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                                *



 アインデッドは、その若い、強い筋力に物を言わせて革紐を伝い、テラスの下まで身を手繰りあげると、手すりに手を掛けて体を引きずり上げ、軽々と手すりをまたぎ越えた。が、すぐには行動を起こそうとはせず、紐を引っ張り上げると、不安になって何か言いかけようとするシェハラザードを手で制して、じっと辺りの気配に耳を澄ませ、全身で探ってみた。
 ようやく安心してシェハラザードに目を向ける。
「どうやらしばらくは大丈夫だ。歩哨の交代まで、あと一テルはある。その間は気付かれんだろう」
「ア、アイン、アインデッド」
 シェハラザードは化け物でも見たように吃った。
「いったい、どうやってたどり着いたの。まるで、南の海に住むクラーケンのようにずぶ濡れだわ」
「クラーケンね」
 アインデッドは鼻であしらった。
「どっちかと言や、船幽霊だろうがな。そういうお姫様は、クラーケンの何を知っているというんだ?――しょうがねえだろう、船を出しちゃ、あの長い間を夜哨に見つからずに漕ぎ寄せられねえ。水の下を潜って泳いできたのさ。ちょっとばかり床が濡れるくらいは我慢してもらおうぜ」
「ど――どこから、こんな長い間を」
「なに、ホーティンの近くからだ。大したこっちゃねえ。――俺はティフィリスのアインデッド、イェラントの海で産湯をつかい、ゼフィール港をゆりかごにして育った沿海州の男だからな。波も大してねえようなこんな湖ごとき、何千バル泳ごうがどうってこたねえんだ」
「まあ……」
「第一、その程度で驚いてもらっちゃ困るぜ、お姫様」
 アインデッドはわざとのように乱暴に言った。
「この後、あんたにも同じことをしてもらうんだからな」
「えッ!」
 さすがにシェハラザードは青くなった。
「でもわたくしは内陸のシャームに生まれ育ち――泳ぎなど、したこともないのよ!」
「判ってらあな。けど、あんたは、他の点ではどんなに気に食わねえにしろ、少なくとも肝だけは、女にしちゃ座ってると、俺は思ってる。そうじゃないか? え?」
「そ――そうありたいとは、いつも念じているわ。少なくとも」
「ようそろ」
 アインデッドは片目をつぶってみせた。いくぶん面白がっているようにも見える。
「話はついたな、公女殿下。――とにかくこの離宮は大人数の兵隊に見張られてる。跳ね橋の両端とも見張りがいて、とても陸伝いに向こう岸に逃げ出すのは無理だ。といって船を出しゃあ、漕ぎ寄せるのも漕ぎ去るのも、その間に必ず見つかる。湖上は何も遮るものがないし、その上二隻の小舟が、一テルごとに左右から離宮の周りを漕ぎ回っている。とんだ堅牢な警戒ぶりだ」
「……」
「だから、水の下ならいちばん安全ってわけなんだ。わかるかい」
「……」
 シェハラザードはぞっとして、両手で自分の体を抱きしめた。彼女には、泳いだこともないし、泳げないものとして当然の本能的な水への恐怖心も拒否心もあった。
「怖いだろうし、しんどいだろうが、なに――そう、たった二テルかそこらの辛抱だ。それで、ホーティン近くの岸に着く。そこいらに、ルカディウスと仲間たちが待ってる」
「お前はまだ、泳げないわたくしがどうやって水の下を潜ってゆくのか言ってないわ」
 シェハラザードは喘いだ。
「ネプティアではあるまいし、ずっと水中で息をせずにいることなどできないわ」
「馬鹿言ってんじゃねえよ」
 というのがアインデッドの乱暴な答えだった。
「俺が引いていってやるんだよ。そりゃ俺一人で泳ぐよりは時間がかかるだろうが、まだそんなに湖水も氷ほど冷たくはない。大丈夫だよ。ちゃんと息ができるように、うまいこと引いていってやる」
「……」
 シェハラザードは目を閉じて、何かに祈るようだった。
「水の中で溺れ死ぬのも、戦場で死ぬのも同じ死だわ」
 潔くシェハラザードは言った。
「それで、連れていっておくれ。わたくしは、お前に任せたと言ったからには、全てをゆだねるわ」
「他の点はともかく、あんたが勇敢だって事だけは、認めなきゃいけねえな!」
 アインデッドは第一印象がとても悪かったので、このかたくなで意地っ張りな若者として当然そうであるように、しつこくシェハラザードに悪意を持っていたが、この早い決断と勇気には、さしもの彼も敬意を表さずにはいられなかった。
「けど、もう一つあるんだ」
「何なの」
「いや――何しろ、そういうことなんで、言いにくいが身一つで脱出してもらう他ない。ほとんど身の回りの品を持ち出すことはできねえ」
「かまわないわ」
 騎虎の勢いでシェハラザードは言った。
「どうせここにあるものは全てエトルリアの与えたもの。わたくしにとって大切なものなど、何一つありはしないのだから」
「それと、その髪――」
 アインデッドは今度はいくぶんためらいがちに言いかけ、シェハラザードの、ようやく肩の辺りまで伸びてきた輝く銀髪を見つめ、それから濡れて体にべったりと張り付いている自分の長い髪を見て、かすかに首を振った。
「髪はしっかり束ねてきてくれ。泳ぐとき邪魔になるからな」
「判ったわ。他には?」
「ない。早くしたくにかかってくれ。なるべく厚地でヒラつかねえ服に着替えて、髪を縛って戻ってきてくれ」
「で、でも」
 はたと気付いて、シェハラザードはうろたえ気味に言った。
「わたくしはいいわ。でも、タマルにわたくしと同じ決断を期待しないで。あれはおとなしい娘だわ。わたくしと違って。あの子に、泳げないのに水の中に入れなどと言ったら気絶してしまうでしょう。タマルは水を恐れているし、わたくしのようにそれを乗り越えることはできないと思うわ」
「わかってる」
 アインデッドは眉をしかめ、肩をすくめた。
「第一、一人であんたとあの娘と二人を引いて泳いでいけるほど、いかなこの俺だって頑丈じゃねえ。あの娘は、置いてゆくよ」
「何ですって!」
 シェハラザードは叫び、あわや次の間の侍女たちを起こしてしまいかねないほどの強い声を抑えかねた。
「わたくしは、死んだってタマルと別々になど――」
「しッ、うるせえな」
 慌ててアインデッドは周りを見回した。
「何もタマルだけエトルリアに残してゆくと言ってるんじゃねえ。あの子は水中は無理なんだし、何と言ってもただの侍女だ。別段、あんたほど厳しい見張りの目はあるまいから、別に陸路で脱出することはできると言ってるんだ。ほら、例の男――あの小隊長と打ち合わせて、うまいこと逃げられる手筈にしてある。ちゃんとホーティンで落ち合える」
「本当ね? 本当に、ホーティンで落ち合えるのね?」
 シェハラザードは念を押した。
「ホーティンへ行って、タマルが来なかったら、わたくしはそこから引き返すから」
「馬鹿なことをほざくんじゃねえよ」
 アインデッドは機嫌を悪くした。
「全く、ひとの気も知らねえで、なんてうるさいアマなんだ。それが信じられねえなら、はなから止しにしとくんだな。さあ、いいから、とっとと用意をしてきたらどうなんだ。夜が明けるまで、ここでこうしてだべってるつもりかよ」
 というわけで――。
 次にシェハラザードがサンルームに入ってきたとき、彼女は髪をきっちりと束ね、黒い厚地の男物の服を身にまとって、ゆたかな胸と腰のせいで少年のようには見えなかったものの、いかにも凛々しく、男装の麗人といった様子に変じていた。その服はタマルの心づくしで、脱出用にかねてから用意されていたものだったのである。
 シェハラザードについて入ってきたタマルは、かたく命じられていたので、もうそこでまたしても取り乱したり、涙を見せたりこそしなかったものの、片時も離れたことのない女主人としばらくでも別々にならねばならないという考えにすっかり動転していた。
 このような非常の際であるので、ほとんど声も立てかねていたものの、その顔は引きつり、両手でひっきりなしに服の裾をねじり続けていなくては、手の震えを止められぬありさまであった。それも無理はなかった。もしもシェハラザードが脱出した後、それが露見すれば、当然まずタマルが疑われて、誰の手引きでどのように脱出し、どこに落ち延びたのかと、厳しい拷問にかけられるだろうことも予想できたからである。
 しかしタマルは健気にも女主人のために命を捨てようという決意を固めていたので、それについて一言も口に出そうとはしなかった。シェハラザードの方はまたこちらで、アインデッドが手立てを講じると言ったからには何としてでも手を打ってくれるはずだと信じ込もうとして、むっつりと黙り込み、タマルの悲しげな目から目をそらしていた。
「ふうん」
 その怯え、取り乱した二人の娘を、アインデッドは意地悪く、面白そうに上から下まで眺めた。
「なかなか、似合うじゃねえか。それに、思ったよりてきぱきやってのけたな」
「さあ、時間がないと言ったのはそなただわ。連れていっておくれ」
「いい覚悟だ。その前に、一つやらなきゃいけないことがあるが、紙と筆はあるか?」
「え――? タマル、持っておいで」
「その紙に、あんたには遺書を書いてもらう」
 アインデッドは言った。
「何ですって」
「つまりだ。長いことはエトルリアの目をごまかせねえにしろ、少しは探索の目を惑わす方策を講じておいた方がいい、とルカは言うのさ。だからここは、あんたが誇り高いラトキア公女として、大公の妾として暮らす日々にとうとう耐えかね、サリア湖に投身して自ら果てた、という見かけをこしらえておくのがいいというわけなんだ。同時にあんたの侍女も供をして果てたという格好を作っておいて、例の隊長の所に身を隠し、ほとぼりが冷めるのを待って我々を追ってくるって寸法だ。でないとあんたの侍女は捕らえられて手ひどい拷問にあうだろう。それじゃ逃がす手立ても難しくなるし、それに、か弱そうな女だから、口を割っちまうだろうしな」
「……」
 シェハラザードはいくぶん恥じ入って黙っていた。その沈黙をどう取ったのか、タマルが悲壮な覚悟を固めた顔で言った。
「そんな、私、決して喋ったりいたしません! それに、姫様がご無事に脱出なさるのを見届けたら、湖に身を投げて、自分の始末をつけるつもりでございました」
「そりゃ結構な覚悟だが、こっちにも都合ってものがあるんだ。勝手に死なれちゃ予定が狂うんだよ。いいから言うとおりにしな」
「我慢するのよ、タマル」
 シェハラザードはむっとして、怒ってもいないタマルの肩に手をかけて囁いた。
「ま、俺がこの離宮に火をつけて、その混乱に乗じて逃げ出し、エトルリアには逃げ遅れて死んだように思わせるって手もあったが――それじゃ身代わりの死体の手配とか、俺が逃げ出せねえとか、色々面倒だからな」
「ともかく、遺書を書けばいいのね――わたくしとタマルが」
「あんただけでも充分だ。侍女の方は、傍らに靴を脱いでおけば、みなが勝手に後を追ったと信じるだろう」
「タマル、書くものを」
「持ってまいりました」
 タマルのささげた樹皮紙とペンをとって、シェハラザードはふと考え込んだ。
「そうだわ」
 ちょっと眉をひそめて、シェハラザードは呟いた。
「よいことがある。――エトルリアに置き土産をしていって、いっそう混乱させてやろうと思うのだけど――どうかしら」
「どういうことだ?」
「――第一公子ランはとても凶暴な男で、わたくしが父の妾であることは百も承知のくせにわたくしを付け狙い、この間など、わざわざ船で漕ぎ寄せてきて、わたくしを力ずくで手込めにしようとしたのよ」
「物好きなこった。で?」
「……だ、だから、わたくしは、ラン公子に手込めにされて、エトルリア大公に申し訳が立たず入水自殺する、と書いておいてやるのよ。――大公はきっと一旦はわたくしを信じるわ。そして、まずランを呼びつけて難詰くらいはするに違いない。そのうち、わたくしが生きて反逆ののろしを上げたと知れば自然にその疑いはとけるでしょうが、それまでに少なくとも大公と公子の間にはしこりが残るはず――それは、エトルリアの力を殺ぐのに役立つのではないかしら」
「……」
 アインデッドは髪を引っ張りながらしばらく考え込んでいた。が、やがて頷いた。
「いいだろう」
 彼は言った。
「そいつはたしかに、幾ばくかの撹乱の役に立つかもしれんな。そう書けよ」
 本当に無礼な男だ――と言いたげにシェハラザードはアインデッドを睨み付けた。しかし一言も言わず、さらさらとラトキア文字で、あまり長くない文章をしたためた。インクを乾かすために吸い取り砂をふりかけ、それを壺の中に払い落としてから、この時代の慣例として畳んで封蝋を捺した。

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