところ、めったにそんな心からの笑顔を浮かべることもなくなっていたのだが。
 アインデッドはルカディウスが惚れ惚れと見とれているのを無視して、楽なように膝を抱え込み、瞑想的な目でじっと、かがり火を見つめた。その闇に浮かび上がった横顔はむしろ何か気分が沈んでいるような、鬱屈を我にあらず払いのけられずにいるような、いくぶん弱々しい表情を浮かべていた。
「どうしたんだ、眠れないのか。いつもあんなにあっという間に眠るお前が。それとも、何か思い悩んでいることでもあるのか?」
 ルカディウスは寝袋から這い出して、彼の方に這い寄った。
「思い悩む――ってことでもねえんだが」
 アインデッドは肩をすくめた。アインデッドから話しかけてくることなど滅多にないので、ルカディウスは密かに喜んだ。そして、その変わりやすい気分をなるべく壊さぬように静かに言ってみた。
「何か、話して楽になるようなことなら――」
「別に何があるってわけじゃない」
 アインデッドはいくぶんつっけんどんになって言った。しかし、そのまま続けた。
「ただ、思っていたんだ。――本当にこの旗揚げはうまくいくだろうか。本当に俺は勝利を収めることができるだろうか。本当に公女のもとに少しは兵が集まるものだろうか。本当に俺が、どこかの王冠を戴き、王か大公か、そんなふうに呼ばれるようになるなんてことが、あるんだろうか――?」
「おい、アイン」
 ルカディウスは驚いた。あまりに驚いたので、アインデッドを刺激しないようにといった心配りもすっかり忘れて反射的に叫んだ。
「一体どうしたってんだ? お前らしくもない! 体の調子でも悪いのか、それとも熱でもあるのか? まさか風邪を引いたんじゃ……」
「うるせえな」
 アインデッドは気を悪くした。
「俺が物思いにふけってたら悪いのか。俺は熱でも出さねえかぎり、静かにものを考えたりする人間じゃねえとでも言うのか。俺がそういうことを言ったら珍しいってのか」
「し、しかし、珍しいのは本当だろう」
 ルカディウスは慌てて取り繕った。
「だってお前はいつだって誰よりも生きがよくて、元気で、不撓不屈の、野望に燃えるティフィリスのアインデッドじゃないか。俺はそう思ってきたし、お前がそんな弱音を吐いたり、希望を失うことなどなかったじゃないか」
「希望を失ったりなどしてないさ」
 アインデッドは呟いた。
「ただ――死ぬってことは……死というのは、何もないってことなんだな。希望も絶望も、喜びも悲しみも、夜明けもたそがれもない、何一つ無い……何も無い無の世界――それが死なんだな」
「おい、アイン! どうしたんだ」
 ルカディウスはますますうろたえて叫んだ。アインデッドがどうかしたのか――何か不吉な予感にでも捕らわれてしまったのか、と強い不安に襲われたのである。だがアインデッドはもう自分の思いにすっかり沈みこんでしまって、ルカディウスの言葉など気にもとめていなかった。
「俺はこれまで海賊として、博徒として、傭兵として、何度だって――いや、何十回何百回となく、生死のぎりぎりのきわをすり抜けてきた。だが俺はたった一度だけを除いて、殆どの時、もうだめだと思ったことはない。どれほど死が免れがたく見える危機の時も、俺は決して自分がこのまま死ぬなどと信じたことはなかった。いつだって彼は自分の運命が自分を守ってくれるのを信じていた。俺はさだめによって王になる。そしてまだ王にはなっていない以上、ここで死ぬことはない――そう思ってきた。そして今こうしてここにいることでも明らかなように、俺のその確信はこれまでのところ正しかったわけだ。どんなに恐ろしい危機も、彼は自分の力か、神の加護か、幸運か、その全てで切り抜けてきた。そんな俺をひとは《災いを呼ぶ男》と呼んだ。どんな戦いの中からでも、ただ一人生還する男と噂されて……」
 ルカディウスは、アインデッドが自らの追憶と思いに浸りこんでしまっているのを見て取った。もうそれ以上口を挟もうとせずに、そっと彼のひとり言のようなその呟きに耳を傾けた。
「そう、俺は、一度だって自分が死ぬだなんて考えたことはなかった。それはいつか俺だって人の子の定めとして死んでゆくのだろうけれども、それは何十年と先の話で、全ての人の運命がそうなんだからそうならざるをえないのだろうと思っていた。だが――どうしてこんなことが心に浮かぶんだろう。俺は――さっきふいに思った。死というのは、俺が今まで考え、恐れてきたような、無理やりに命をもぎ取られる苦悶、苦痛ではなく、そんなものも過ぎ去ってしまった後のただ何もない暗黒――その無のことなのだと。そしてその無こそが何よりも恐ろしいと――。何もかも失い、何もなくなること――それが恐ろしいと、その事を今はじめて、俺は考えたんだ」

前へ  次へ
inserted by FC2 system