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「……」
 アインデッドは片手で顔を覆い、長い前髪に指を入れた。
「ああ、なんて事だろう。――俺は今はじめて、自分もまた生きているし、生身なのだという事を知ったような気がする。……いまだかつてなかったぐらい、王座が近くに見える自分の運命の入口までたどりついたはずなのに。一度だってそんなためらいや迷いや怯えなど持ったことはなく、まっしぐらに欲しいものを手に入れるために駆けつづけてきたのに。――俺は、どうしたというんだろう。俺は――そうだ、お前の言うとおりだ。俺はどうかしちまってる。俺らしくもない。こんなふうに怖気づくなんて。ティフィリスのアインデッドの言葉とも思えない! 一体、俺はどうしちまったんだ?」
「アイン……」
「ルカディウス」
 今初めてその存在に気付いた、とでもいうように、アインデッドはルカディウスに視線を向けた。それは、奇妙なほどに幼く、頼りない表情だった。
「言ってくれ。――この旗揚げが失敗したら、今度こそシェハラザード公女は殺されるだろうな」
「ああ……」
「そして、この俺も捕らえられれば、反乱軍の指揮者と言うだけじゃねえ、賞金首の赤い盗賊の頭っていうれっきとした添え物も付いてる。ただでは済まねえだろうな。どうまかり間違ったって死刑はまぬがれねえだろう。火刑か、絞首刑か、斬首か……その前に多分火責めに水責めだろう、体中を切り刻まれて、皮を剥がれて、四つ裂きにされて――うえっ、痛えんだろうな。死ぬまでに、というか、何も判らなくなるまでに、どれくらい苦しめばいいんだろう?」
「おい、アイン――アインデッド……」
「俺はこれまでに何人も、何十人も、どころか何百人、何千人もこの手にかけてきた。その中の誰一人だって、死にたい奴はいなかっただろうな。自分が本当に死ぬだなんて思ってなかっただろうな」
 何かを――おのれが手に掛けてきた一人一人の最期の光景を思い出したかのように、アインデッドは顔を覆っていた手を外して、見下ろした。
「……それでも、生きたかったんだろうな。死にたくないと思ったろうし、心残りもあったろうな」
「アイン、そんなふうに思うのはやめたほうがいい」
「俺にはそいつらの怨念がついてるんだな」
 アインデッドはぽつりと呟いた。
「俺はそいつらの生きたかった思い全てを背負い込んでるんだ。自分の命と相手の命、その無念、苦しみ、恨み――全てを自分の上に背負うこと……それが、殺すということなんだ。それを思うだけでも、俺は死の国に行くのが恐ろしい」
「死ねば何もかもなくなると言ったのはアイン、お前だぞ」
「言ってくれ」
 アインデッドは年相応というより、ずっと幼く響く声で、囁くように言った。
「言ってくれ、ルカ。――俺のやってきたことは、間違っていないのか? 俺はこれでいいのか? その先に待ち受けているものが崖とも知らず進んでいるなんてことは、ないのか? 俺はこのままシェハラザード公女をかついでラトキアの大公位を目指していていいのか? 言ってくれ。このままでいいと言ってくれ」
「これでいいとも」
 驚きながら、ルカディウスは即座に言った。
「どうして間違うわけがある? お前はいつだってこの世で一番野望に燃えていて、その野望のためなら何を捧げようが、誰を犠牲にしようがかえりみようともしない若いティフィリスの狼だった。炎のように激しく、氷のように酷薄で残忍で、炎のようにおもても向けられぬほどに美しく燃えていた。――俺が魅せられたのは、そのアインデッドなんだ。俺が愛し、何をしてもいいと思い、俺の命をやりたいと思ったのは、そのアインの激しさと美しさと野望ゆえだ。今のお前こそがいちばん美しいんだ。アインデッド――ああ、アイン、俺がどんなにお前に惚れこみ、愛しぬいているか、お前には想像もできないだろうよ。お前から引き離されるくらいなら、お前の手にかかって死んだほうがいい。しかし殺されても、俺は怨念となってとりつくかわりに霊魂となってお前を守り、お前の野望を見守っていくだろう。アイン、これでいいんだ。お前とお前の野望、お前の運命、お前の炎――それはこの世で一番美しい。サライルより、サライアより、ヤナスよりも!」
 ルカディウスは言いながら、おのれの情熱にほとんど何をしているかもわからぬままアインデッドの傍ににじりより、その靴に口づけた。いつものアインデッドだったらその時点でルカディウスを殴り飛ばしていただろうが、他ごとに気を取られていて、無頓着になっていた。
「怖いんだ」
 虚空を見つめたまま、アインデッドは囁いた。
「本当はいつだって怖くてたまらない。そんなこと、忘れているときもあるが、本当は俺はいつだって、俺のこの大当たりは明日、いや次の一手で終わりで、あとは一気に負けて負けの谷に転げ落ちるんじゃないか、俺はあまり調子に乗りすぎて自分の分の幸運を使い果たしてしまったんじゃないか、もう俺はヤナスのご機嫌を損ね、ヤナスの寵児ではなくなってしまったんじゃないか、その不安に震え続けている。
 いつだって恐ろしいんだ。なぜこんな事を始めてしまったのかといつも思う。海辺のティフィリス、居心地のいいディシアの盛り場で、俺はいつだって皆に憧れられ、好かれ、何もかもうまくいっていた。あそこを出ないで、それともどこかに落ち着いて、可愛いおとなしい女とでもひっそりと所帯を持って、それはたしかに俺は遊び人だが、女房は一時の遊び相手とは違う。その女をずっと大事にして――それにガキでもできりゃ、俺はいつだって自分にガキができたら、うんと可愛がって、父無し子の苦労は味わわせまいと決めてたよ。俺はそのせいで強くもなったが、辛い目にもあったからな。
 俺の夢は、はげたじじいになってから居酒屋をやってその戸口に座り込み、口を開けて聞いている孫どもに、俺の若い時のほら話を次から次へ聞かせて煙に巻いてやることだった。そりゃ、王になるという予言を信じてはいるが、それは飽くまで、今までは届くはずもない虹の橋みたいなもんだった」
 ふと、夜風に紛れて忍び込んできた死の匂いに怯えたとでもいうように、アインデッドは身を縮めて両膝を腕で抱え込んだ。
「――人は、生きていく上で、常にヤナスに何かを支払いつづけているんだ。何かを望めば何かを支払わねばならない。長く生きることを望むのならば若さを失うように。だが――多くを望まぬ代わり多くを手に入れもせず、かわりに多くを支払いもしないこと。そういう生き方もあるんだし、そっちのほうが人間的で正しいんじゃないか、奴らは平和に年を食って子や孫に手を取られて死んでゆくが、こうして進んでいけば俺のゆくさきに待ち受けているのは拷問と処刑台と、死後にさえつきまとう亡霊たち、それだけかもしれない――ふいにそんな気がして矢も盾もたまらなくなる時がある。今なら引き返せる、今が引き返してやり直すチャンスかもしれない、そんな気がしてならない。今までだってまともじゃなかったんだ、やり直す事なんかできないことくらい、てめえがいちばんよく判ってるっていうのにさ」
「ア……」
 ルカディウスは何を言ったらよいのか判らぬように目を瞬かせ、唇を舐めた。
「お前はつ――疲れているんだよ、アイン。疲れているから、悪い予想や嫌な想像が浮かんでくるんだ。酒でも飲んで、ゆっくり眠ってしまうのが一番いい。何なら、誰か女を夜伽に来させようか。――あまりきれいなのはいないにせよ……」
「女なんかいらねえ」
 ぶっきらぼうにアインデッドは言った。
「お前なんか、やっぱりその程度にしか俺の事をわかっちゃいねえんだ。――もういい、とっとと寝袋にもぐりこめ。お前と話したのも時間の無駄、これから話すのも時間の無駄だ。俺に構うな。ほっといてくれ」
「……アインデッド――デッディ……」
「俺の事を二度とデッディなんて呼ぶな」
 射殺しかねないほど鋭い目で、アインデッドはルカディウスを睨み付けた。
「お前にそう呼ばれると虫酸が走る。俺をそう呼んだのはいつだって、色っぽくて気前のいい、ディシアの女たちだけだったんだからな。お前にそんな呼び方を許した覚えはねえんだよ、このルカ公」
「知らなかったんだ。もう二度とそう呼ばないから。すまない」
「いいか、ルカ」
 アインデッドは沈み込んだ気分をすっかりぶち壊され、それは同じぐらい深い怒りに変えられてしまっていた。目を光らせてうずくまっている彼は、まったく一頭の、物騒な緑の瞳の狼にしか見えなかった。
「貴様は俺を王にすると誓った。すべての名誉と亡き母にさえかけて。必ず俺をゼーア国王にしろ。失敗は許さん。はっきり言え――もう全て、これからの方策は立っているんだな? そう言ったな」
「あ、ああ、それは一応――」
「一応じゃ駄目だ。――このままでいいと言ったのはお前だ。俺に残されているのはすべてか無か、それだけだ。貴様も同じ事だ。かならず成功させろ。でなけりゃそれが俺のこの世で最後にすることになったとしても、誓って俺はてめえをこの手でサライルの地獄に突き落としてやるからな」
「判ってる。判ってるよ、アイン」
「だったら話は終わりだ」
「アイン……」
「お前なんか、俺にふさわしい軍師じゃねえ。本当だったらお前なんか、俺の隣にいることだって許したくもねえ。それをお前がどうしてもというから置いてやってるんだ。そのことをよく考えて、性根をすえてものごとにかかりやがれ。それだけがお前の取り柄だ。それだけが」
「アイン――アイン……」
「話は終わりだと言ったろう。とっとと寝ちまえ。天幕の外に追い出されたくなかったら、二度と俺の考えの邪魔をするんじゃねえ」
 ルカディウスはすみやかに寝袋の所に戻り、一言も言わずもぐりこんだ。そういう時のアインデッドに逆らって、良いことなど一つもない事はよく判っていたのである。アインデッドはそれを睨み据えたが、それきりたちまちルカディウスのことなど念頭から締め出してしまった。他にも彼の心をかき乱す事はいくらもあったのだ。
(どうしてる。今頃何をしてる)
 緑の瞳に炎を宿し、アインデッドはかすかな声でささやいた。
(元気か。変わりはないか。幸せにやってるのか。――もう俺のことなど忘れて)
(俺はいつか、憎もうが怨もうがお前を手に入れる。クラインを滅ぼし、お前の愛するあの美しい国をこの手で灰に変え、お前を力ずくで従えてやる。お前の友情も信頼も、もう要らない。お前から捨てたものなら俺も求めない。――友情と信頼の代わりに、俺は憎しみと呪いとでお前を俺のものにする。俺につないでやる)
(いつか――そう、いつか……)
(――サライ……!)
 自らの声を聞くのが恐ろしいかのようにアインデッドは両手で耳を押さえた。どこかで梟の物悲しい鳴き声が聞こえる。金色の髪と紫の瞳のおもかげ。黒髪と黒い瞳の親友――共に過ごした日々。すべてはあまりに遠かった。



「Chronicle Rhapsody21 光の天使」 完(2002年脱稿)


楽曲解説
「瞑想曲」……瞑想的な気分を持った器楽小品。
 余談ですがこの章はもともと「後宮からの逃走」(モーツァルト作曲)にしようと思っていたのですが、やめました。あまりに展開バレバレなので。

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