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     そなたはまったく美しい。
     花とたとえるより、むしろこう呼ぼう
     光の天使、と。
     その銀の髪はまさに月の光ではないか。
              ――サン・タオ・ターリェン




     第一楽章 セラミスの中で




「イン・ツァン、ようすに何も変わりはないだろうな」
 衛兵のものとおぼしい、野太い声が聞こえた。
「はい。何も取り立ててございませんです」
「いつもどおり、五隻ぶんか」
「はい、さようで」
「例の方が、毎日の湯浴みから髪をくしけずるのから、惜しげもなく湯を使われるので、これだけでも足らんぐらいだわい。湯水のようにとはよく言ったもんだ。水の都エトルリアなればこそどうでもないが、ラトキアにいたときはどうしておったことやら」
 衛兵はもとより顔なじみで、いつもの形式的な手続きを済ませると、すぐにぐっとくだけた口調になっていた。
「ここだけの話だが、ありゃとんでもねえわがまま女だの。――ラトキアといやあ田舎のことだから、みかけは垢抜けなくても心根は純朴な女だろうかと思っていたが、とんでもない。見かけは綺麗だが、とんだわがままもんだ。何せ一日に三回も湯浴みをせにゃおさまらんと言うんだから」
「一日三回とは、そりゃ確かに多いこったな、イェン・ティンフー」
「それも、その他に大公様がお成りになった後はまた必ず、その前後に湯浴みだそうだ。これは、俺の女が湯場の腰元についているから、教えてくれたことだが。人には言うものではないぞ」
「わかっとるて。しかしまあ、そのおかげでうちの商売は儲かるわけで。ありがたいことだの」
「まったくだわ」
 声を合わせて笑う気配がして、にわかに様子を改めてイェン・ティンフーが言うのが聞こえてきた。
「ともかく荷下ろししなされ。この後の仕事のつごうもあるだろうて」
「そうするとするか」
「一応検めるでの」
 一隻ずつ通り過ぎながら、積み荷を見せているらしい。いよいよここが肝心かなめの所であった。バサッと音がした。いくらか目の前が明るくなり、また暗くなる。
「よーし、通れ」
 再び、ゆらゆらと船が動きはじめる。とりあえずは、船の中に密航者がひそんでいようとは怪しまれずにすんだらしい。しかし、まだ安心はできなかった。むしろこの先、船から出て宮殿の中に入ってゆくのが大変なのである。
 もう、外がどのような様子になっているのかは皆目分からなかった。だた、船がゆらゆらと動いているのだけが感じられる。そっと布を除けて様子を見たくても、外が今どのあたりで、どんな状況の所にいるのかわからぬので、じっと息を詰めて耐えているほかないのだ。
 やがて、船がまた止まった。何やらがやがや言う声が賑やかに聞こえ、やがて荷下ろしを始めたのか、どさりどさりと立て続けに大きな音がしはじめる。ルカディウスは、気が気でなかった。
(ここで見つかったら、みすみす敵の罠にはまりにきたようなもんだ。――といってここでばれりゃ、あの船頭だって同罪ということになる。めったにここまで来て売ったりはすまいが――しかし……抜け出すほうは何とかしようとあっさり請け合っていやがったが、さて……)
「おい」
 低い声がして、薪の一つをどけて覗き込んだのはさっきの船頭だった。
「皆をちっと先にやらして、ちょっとだけ周りに人がいなくなった。今の間に、早く消えてくんな」
「おお、恩に着るぜ」
 すかさずルカディウスは言い、ギーユ (うなぎ )>のように身をくねらせて、窮屈な隠れ家からもがき出た。それから慌てて一つ薪束をずらして手を伸ばし、アインデッドを引っ張り出してやる。
「これで、縁は切れたぜ。もし何かあってもおらは一切知らねえからな」
「もちろんだ。拷問されたって決して言わねえよ。ほら」
 ルカディウスはかくしから取り出した銀貨を気前よく相手の手に握らせた。そしてあとはもう荷物の小さい袋一つを抱えて、まっすぐにそこを離れかけた。
「おい、すまんが、食料の倉庫ってのはどこだ」
「その三つ並んでるうちの真ん中だ」
「ありがとよ、世話になったな」
 言い捨てて、ルカディウスは小走りにそちらに向かった。アインデッドも節々をさすりながら続く。
 その辺りは宮殿の裏手で、大きな倉庫らしい建物が三つ並んでいるほかは、ごたごたと色々なものを積み上げた高殿が広がり、その中に水路の行き止まりが入るようになっていた。その向こうは、平屋の台所らしい建物である。そのへんには人の姿が忙しげに立ち働く様子が木々の間から見える。
 薪船のつながれている桟橋からとりあえず見えない倉庫の横手に入ると、ルカディウスはそそくさとヤムのマントを脱ぎ捨てた。アインデッドもそうした。下はあらかじめ用意した人夫のなりで、革の肩当てがついたベストと、膝に革を縫いつけたズボンとサンダルというかっこうである。そしてルカディウスは二人のマントをぐるぐる丸めて、持っていた袋に突っ込み、大判の布を取り出してエトルリアの人夫ふうに頭に巻いて後ろで結わえた。
「ここに、そのタマルって侍女の手先が案内に来ることになってる」
 ルカディウスは説明した。
「食糧倉庫と武具倉庫の間の路地なら人目につかないと言ってたから、ここで間違いないだろう」
「時刻は」
「正午になると離宮の鐘が鳴る。それに合わせてみなが昼食に行くから、少し宮殿内の警備が手薄になる。その間に、御座所近くまで引き入れるそうだ」
「それまでここで待ってるってわけだな」
「人夫のなりにこしらえてきてるから、もし見咎められたらちょっとここで休んでいると言えばいい」
 アインデッドは何も言わず、路地に置かれていた丸太に腰を下ろした。またしても、ただ待つばかりの時間が始まった。しかしアインデッドは例によって、全然口を利かずにひっそりと待っていた。
 今度は、しかしもうここまで無事にもぐりこめたと思うせいか、意外に早く、待っていた鐘の音が鳴りはじめた。澄んだ音色が湖の上に広がっていく。それが幾つか鳴りおわった頃、路地の入り口に人影が立った。
「ルカディウス先生――?」
「そうだ」
「私は、衛兵隊の小隊長で、イー・ジュインというものです。侍女のタマルに頼まれて参りました」
 立っているのは、エトルリア衛兵のごつい鎧かぶとをつけた、まだ若い男だった。
「よかろう。案内を頼む」
「こちらへ」
 小隊長も一切無駄口を利かなかった。そのまま路地を抜け、回廊に入り、建物の中に入って彼らを案内する。高い天井の、石造りの建物の中に入るといちだんと空気がひんやりとして、そうしてどこからかシチューを煮るらしいスパイスのきいた香りが漂ってきた。ちょうど昼時なのだ。
 建物は全くエトルリア風であったが、故国を失った公女の心を慰めるためなのか、壁にはところどころにラトキアの風景の絵が描いてあった。小隊長は廊下に人影がないことを確かめてから、戸を開けて小部屋の一つに滑り込んだ。中はエトルリアの絹を張り巡らせた小さな婦人室になっている。
「ここで待っていてください」
 言い残して彼がそっと出て行って、四分の一テルも経たぬうちに、そのドアが控えめにノックされ、細く開けた隙間からタマルがすべりこんできた。今日はちゃんとした侍女のお仕着せを着ていた。
「ご無事でしたのね」
 ほっと胸をなでおろすようにタマルは言い、手に持っていた包みを差し出した。
「この先の奥殿へは、そのなりでは行かれません。これにお召し替えなさってください」
「ここでかね」
「はい。私、むこうを向いておりますから」
 包みの中には、エトルリア風の、黒い襟の詰まった上着と腰に巻く革ベルト、そして細いズボンが入っていた。それがこの宮殿の侍僕のお仕着せであるらしい。タマルは気の利く娘なので、ルカディウスの小さい体にも、アインデッドの長身にも、用意された服はぴったりと合った。タマルは盆を取り出してその上に何やかやと載せた。
「こちらの若い方が、これをお持ちになって、私のあとについてきてください。先生は申し訳ないのですが、その袋を担いで後から――そ、それから、あの」
 タマルは口ごもった。
「あの――報酬と言うか……色々持ってお帰りになることですけど、それは……」
「その話は、あとだ」
 ルカディウスは威厳をもって言った。
「とりあえずは、あんたの頼まれ事を先に片付けよう。さあ、早く案内してくれ」
「はい」
 タマルはまず首を出して廊下に人影のないのを確かめ、それから素早く二人を招いた。何となく息詰まるような感じで、三人はひと気のない長い廊下を歩いていった。昼休みなのであたりはとても静かで、遠くからかすかに談笑の声や食器の触れ合う音らしいものが聞こえてくる。
 円柱の立ち並ぶ回廊には日がさんさんと差し込み、そこを抜けるとまたひんやりと涼しくなる。窓の外に、燃え立つばかりのセラミスの群落と、その彼方にサリア湖が美しく青緑に光って見える。開いている窓の前を通ると、セラミスの強烈な香りがさあっと押し寄せてくる。
 セラミスはまた廊下の所々角の突き当たりにも、たっぷりと大きな壺に生けてあった。とにかくこの離宮全体がセラミスの群落の中にあるようなものなのだ。セラミスは、今の時期はおそらく温室で栽培したものであろうから小ぶりなものであったが、大きいものになると人の頭ほどもある、ヴェールのような花びらをもつ八重のきわめて華やかな花なので、それをぎっしりと大きな壺に生けてあると、まるでそこに炎が舞い踊っているかのように、その一角だけが明るく燃え上がって見えた。そして、甘くきつい、むせかえるような芳香が、ふわっと前を通るものを包むのだった。
 ほとんど人には会わなかったが、一回、ばたんとドアが開いて侍女が出てきたので、三人の心臓は飛び上がりそうになった。しかし侍女はたいへん急いでいたらしく、彼らの方など目もくれずに反対側に走り去っていった。三人はほっと胸をなでおろし、またしんと静まり返った静かな昼下がりの廊下の先を急いだ。
 はるか遠くから遠い幻のように人声がするばかりで、誰も通らぬ回廊を、円柱が影を落とす石畳を踏んで歩いてゆくと、まるでふしぎな夢の中に迷い込んでしまったようだった。タマルは一言も口を利かず、両手を胸の前で組んでせかせかと歩いてゆく。まるで、この宮殿はとっくの昔に無人になってしまっていて、ただ、その遠い昔に滅び去った幻が記憶の谺だけを響かせている――そんな気さえしてくるのである。
「こちらです」
 突然タマルが言ったので、二人はまたぎくりとした。
「こちらでお待ちください」
 タマルの指し示した重い一枚板の扉を開ける。いきなり、目の前が白熱した光に満たされたような、そんな気がした。そこは、セラミスの巨大な鉢をいっぱいに置き並べたサンルームだったのだ。
 タマルは慌てて姿を消していた。二人はそこに入ってゆき、ようやく目が慣れてきて目をしばたかせた。回廊も、天井と壁に囲まれた廊下よりはずっと明るかったけれども、壁から天井までガラスか水晶板で張ったこのサンルームの明るさにはとうてい比べられなかった。きらきらと光るサリア湖が不思議な幻のように広がっていた。
「なんて眩しいんだ、くそ」
 ルカディウスは目を手で覆って文句を言った。
「何も見えやしない」
 気だるい昼下がり、サリア湖の水はゆらゆらと揺れ、セラミスの強い匂いは胸苦しさをすらかきたてる。そのまま、セラミスの匂いに包まれて、二人は待った。

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