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                                *



 その、同じ頃。
 シェハラザードは遅くなった昼食を済ませ、タマルに他のものを遠ざけさせて、やっと二人きりで居間に入ったところであった。それまでは、エトルリア人の侍女がたくさん周りを取り巻いていたので、内緒話もできなかったのである。
「周りを調べて、タマル。――もう、誰の耳もない?」
 シェハラザードは言った。タマルはカーテンを開けたり、ドアの向こうを見にいったりして、ひとしきり調べてから戻ってきた。
「大丈夫でございますわ、シェハラザード様」
「そう。――やっと、話ができるわね。タマル、そばにおいで」
「はい」
 タマルはディヴァンに腰掛けているシェハラザードに近寄った。シェハラザードは手を差し延べた。
「もっと近くへ。わたくしの膝元においで」
「はい」
 タマルがいくぶんおずおずと、シェハラザードの足元にうずくまる。その肩を抱き寄せて、シェハラザードは言った。
「座ってよいのよ、タマル。隣に来てちょうだい」
「はい」
 隣にちょこんと座ったタマルの肩に手を回し、頭を引き寄せて、シェハラザードは自分の肩にもたれさせた。二人はしばらく無言で、そうして寄り添っていた。
「――あまり時間がないわ」
 ややあって、シェハラザードがささやいた。
「ねえ、タマル。――あの男たち……あの提案について、お前はどう思って?」
「そうですわね――」
 すでにこの幽囚の半年あまりのうちに、タマルはただの侍女などといったものではなく、シェハラザードにとっては、肉親の妹とも、無二の親友とも――他の何よりも近しい、大切な存在となっている。
 この敵国の直中(ただなか)におかれて、二人の娘はぴったりと寄り添いあい、何もかもを打ち明け、共にしあってようやく生きてきたのだった。
「私は、あの人たちの言うことがすべて偽りだ、とは思いません。たぶんあの人たちは本当のことを言っていると思いますわ――どちらもそう、腹が黒いという人には見えませんもの。……でも」
「でも、何?」
「だからと言って、その計画が成功するかどうかはまた、全く別のことだと思いますし。――それについては、わたしのように、兵法や戦のことなど何も知らない女には、何も申し上げられません」
「そうね、タマル」
「わたし、大切な姫様をそんなあてにならない計画のために危険にさらすのは嫌です。考えただけで恐ろしい――それに、千五百の手兵なんていくらなんでも少なすぎると思いますわ。エトルリアには、十万の勇猛な軍勢がありますのでしょう?」
「そうよ。でも、タマル。このままこうしていて、あの嫌らしいランに手込めにされるか、サンの子を産まされるか――いずれにしてももう、何の望みもありはしないのは、たしかだわ。わたくしは、追い詰められているのよ。それはこのわたくし自身がいちばんよく知っているわ」
「……」
「あの男――」
 シェハラザードは煙るような眼差しになった。
「あの男をどう思って? タマル」
「ルカディウス先生のことでございますか? それともティフィリスのアインデッドのことで?」
「ティフィリスのアインデッドのことよ。決まっているじゃないの。ばかね」
「どう――とおっしゃいますと……」
「粗野で、無礼な男よね。もちろん、盗賊で、出も卑しいのだから、当然そうでしょうけれど。でも、もしこの申し出に乗るとすれば、ラトキア再興のためには、あの男と力をあわせてゆくしかなくなってしまうわ。――ずっと、あの男の手兵や、財力をあてにするしかない。だって今のわたくしは、何一つ自分のものとして布切れ一枚だって持っていないただの囚人だもの。何も持っていない。あの男の、いわば好意にすがってゆくしかないのだわ」
「……」
「しきりと、地位が欲しいようなことを言っていたわね。そう言うからには、おそらく手柄を立てて、国を取り戻したら、将軍となるだけではおさまらないでしょう。いずれ私の婿に――と申し出てくるわ。そうは思わない?」
「それは、もちろんですわ。おそらく、それがいちばんの目当てだと思いますもの。でも、盗賊の分際で、なんて失礼な、身の程知らずなことを」
「そのとおりだわ。でも、わたくしたちにしたところで、今は何の力も後ろ盾もない、ただの囚人に過ぎないのだから、そのことはまだ今は何を言っても無駄と言うものよ」
 シェハラザードは大人らしくタマルをたしなめた。
「それよりもね、タマル。だから、わたくしは、何となくこれは天の声なのではないか、という気がするの。わたくしはちょうどこの、妊娠したのかどうかということで死ぬほど悩んでいたのだし、そうでなかったからにはここを逃げ出せればわたくしは自由だわ。もちろん、あの男がわたくしを騙して別の所に売り飛ばしたりしない、という保証はないけれども、しかしここまで来てしまえば、手をこまねいていて、ランに手込めにされたりするのと大した違いのないこと、という気がする。そして少なくとも、あの申し出に乗れば囚人ではなくなる」
「それでは――そ、それでは」
 驚いたあまり、タマルは口ごもった。
「姫様は、あの男の申し出を、お受けになるおつもりでございますか」
「タマル、大きな声を出さないで」
 シェハラザードは手を挙げて制した。
「まだ、最後まで心を決めたわけではないのよ。――だから、聞いているのじゃないの。あの男をどう思うか、と」
「あの、アインデッド――ですか」
 タマルは、これは重大なことになったと両頬を手で押さえた。
「そうですわね――あのう、なかなか素敵で……」
「まあ」
 シェハラザードはきっとなってタマルを睨んだ。
「お前ってば、あんな無礼な口を利く、粗野な育ちの悪そうな男を好ましいと思うのね? 呆れた」
「決して、そのような。あの、好ましいというようなお話ではなくて」
 タマルはうろたえたが、促されて渋々と続けた。
「ただ、なかなか、顔立ちや容貌は整っていると思ったまでですわ。別にそんな――」
「整っているですって。狼みたいに卑しい、物騒な、冷酷そうな目つきをして、口許はずるそうで、頭だってそう良くはなさそうじゃないの。美しいっていうのは、あんなものじゃないわ」
「そ、それは」
 タマルはおずおずとながら口答えをした。
「姫様に対する態度があまりにも無礼だったからですわ。あんな無礼なようすでは、粗野で下品に見えても仕方ございませんもの。私もそう思いました」
「そうかしら」
「そうですわ。きっと。最初は――あの、町に抜け出して、お医者を探していた時に会った時には、ほんとうに綺麗な人だと思いましたのよ」
「たしかに、ルカディウスとか言う男の後ろに黙って立っていた時には、わたくしだってそんな悪印象はなかったのよ」
 シェハラザードは何となくばつが悪そうに言った。
「でも、そんなに美しかったかしらね」
「ええ。女の私――しかも、姫様のような美しいお方を毎日近くで見慣れている私でも、驚くくらいに。髪なんて見たこともないような赤い色をしていて、エメラルドみたいな緑の瞳で。女の方かと思ってしまったくらいですもの――姫様?」
「タマル、お前が、そんなにあの男を好いているとはちっとも知らなかったわ」
 つんけんとシェハラザードは言った。
「どうも悪かったわね、悪口を言ってしまって。以後気をつけるわ」
「ひ、姫様、一体どうなさったのでございますか?」
「どうもこうもないわ。お前があの男に気持ちを寄せているとも気づかずに、色々と言ってしまって、悪かったと言っているのよ」
「姫様!」
 おろおろとしてタマルはシェハラザードを見つめた。それから、すっかり打ちのめされてしまってすすり泣きはじめた。
「お気に障ったのでしたら、お許しくださいまし。私、考えなしなことを申しましたわ……。もう決して申しません。姫様のお心も考えず、ほんとうに至らぬことを……どうして、私はこんなにうかつ者なのか……」
「まあ、タマル」
 シェハラザードは心を和らげた。そして、慌ててタマルの頭を抱え寄せて撫でた。
「ごめんなさい、苛めたりして。どうしてわたくしって、こんなに猛々しい、嫌な女なのかしら。あの男の言うとおりだわ――ランにあんな目に遭わされたのも、自業自得なのかもしれないわ」
「ど、どうしてそんなことをおっしゃるのですか。私を困らせて面白がっていらっしゃるのですか」
「わたくしがお前を困らせようなんて、そんなことをするわけがないじゃないの」
 シェハラザードはすっかり落ち着きを取り戻して笑った。
「とにかく今はそんなことを言っている場合じゃなかったわ。あの男のことよ。とりあえずは」
「ええ、そうですわね」
「邪魔してしまって、悪かったわ。続けてちょうだい。――あの男をどう思うかという話。もう、つまらぬことは言わないから」
「は、はい」
「容姿のことを聞いてるのじゃないのよ。あの男は、信用できるかしら?――人間を、じゃないわ。どうせいやしい盗賊風情だもの。そうじゃなく、武将として、本当にわたくしにとって役に立つかしら? 何よりも肝心なのは、あの男は――何というか、わたくしに操れるかしら? あの男の力を借りて国を再興したところで、あの男が望んでいるものを与えるわけにはいかないということはむろんだわ。私の体のことじゃないのよ――こんなもの、もう何の値打ちもない。こんなものを餌にして、何とかできるようなら、どうせ汚れてしまったこの体、いくらでも使って、利用してやるわ。でも――でも……」
 シェハラザードは口ごもったが、そんな事をしている場合ではないと気付いて、あけすけに言った。
「わたくし、怖かったの。あの男の目があまりに冷ややかで――。おかしなことを言うけれど、笑わない? タマル」
「笑いませんとも」
「わたくし、自信がなかったのよ。あの男の目を見ていて――そこに映る自分がどう見えているのか……サン大公だって息子たちだってみんな、欲望にぎらぎらした目でわたくしを見る。わたくしの体を舐め回すように見て、それしか考えていないような――それはでも、わたくし、大公のものにされたときから、それをこそ利用してやろうと思ったの。
 わたくしの今の武器といってはもう、この顔と体しかない。だからそれを使って何とか、愚かな男たちを操ってやろうと思っていたの。わたくしは美しいし若いし、だから男たちはみなわたくしを欲しがるわ――そう思ったのよ。だのにあの男は、まるでその辺の置物か、石造りのがらくたを見るみたいに、冷ややかに、何の関心もなくわたくしを見ていた。……わたくし、そのことに、かあっとなってしまったの」
「強がっていたんですわ」
 忠実なタマルは言った。
「姫様に恋しない男なんていませんわ。内心を見透かされまいと、虚勢を張っていただけですわ」
「なら、いいのだけれど……」
 シェハラザードは我にもあらず、気弱なため息をついた。
「でも――これは、きっとお前みたいな生娘には判らないと思うわ、タマル。男を知ってしまうとね、少し、男の心が読み取れるわ。何と言うか、相手が自分を欲しいと思っていると、それが愛からではなく野心や何かからでも、ちゃんとそれがこっちに伝わってくるの。感じ取れるのよ」
「そういうものでございますか!」
 タマルはすっかり感心して叫んだ。
「私には、わかりません」
「そういうものよ。今に男を知ればお前にも判るわ。――それが、あの男には、無いの。あの男は何を考えているのかさっぱり判らない。そんな、わたくしを好きでもなければラトキア大公の座が狙いでもない男がわたくしと結婚したいと望むのなら、それは、わたくしの持っているラトキア公女の名を利用し、そして捨て去る――か、あるいは始末するためでしかないわ。……わたくし、それが恐ろしい。もしかしたらあの男は恐ろしい男かもしれない。――あの緑の闇のような目……あのかっと怒った時の顔のきつさ。怖いわ。わたくし、あの男に身を託してラトキア再興に賭けてみるのが、恐ろしいわ」
「――では、追い返して……」
「何を言っているの」
 呆れたようにシェハラザードは言った。
「まだ判らないの? わたくしにはもう、二者択一なんて悠長なことは許されていないのよ。わたくしは追い詰められている。わたくしはここにとどまって、運命に流されているわけにはいかない。わたくしはもう、どんなものであれ差し出された手にすがりつくしかないの。ずっとそう思っていたわ――そこへあの手が差し延べられた。それをとって地獄を見るとしても、わたくしはゆかぬわけにはいかない。ランに手込めにされても、サンの子を産んでも、わたくしは破滅――それ以前に、エトルリアのお家騒動や大公妃のたくらみに巻き込まれ、命を落とす可能性の方が強い。いたずらに質問などして、お前を悩ませてしまって、悪かったわね。でも、初めから本当は答えなんか決まっていたの。それは判っていたわ」
「では――では、あの人を頼って、手を組んで……」
「エトルリアの公子か公弟の誰か一人を選ばされるよりはましだわ。いちばん悪くても、少なくとも囚人としてではなく、亡国のラトキア公女として死ねるわ」
 シェハラザードは毅然として言った。青白い血の気のない頬が引き締まり、わずかにかつての男勝りの公女を彷彿とさせた。
「しかたないわ、タマル。もっと扱いやすい手が差し延べられれば良かったと言ってみたところで。溺れるものはサライルの手でも拒みはしない、とことわざも言っているわ。ああ、でも――」
「姫……さま……」
「あの冷たい目――何の優しさもなく、美しいとも魅力的とも思わぬことを露にして見つめていたあの目。若い狼――かもしれない。もしかすると、あの猛々しい男にならできるかもしれないと思うから――だから、わたくしは、怖い。タマル、わたくし、あの男ゆえに、滅びるかもしれない予感がするわ」
「そんな――そんな!」
「しっかりして――しっかりするのよ、シェハル」
 シェハラザードは自分に向かって呟いた。
「何をびくついているの。――いつだってお前は勇敢なラトキアの公女だったはず。ナーディルの代わりに軍に叱咤し、戦った戦乙女。それがわたくしだった。この幽閉の日々で心が弱っているのだわ。――しっかりしなければ。何とかして、向こうに利用されるのではなく、こちらが向こうを利用してやらなくては。――ああ、でも……」
「姫様……」
「ティフィリスのアインデッド」
 低く、シェハラザードは口にした。
「何かが変わろうとしている。――きっとあの男、緑の瞳の狼がわたくしの運命を変える。恐れては駄目よ……あの男に賭けるしかないんだわ。わたくしには他に何も無い。何も無い……」
 シェハラザードは自分の腕で両の肩を抱きしめて、ディヴァンに倒れこんだ。
「ヤナスよ、勇気を!」
 慌てて駆け寄ったタマルの耳に、たしかにその、吐息のような弱々しい呟きが聞こえてきたのだった。

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