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     (サリア)の湖よ
     日の光がおまえの湖上に輝く
     向こうの美しい岸辺、美しい丘
     そこはいつも恋人と出かけたところ
     美しい、美しいサリアの岸辺
     いまはひとり岸辺に立ち
     わたしは巡り会える日を夢見る
     だが、もう恋人と会うことは無いだろう
     日の光の中で、湖は眠っている
     たそがれの空に、月が昇る
                   ――《光の湖》




     第三楽章 自由によせる瞑想曲




 今夜は、暗い夜だった。
 空は厚い雲に覆い尽くされて、時折その切れ間から白い帯のように月光が差し込むほかには、星も瞬かぬ。流れる黒い雲が、不吉な死の川の流れのように、灰色の夜空に揺らめいている。
 ひそやかな、後ろ暗いたくらみを心に秘めているゆえなのか、常の日々の夜にも嵐や雨、月のない夜も決して稀ではないはずであるのに、ことさら、今夜だけが、かつてないほどに暗く、長い、重い闇に覆いつくされた夜に感じられるのだ。
「――さま……」
 低い声を聞いて、はっと彼女は振り返った。いつも悲哀を秘めているような、小さな白いマリニアのような顔があった。
「シェハラザード様……」
「合図が――あって?」
 シェハラザードは鋭く囁いた。タマルの顔は緊張しきり、いつもよりさらに青白く血の気がない。
「いいえ――まだ……」
「――そう」
 シェハラザードは硬い表情で頷いた。
「おかしいですわね」
 シェハラザードの内心の苛立ちを代弁するようにタマルは言って、つと窓により、重いカーテンを押し広げて外を見やった。外は暗い夜――重たく淀んだ湖水が黒々とどこまでも広がっている。
「もう――約束では、ヤナスの刻と言うことでしたのに……」
「まだ、少し間があるわ」
 シェハラザードは自分に言い聞かせるように言った。
「これだけのことをしでかそうというからには、きっと色々と準備だとか、大変なことがあるのでしょう」
「……」
「何か言いたそうね、タマル」
「姫様が、あの男を信用しておられるのですもの。私ごときが、何も口を挟むことはございませんけれど……」
「あの男とは、アインデッドのことね?」
 シェハラザードはその名を、まるで大声で口にするとその呪いを招きよせると言われるサライルそのひとの名ででもあるかのようにそっと発音した。
「別に、信用などしていない、と何回言ったら判って? タマル。わたくしには、信用するもしないもないのよ。わたくしには、ほかに手立てがない、それだけ。――わたくしは、あの男に賭けるしかないのだわ」
「それは、もうよく判っておりますし、この期に及んで何をまだうるさいことを言っているのかとお思いになるでしょうけれど――私には、どうしても、あのひとが信用できないばかりか、恐ろしくてたまらないのですわ」
 タマルはそっと身を震わせて、細い両腕で自らの体をかき抱いた。
 険しい表情になっていたシェハラザードは、心を和らげた。そしてつと立ってゆき、後ろからそっとタマルのか細い体を抱き寄せ、胸に抱いた。
「何を恐れているの? わたくしがいるじゃないの。いつでも、強く、何者にも屈しないわたくしが、おまえと共にいるのよ」
 シェハラザードはタマルの耳にそっと囁きかけた。
「これ以上悪いことなど、起こりようもないわ。いちばん悪くても死ぬだけのこと。――わたくしは、あまりひどいことになるよりは、死ぬほうがましだと思うわ」
「そ、それは、そのとおりですけれど」
「二人でいれば、怖くないわ。わたくしと一緒にいれば」
 優しくシェハラザードは囁いた。
「男など、みな嫌いよ」
 シェハラザードはタマルの絹のようになめらかな頬に自らの頬を擦り付けた。
「みんな、女など欲望を満たす道具、勝手気ままに扱い、要らなくなればいつでも放り出せる生き人形としか思ってない。いやらしい、身勝手で残酷なけだものばかり――。男になど気を許すようなばかなまねは、一生わたくしはしないわ。その代わりわたくしは賢く、狡く、強くなって、奴らをみな手玉に取り、逆にわたくしが利用しつくしてやるのよ。見ておいで、タマル。ここから出さえすれば――エトルリアの勢力範囲を逃れさえすれば、何とかなるわ。あの嫌な盗賊だってしょせん男、ただの男よ、タマル。それ以外でも以上のものでもあるものですか。男なんてみんな同じよ。そのうち必ず、尻尾を出すわ……その時、うんと笑ってやればいいのよ。その時まで、利用するだけしてやるわ……」
「姫様は、いつのまにそんなに……」
「ひどくなったのか、と言いたいの?」
「いえ、滅相もない。いつのまに、そんなに強くおなりになったのかと思って」
「何も二人でいるときにまで、そんなふうに言葉を包むことはないわ。わたくしとお前のことじゃないの」
 シェハラザードは笑った。
「そうよ。わたくしは悪女になってやろうと決めたのよ。わたくしはあんまりにも世の中を知らなさすぎたわ。あんまり人の心を信じすぎていたわ。これからは、人など信じない。その代わり、利用してやるのよ。これ以上決して好きなように、過酷な運命にもてあそばれたりなどしないわ。――わたくしはもうラトキアの公女ではない。何一つ力も金も名も、何も持っていないただの無力な若い女。――けれど、このままで終わってたまるものですか。わたくしは必ず、このまま運命にうちひしがれてなどいないわ」
「姫さま……」
「とにかくここから逃げ出すことが全ての始まりだわ。そうしなくては、何一つ始まらない」
「そう、そうですわね」
「それに、このままここにいたら、いつかは――あのランに……」
 シェハラザードは、ぶるっと身を震わせた。その名を聞いて、タマルの方はいっそう恐慌にとらわれて、シェハラザードにひたと取りすがった。
「わたくしだけならまだいいわ。どうせ汚された体だもの。でも、このままでは、いずれあのけだものは、お前にまで……そんなことをさせてなるものですか。お前にだけは、指一本触れさせないと決心しているのよ。――お前はわたくしが守ると」
「姫様!」
「お前がいてくれるから、わたくしはこんな長い虜囚の日々だろうと、どんな辱めを受けようと、気もふれず死にもせず耐えてこられたのですものね」
「ああ――シェハラザードさま!」
「タマル!」
 いずれにせよ――
 当人はどんな苦労を積んだつもりであったにしろ、この二人の若い娘が、実際はあまり現実的でも、世長けてきたわけでもないのはどうやら確かなことであった。
 本来であれば、合図を待って、とっくにもろもろの準備を済ませて待ちわびていなければならないところだし、合図次第ですぐに動けるように準備を整えておくようにとも、かたくルカディウスに申し渡されていたのだが、二人の娘は少し荷造りに手をつけてみたものの、何をどのようにしてよいのかまるっきり判らなかったのと、かわいそうに実際的な知識というものをあまり身につけていなかったので、すぐにそれに飽きてしまい、あとはひたすらこうして二人で抱き合ったり、慰めあったり、一方が虚勢をはり、一方がおろおろしたりするより他のことは、何もしていなかった。
 ――もっとも、この虜囚の半年というもの、そうやって寄り添いあうことで、辛うじて互いの悲運を支えあって生きてきたのではあったのだ。
 ラスの夜は、静かに更けていきつつある。すでに、約束のヤナスの刻は大きく回っていた。
「風が出てきたわね」
 シェハラザードは、タマルを抱き寄せたまま呟くように言った。
 広い豪華な寝室には、真ん中に大きな天蓋付きの寝台がしつらえられ、南側と西側とは、大きく開いたサンルームに続く窓になっている。その下は歩哨のいるバルコニー。その下はサリア湖の湖水である。
 シェハラザード一人を幽閉し、守り、エトルリア大公の訪問に備えさせるためにわざわざ改築されたこの離宮は、何本もの柱によって支えられて大きく湖水の上に張り出し、陸とは、跳ね橋一つでつながって、いざと言うときには跳ね橋を上げさえすれば、たやすく孤立してしまえる仕組みになっている。
 湖に面する側は見晴らしがよく、夜哨を配しているので、これまた簡単に船を出して近づいたりはできない。
 その、いわば孤島の囚人であるシェハラザードとタマルを、いかにして赤い盗賊団千五百を率いるティフィリスのアインデッドと、その軍師ルカディウスが首尾よく脱出させようというのか――
 その手立てについては、シェハラザードたちはまだ何も聞かされていなかったのだ。
 ただ、この夜のヤナスの刻に合図するゆえ、必ずいつでも出られる用意をしておけと、だそれだけが秘密の通信文にしたためられていた。
 ざわざわざわ――
 シェハラザードの言うとおり、夜半を過ぎて、にわかに風が強まってきたようだ。
 強い風が湖面を波立たせ、湖岸の木々をざわめかせ、ただでさえ暗い夜は、ひとしお暗さと不気味さを増したかと思われる。
「何だか――今宵の風は……気味悪うございますわね」
「またお前は、そんな気の弱いことを」
「でも、なんだかとても暗くて、ざわざわして……」
「ちょっと、黙って」
 ふいにシェハラザードはタマルを押し止め、耳を澄ませた。
「何か音がしなかった? あの音は何?」
「え?」
 タマルはびくっとした。
「わ、私には何も――」
「何だか――大きな魚が跳ねたような音が……」
「ええっ……」
 タマルは一生懸命耳を澄ませたが、相変わらず、ざわざわ言う風のうなり、木々のざわめきしか聞こえなかった。
 シェハラザードはつと立ってゆくと、燭台のあかりをふっと吹き消した。部屋はたちまち闇に包まれる。手探りでタマルの所に戻り、シェハラザードはカーテンを押し開いた。湖水と、それにときおり映るわずかな月の明るさを受けて、室内はおぼろげに浮かび上がってくる。
 その濃い灰青色とも、藍色ともつかぬ闇の中で、二人の娘はぴったりと寄り添いあい、互いの動悸の音だけを熱く感じながら、じっと待った。
 と。
 彼女たちにとっては、何テルにも思われた五、六分の後だった。
 ヒューッと、鋭い口笛が、サンルームの方から聞こえてきたのである。
「あ!」
 何か叫びかけるタマルの口を、すばやく手を回してシェハラザードはふさいだ。
「しっ。わたくしが行くわ」
「いけません。大切なお体――あっ」
「静かに待っておいでね、タマル」
 囁いて、シェハラザードは用心深くカーテンをくぐり、サンルームに出た。サンルームは天井も、三方の壁も透き通るガラス板で張ってあるので、そこに出るといっそう明るかった。その中をシェハラザードは注意に注意を重ねて歩いていき、湖の上に大きく張り出したテラスの戸をそっと開けた。
「誰?」
 さっと冷たい夜風が流れ込み、シェハラザードの肌を粟立たせた。強い、水と、セラミスの香りの混ざりあった匂いに包まれながら、ざわざわと波立っている夜の湖水に向かって、シェハラザードはそっと囁きを送り込んだ。下の階のバルコニーに常にいるはずの夜哨に聞かれてはならぬのだ。
「誰かいるの?」
 ふいに、ヒュッと低い、何かが風を切る音がし、はっとシェハラザードが飛びのいたとき、何かがぴしりとテラスの手すりに巻きついた。
「あ……」
 それは、端に重りを付けた、革の丈夫な鞭のようなものだった。
「あなたなの? アインデッド」
「しッ、その名を口にするんじゃねえ、この間抜け」
 下のバルコニーから、低い、しかしはっきりとした応えがあった。
「ま……」
「いいからその紐の端をしっかり手すりに結びなおしてくれ。早くしろよ」
「……」
 いきなり間抜けと罵られたので、まだシェハラザードは気分を害していたが、さすがにそんな場合ではないことは悟った。きっと唇を噛み締めて、彼女は両手に力を込めて紐の端を結びつけた。
 すると下では何回か用心深く紐を引っ張ってみていたが、やがてかすかな気張るような声がして、ぬっと頭が手すりの向こうに現れたので、シェハラザードはあわや悲鳴を上げそうになった。

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