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                                *



 どのぐらい、待ったであろうか。
 ばたんとドアが開いた。彼らのくぐってきた、回廊に通ずるドアではなく、その横手の大きなドアである。
 はっと二人は跪き、頭を下げた。
「シェハラザード御前様でございます」
 タマルが言った。
「ルカディウス先生、お時間がございません。――他の侍女たちはみなエトルリアの者、ちょうど食事時ゆえ行ってくるがいい、しばらく私とサンルームにいらっしゃるからと言って遠ざけたので――ご挨拶などよろしゅうございますから、早くご診察を」
 タマルはかなり焦っているらしく、せきたてた。ルカディウスとアインデッドは跪いたままそっと目を見合わせ。そして思い切ってそろそろと顔を上げた。
 はっ――と、ルカディウスが鋭く息を呑む音が、アインデッドに聞こえた。アインデッドは、ルカディウスの後ろから、黙って鋭い目をラトキアの第三公女、今はエトルリア大公の愛妾である女を見守った。
 彼の目に映ったのは、スカイブルーのエトルリア風の衣服を身につけた、柳のようにすらりとした長身の美しい女だった。豪華な白銀色の滝のような髪がゆたかに肩の辺りに渦巻き、その髪に服と同じ色の髪飾りが留められている。白い顔に、厳しく、妖しく、不思議な相反する二つのものの混合であるかのような、菫色の瞳が一番目立っている。
 ほとんど化粧をしていないが、咲き誇る花のようにあでやかで、しかもセラミスのようにどこか脆く、均衡を欠いた印象があった。たしかに誰が見てもきわめて美しく、悩ましい女と言いそうなあでやかさだが、同時にアインデッドの目には、何かが狂った、張り詰めすぎた感じを与えた。その菫色の目が、何の興味もなさそうにルカディウスを見、そしてアインデッドを見た。
 あかつきの菫色の瞳と、湖のエメラルド色の瞳があった。
 ふと――。
 シェハラザードは何を思ったのか、眉間にしわを寄せて、まじまじとアインデッドを見つめた。アインデッドは無表情に見つめ返した。シェハラザードの珊瑚色の唇が小さく開き、さらに彼女はまじまじと見つめ続けた。
 アインデッドは目をそらさなかった。奇妙にも、一瞬のうちに不思議な緊張がそこに生まれた。かれらは二人とも、自分が先に目をそらしてなるものかという奇妙なかたい意思にとらわれて、互いをまじまじと正面から見合った。
 シェハラザードは軽く下唇を噛んだ。そして、こんな無礼な男がいるとは信じられない――自分が誰か知らぬのか、と言いたげにいくぶん苛立ちをおもてに表して、きつい目の光で見つめつづけた。
 アインデッドは無表情に、真正面から、緑の皮肉そうな瞳に力を込めて、その目を受け止めていた。
 シェハラザードの真っ白な頬に、ふいにすっと薄い血の色がさした。目の中の苛立ちがほのかな怒りに移り変わってゆくのが目に見えるようだった。
 アインデッドは、力ずくでねじ伏せようとするかのようなシェハラザードの目に正面から無表情な視線を当てた。
 奇妙な息詰まるような数瞬のあげくに、ふいにシェハラザードは激しくもぎはなすかのように瞬きをして目をそらした。そして、乾いた声で口を開いた。
「医師のルカディウスと申すのはその方か。早う、診てくれるがよい」
「恐れながら、ルカディウスはわたくしめにございます」
 シェハラザードの誤解に気付いてルカディウスは慌てて言った。
「それでは失礼して、拝見させて頂きとう存じますが、お体に触れさせていただいて、大事ございますまいか」
「大事無い。何なり、どのようになりと好きに診てくれるがよい。――どうすればよい。服を脱ぐのか」
「いえ、そのままでも何とか」
 ルカディウスは言い、進み出た。
「お時間もございませねば、ご無礼申し上げます」
「わらわが、子をはらんでおるかどうか、早う診てくれるが良い」
「は。ではまず、お脈を拝見」
 ルカディウスはもっともらしく擦り寄って、シェハラザードの手首を掴んだ。それから手を伸ばして瞼の裏を見、口を開けさせて舌を調べた。
「お胸を拝見しても――」
 言下に、シェハラザードはタマルに合図した。タマルが近づいて、うやうやしくシェハラザードの肩で留めた飾りボタンを外す。青い絹の服がはらりと開いた。下から、真っ白な、はっとするほどに白いなかなかにゆたかな胸がこぼれ出た。
 女のタマルですらはっと目をそらすほどの鮮烈な眺めであった。シェハラザードは顔の筋一つ動かさなかった。アインデッドは全く同じ無表情で、そのシェハラザードに目を当てていた。シェハラザードは怒ったように口許を引き締めた。
 ルカディウスはそっとその胸に触れ、乳首を調べた。
「よろしゅうございます。――では、お腹を」
 シェハラザードはその場で上衣の裾を持ち上げようとする。ルカディウスは押し止め、向こうを向かせた。そして前に屈み込んでいたが、ややあってシェハラザードに服を直すように言うと、おもむろに身を起こした。
「どうやら、お子はおられません」
 ルカディウスは重々しく言った。
「その兆しが出る場所を全てご無礼して調べさせていただきましたが、どこにも出てはおりませぬ。長年見てまいりましたこととて多分間違いはございますまい。ご懐妊ではあられませぬ」
「ひ――姫様!」
 タマルが叫んだ。そして思わず、シェハラザードの足元に身を投げ出した。
「ようございました――!」
 シェハラザードは何も言わない。ただ、ゆっくりと頷いた。
「ようございました――ようございました!」
「……」
「ご懐妊ではない方がよろしゅうございましたか」
 ルカディウスはわざとらしく言った。
「それはそれは、何よりのことでございました」
「大儀であった」
 ゆったりと――しかしやはり、全身に安堵の様子をにじませてシェハラザードは言い、そして左手首に嵌めていた宝石入りの腕輪を外して差し出した。
「これを取るが良い。――そちたちは何やら、こののち盗賊をはたらくとかを条件にして、わらわを診てくれたそうだが、それも良かろう。どのみちここにあるのは全てエトルリアの品、何なりと好きなものを持って参るがよかろう。大儀」
 ふわりとシェハラザードは立ち上がろうとする。そしてもう、彼らに目もくれずにタマルに合図して、出てゆこうとする。
 それへ、素早くルカディウスはアインデッドに目配せした。
 心得て、アインデッドはすっと身を起こした。それまでは一言も言わず、自己紹介もせぬまま、そこにうずくまって暗い目でこの様子に目を当てていたのである。
「しばらく、お待ちを」
 どのように呼びかけてよいのか、よく判らぬままに、アインデッドは言った。シェハラザードは出て行きかけていたが、ぴたりと足を止めた。ゆっくりと振り向く。
「何か」
「シェハラザード殿下。――ひとつ、お尋ね申し上げたい」
 アインデッドは、うやうやしい口の利き方をしなければと思いつつ、回りくどい暗喩やほのめかしなど性に合わぬと気付いて、いつもの彼の流儀に戻ることにした。彼の流儀――それはすなわち「率直」であった。
「そなたは」
 シェハラザードは何となくむっとしたようにアインデッドを見返った。
「何者か」
「俺は」
 アインデッドはゆっくりと立ち上がり、進み出た。
「俺の名はティフィリスのアインデッド・イミルと申し上げる。サリア街道を根城とする、赤い盗賊団の首領。――以後そのようにお見知りおき願わしい」
「ティフィリスの――アインデッド」
 シェハラザードは繰り返した。
「赤い盗賊」
「殿下にもご存じあられるかと存ずる。三千人を擁する街道の一大勢力だ。名の示す如く元の生まれはティフィリスだが、ゆえあって中原に流れ着き、こうして町々の平安を脅かしてきた」
「その盗賊の首領が、なにゆえ医師と同道した。何か、用か」
「用――というより」
 アインデッドは軽く頷いた。
「殿下に一つ、お尋ね申し上げたいことがある」
「何を」
 アインデッドはシェハラザードをじっと見つめた。シェハラザードもきつく見つめ返した。また、先程の奇妙な緊張感が生まれた。
 が、今度、瞬きをしてその対峙を破ったのはアインデッドの方だった。
「診察の報酬とし、盗賊をはたらくことをお許しいただいたが――本当に、何を盗み出してもかまわぬと仰せだろうか」
「偽りは言わぬ。何なりと、持ってお行き。話とは、それだけか」
「いや」
「時が移るのが惜しいのはわらわだけではないであろう。早うお言い」
 苛立ったように、シェハラザードは言った。
「俺が盗みたいものは、エトルリアのものではないのだが」
「エトルリアのものでは――ない?」
「さよう」
 アインデッドの緑の瞳が、ふっと笑うように和んだ。
「どうやらお判りいただけぬようだから、率直に言わせていただくが――シェハラザード殿下。俺が盗み出したいのは、あなただ」
 シェハラザードの紫色の瞳が、びっくりしたように瞠られた。しかし動揺は一瞬のことであった。
「どのようにして」
「さあ――そのことについて、お話ししたいと思って来た」
 アインデッドはシェハラザードを、今度ははっきりと気に入られようという意図を持って、無表情だった緑の瞳に力を込めて見つめた。
「現在の中原の情勢を見るに、メビウス‐ペルジア間の戦争は春におさまったとはいえその戦後処理はいまだ続き、クラインは徹底した不干渉主義を貫いている。そしてエトルリアは、メビウス‐ペルジア戦争にはどうやら静観するつもり――おそらくはペルジアにこれ以上の失策があれば話は別だろうが、今のところはラトキアを手に入れただけで満足しているようだ。――それゆえ俺は、この計画を実行に移す機会は今をおいて他にないと思った。つまり、あなたをエトルリアの虜囚の身から脱出させ、ラトキア再興の軍を起こすという」
「……」
 シェハラザードは何も言わない。ただじっと、アインデッドを見つめている。今度はシェハラザードの目が底知れぬ無表情になっていた。
「メビウス‐ペルジア戦争が終わってしまったというのは少々不利だが、逆に利用できることもある。エトルリアをペルジアが援助することはないだろうし、あまりことが大きくなればメビウスが干渉してくるという可能性もあるだろうから、今もしラトキア再興の軍が興っても、全兵力をそちらに投入する、というわけにはいかないだろう。クラインは立たないだろう。しかしもし、万一にもクラインの――」
 アインデッドは少し口ごもった。
「クラインの皇帝、あるいはメビウスの皇女とエトルリアの公子の誰かの間に縁組が結ばれるようなことがあれば、クラインも、メビウスも、エトルリアの要請に応じて援軍を出すかもしれない。だから先延ばしにするのは百害あって一利なしなんだ。今なら、エトルリアも、ある程度我々が兵を集め、かなりの勢力になってしまえば諦める。もともとがエトルリアのラトキア占領はゼーア内でのエトルリアの横車といっていい。だから――」
「相手は中原の大国エトルリア、その擁する兵力は十万にものぼる」
 初めてシェハラザードは口を開いた。しかし相変わらずの無表情のままだった。

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