前へ * 次へ
*
「待たせました。ティフィリスのアインデッド――モリダニアのルカディウス」
その翌日の夜。
かれらは再び、二度目の会見を同じサンルームで持ったのであった。
「さぞ退屈したでしょう。でも、この時間しか他の侍女たちを遠ざけられる時が無いものだから」
アインデッドもルカディウスも、何も言わない。ただ黙って、アインデッドはむっつりと、ルカディウスは恭しく、頭を下げたばかりである。
「一晩、よく考えさせてもらったわ。おまえたちの申し出について」
重々しく、シェハラザードは言った。相変わらず、セラミスの芳香が立ち込める部屋である。
今夜のシェハラザードは、セラミスの色の黄の、銀の交ぜ織りの絹のドレスに細い身を包み、銀色のゆたかな髪を後ろでまとめ、花を受けて、あでやかで美しく、彼女自身がさながら一枝の大輪のセラミスででもであるかのようだった。
シェハラザードは言いながら、相手の心をはかるように、じっとアインデッドを見つめた。もうルカディウスには全く一瞥もくれぬ。そのアメジストの瞳はひたすら、アインデッドだけを見つめている。
昨日は、何も考えたり、備えるいとまもなかったこととて、いわば不意打ちをくらってよろめいてしまったけれども、今日は万全の備えをしていることでもあり、改めて見参しよう――と考えているかのように――事実そうであったのだが――シェハラザードは、改めて探るような視線をアインデッドに注いでみた。
アインデッドは、いくぶん眉間に険しい皺を刻み、相変わらずたじろぐようすも無くその目を受け止めている。アインデッドの方も、一晩ずっと待っていたのでいくらかは落ち着いた心持ちにはなっていたが、しかし根が頑固なところがある彼は、自分の心の最も神聖な部分を容赦なくあざ笑ったシェハラザードに、まだそうたやすくは心をほどく気にはなれぬままであった。
その相変わらず冷ややかな、無感動な目にぶつかると、シェハラザードはたじろぎ、反射的にかっとなって、その頬に血がのぼってきたが、さすがにもう、これではいけないと思っていたので、昨日のように居丈高にふるまおうとはしなかった。
タマルに、男慣れしていることをひけらかした手前もある。何とか、アインデッドをも自分の魅力と美しさで征服できる――自分の手駒にできる、というところを示したかったのだ。
(それにしても、なんてきつい目をしているのだろう。エメラルドのような色をしているのに、まるで炎のようだわ)
シェハラザードは密かに、たじろぐまいと身構えながら考えずにはいられなかった。
(たしかに、こんな男は、これまで見たことがない。わたくしの知っているどんな男とも違うようだわ。――大公とも、二人の公子とも、公弟とも、父上やナーディルや、マギード兄さま、ラトキアの廷臣たち……どの男とも似ても似つかない)
(きっとわたくしの全然知らないような世界を、ずっと生きてきたのに違いない。わたくしには想像もつかないような生活を……)
(ただ、そう――こうして偏見を捨てて眺めてみると、この男は決して、そんなにも悪い人間ではなさそうだわ。タマルの言うとおり――腹黒くも、ずるくも見えない。何か信用させるところがある。ただ――きつそうだけれども。とても、とてもきつそうで、気が荒くて、猛々しくて)
(猛々しいといっても、あのランなどとはなんて違うのだろう。ただ粗野で乱暴なのとは違う。純粋で汚れのない炎のような……)
(本当に、わたくしにはもう何も無い――もう、この男の手にでも、身を託すより他にない。この手を拒んだら、わたくしがこの牢獄から逃れる機会は、もう二度と来ないかもしれない)
(しっかりするのよ、シェハラザード。――お前はこの緑の目と赤い髪の、盗賊の男を少し怖がっているけれども、でも弱みを見せては駄目。ちゃんとして、ありったけの全知全能をしぼってこの男を操り、利用してやるのよ。――そう、やっぱり、わたくしは世間知らずだった。いきなり、あんな態度をとってしまって、たやすく得られたかもしれない崇拝を自分でぶち壊してしまったのかもしれない。でもとにかくこの男だって男だわ。そうよ、シェハラザード。恐れないで。――これ以上どんなに酷くなったって、そんな悪いことは起こるはずないわ。これ以上悪くなることなどないわ。ここがわたくしのどん底――あとは登ってゆくだけだと、そう信じるしかない。そのためなら、どんなものでも掴んで……)
(さあ、シェハル、頑張ってこの男をとりこにしておやり。お前はエトルリアの大公父子四人が夢中で奪い合うくらい、美しくて魅力があるのよ。自信を持って――あでやかににっこり笑いかけて)
(わたくしはラトキア大公ツェペシュ・ラトキアの娘――光の天使シェハラザード……)
「アインデッド、もう、つまらぬ外交辞令はやめにしましょうね」
シェハラザードは、いきなりにっこりと微笑みかけては、かえってわざとらしく見えるだろうと、かすかに目元だけで笑ってみせた。アインデッドはむっつりと、シェハラザードが口を開くのを待ってその凝視を受け止めていたのである。
「時間もないし――お前は率直なのが好きだと言ったわね。わたくしも、そうだわ」
「……」
「結論から言うわ。――お前は、わたくしを本当にここから無事に逃がし、ラトキアに連れてゆき、そこで兵を募ってラトキア再興軍を興す――その自信があるのね? どんな方策を持っているのかは、今は聞かなくてもよい。――ただ、自信はあるのね?」
「ある」
ぶっきらぼうにアインデッドは答えた。
「なくて、こんなことをするか。自信があるかどうかじゃねえ。自信なんぞどうだっていい。――俺はやると言ったことは必ずやり遂げる。これまでだってずっとそうしてきた。それだけだ」
「――わかったわ」
シェハラザードは、相手の冷たさとそっけなさと荒っぽさに、またたじろぎそうになったが、これではならじと懸命に心を引き締めた。
「そういうことなら、何も文句はない。わたくしはお前にこの身の運命を賭けてみよう」
「姫――様!」
タマルが両手を胸に握り締め、気絶しそうな顔になった。シェハラザードは振り返ろうともしなかった。
「その後どうなるかは判らない。しかしとにかくわたくしは自由の身になれる。その後のことはその後のこと――はっきり言ってしまうけれど、エトルリアの第一公子ランが、しきりと父の手からわたくしを奪おうと企んで、強引に接近を図っている。わたくしは、ランの手から無事に逃れるためにも、一刻も早く本当はこの獄舎から出ねばならぬところだったのだわ」
アインデッドは、こう聞いてもべつだん何も感銘も受けたようではなかった。シェハラザードは密かにむっとし、また馬鹿にされたような気分を味わったが、とりあえず自分を抑えた。
「脱出の方策は全て任せるし、必要なものや人や情報があれば、手に入るものならば何なりとタマルに言って揃えさせよう。脱出は今言ったように一刻も早いほうがよい。そのつもりで考えていてくれるがよい」
「多分、あと三日、遅くとも五日のうちに必ず全ての用意を整えてごらんにいれます」
即座にルカディウスが答えた。
「今、とてもこの宮の警備は厳しい」
シェハラザードは囁くように言った。
「いま大公はわたくしが妊娠したと信じ込み、それはもう有頂天の喜びよう――ますます、わたくしを取り返されまいとしている。よほど巧いはかりごとを用いなくては、抜け出せないと思うわ」
「お任せください。そのための軍師です。必ず、巧い方法を見つけましょう」
ルカディウスは請け合った。
「その後どうするのかは、一応考えてあるのね?」
「シャームにはエトルリアの常駐軍一万がいる」
アインデッドは相変わらずむっつりと言った。
「警備も、反エトルリアの動きを封じようとする警戒もとても厳重だ。我々はいったんラトキア西部のフェリスに拠り、そこでラトキアの残党を集めるつもりでいる。ふれを密かにまわし、密使を出し――どの程度旧ラトキアの臣下がいるのか、どの程度の兵力を持っているのか、これは判らないが、もし有力な武将が十人ほど残っていれば、何人かはハイランドにまわして挟み撃ちにするなりできるだろう」
ルカディウスが言葉を添えた。
「示し合わせて地方の何箇所かで一斉に蜂起する。――これは鎮圧軍の兵力を分断させ、支配の網を分断する、効果ある手です。たた、問題は――建国三十年の歴史しかなかったラトキアに、人々がどの程度の忠誠を、失われてからまで保ち続けていられるか、ということですがね。……シャームの戦いで、ラトキアの有力な武将はずいぶん捕らわれたり死んだりしたはずです。どの程度、しかも兵力を保ったままで残っているか、ですね」
「わたくしの知るかぎりでは――」
シェハラザードは考え込んだ。
「五色騎士団の団長のうち、アクティバルとハディースは行方不明――ステラ伯とセナメンは戦死、ロディエ、ナハソールはわたくしと共に捕らわれ、エトルリアの囚人となったはず。フェリス伯ハイラードは……」
シェハラザードはふと、あの敗北の日の彼の涙を思い出して、目頭を熱くしたが、それを振り払うように続けた。
「ハイラードは斬首されたと聞いた。戦争責任を取らされ、ハイラード、エリフ、それにレスターの三人が処刑された、と」
「いずれにしても、そのあたりしだいでしょう。脱出はともかくとして、そのあと首尾よく独立軍の蜂起に漕ぎ付けられるかどうかは」
「……」
「千五百では、身辺の警護の役にしか立ちますまい」
「とにかく」
アインデッドが口を挟んだ。
「その事は、脱出してから考えてもかまわないだろう。そういうことで話は決まったんだから、後はまた脱出の手はずをつけてから、連絡しよう。例の小隊長の男を宿に寄越してくれればいい。一日一回ずつ来させてもらえると、話の進み具合を教えてやれるからな。――夜に紛れて、ともかくラスに帰るから、案内を頼む」
「は、はい」
「あんた」
アインデッドは、ごくかすかに目元を和ませた。
「何という名だったかな」
「私ですか。タマルと申します」
「タマルか」
それが? というように不安そうに、問いかけるようにするタマルに、かすかに笑って首を振ってみせ、思ったより優雅な礼をシェハラザードにして立ち上がる。
「じゃ、明日か明後日か、それがだめなら次の日だ」
言い捨ててベランダの入口の方へ行くのを、シェハラザードはじっと見守っていた。わけのわからぬもやもやとした苛立ち、腹立たしさのようなものがあった。
「――お待ちなさい」
ふいに、シェハラザードは叫んだ。ルカディウスがびっくりして、アインデッドが無表情に振り返る。
「まだ、何か?」
「アインデッド」
シェハラザードは一歩二歩、そちらに近づいた。腰に手を当て、胸をそらし、十九歳の美しい磨き上げられた肢体を誇示するかのようにアインデッドの前に立った。シェハラザードは女として決して背の低い方ではないが、むろんアインデッドよりは頭一つぶんほども低い。その銀色の頭をそらして、紫色の瞳をサファイアの炎のようにくるめかせ、ゆたかな珊瑚色の唇をひきしめ、いくぶん青ざめて、シェハラザードはアインデッドの目を正面から覗き込んだ。
「これだけは言っておきたいことがある」
「……」
「図らずもこうしてヤナスの手によってわたくしはお前に、わたくしの運命を一旦なりとも託さねばならなくなった」
何をどう言ったらいいのかわからぬまま、ただ衝動に突き上げられるままにシェハラザードは立て続けに喋った。
「わたくしはお前を知らぬし、こうなったからとて一朝一夕にお前を信用できるものでもない。だから、お前の申し出を受けるのは、他にどうしようもないからだわ。このままエトルリアの虜囚、大公の妾と朽ち果てるよりは、一度なりとも祖国の復興のため力を尽くしてみたい――それだけだわ」
「そんなことは判ってる。今さら信用してねえ、なんて言われるまでもねえ。こいつは取引なんだからな」
アインデッドはむっとして、むっつりと言った。
「それはけっこうなことだわ。わたくしの言っておきたいのはその事――お前はこれは取引だから、その、当然、首尾よくいったあかつきには、わたくしを――わたくしと結婚するつもりでいるのでしょうね。それは別に構わぬ。どうせ男などというものはそうに決まっているのだから。場合によっては、ラトキアの取り戻されたあかつきには、お前をラトキアの女大公の婿にすることも可能かもしれない――それ目当てで、お前にせよ身を賭して戦ってくれるのだろうから。でも、一つだけ、条件がある」
「……」
「わたくしと結婚するのは構わぬ。でも、わたくしを――わたくしの体には指一本触れぬと約束しなさい。そうしたら、ラトキアを取り戻すのはわたくしとお前の共同の目的になる。いまわたくしは何も持っていない――お前に与える報酬を。だから、わたくしはラトキアの大将軍、それとも望むのなら夫の座を約束するわ。しかしそのかわり――」
「くどいな」
アインデッドは低く言った。その緑の瞳は、強い怒りを必死にこらえているように燃え上がっていた。
「安心しろ、シェハラザード公女。俺は終生、あんたの体には指一本も触れやしないよ。頼まれたってな。――こっちにしろ、誇りとか自尊心ってものはあるんだ。あんたの体目当てでこんなことをするか、馬鹿野郎」
「それは結構だわ」
シェハラザードは内心少々傷ついていたが、かっとなって目を煌かせた。
「では、取引は成立したということね。それではこれから、お前はわたくしの騎士――共に戦うわたくしの騎士だわ。神聖な契約のために、わたくしに剣を捧げるがいい。わたくしはお前に剣を授ける」
「……」
アインデッドはじっとシェハラザードを見つめていたが、ふいにくるりと身をひるがえした。シェハラザードは驚いた。
「わたくしに剣を捧げないの? 取引でしょう」
「俺は」
アインデッドは振り向いた。そして、勝ち誇った響きをこめて言った。
「俺の剣はあんたのじゃねえ。俺の剣は、俺の運命の女のために取っておいてある。それはあんたじゃない。俺は自分で望まぬかぎり、決して誰にも剣を捧げたりしねえんだ。判ったかい、公女殿下」
言い捨てると、まっすぐに彼は外に通ずるドアを開けて退出した。ルカディウスが慌てて後を追う。ドアがばたんと閉まる。
シェハラザードは唇を噛んで夜の中に立ち尽くした。
前へ * 次へ