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     静かなる夜の湖畔にその名を呼べば
     真夜中の刻にうごめく夢よ、幻よ
     恐ろしき力の呪縛よ、亡霊よ
     立ちいで現われし
     森影にひそむ全ての闇に生きる者よ
                   ――オルフェ




      第三楽章 静かな湖畔




「お頭――」
 シロスがつと、アインデッドの傍らに寄り添うようにして囁いた。
「これから、どうするんで?」
「うるせえな」
 アインデッドは荒々しく言う。
「つまらねえ事を心配するんじゃねえよ」
「しかし、みな気にしてますぜ。――他の奴は、あのままでいいんですか」
「……」
 実際にシロスが気にしているのは、ルカディウスたち――というより、ルカディウス一人のことだ。そう、すぐにアインデッドは悟ったけれども、だからといってどうなるものでもなかった。そもそもアインデッド本人にも、この先について全く、何の考えやあてがあるわけでもないのである。
 船は岸に着き、わざと少しラスの街を外れた森かげから上陸して、三隻のカダーイを口止め料込みの、多めの金を与えて返したところであった。その後はもう、どうするあても今夜の宿のあてもない。
 しかしそれもすべて、考えに入っているかのように振る舞わなくてはならなかった。これまでいつも一人きり、一匹狼の傭兵としてふるまい、その後もずっとルカディウスがいてパイプ役をつとめてくれるのに甘んじていたアインデッドとしては、けっこう苦手な役回りであった。
(せっかく、こうしてラスまで来たんだ。――何とかして、シェハラザード公女と顔を合わせ、その力を借りる――というか、向こうに俺たちと共にやるよう、説き伏せなくては……)
 そのための方策として、しかし、公女の散歩しているところにでも出くわすか、何かを商うふりをして宮の中に入り込むか――といった程度の知恵しか思い浮かばない。
(ちっ。まあいい、何とかなるだろう)
 アインデッドはとにかくその晩は野宿をして、ゆっくり休むことをとりあえず決め、森の奥の方に入れば火を焚いた煙がラスから見えても、その辺りに点在する農家のものに見えるだろうということで、森を入ったところの、人目にたたない窪地を野営地にすることにして、そこに支度をするよう、シロスたちに言いつけた。
「今日はとにかく、ルカたちを待とう。それから、分担を決めて、街の様子を探るなりしてこい。サッシャほど人の多いにぎやかな街じゃない。旅のもんは目立つだろうから、充分気をつけろよ」
 一応指示を与えはしたが、皆も何となく、何をどう探ってきていいものやら、いま一つ納得いかぬようである。
「おかしら」
 シロスがまた、そっと寄ってきた。
「ちっと、まじめな話ですがね――ほんとに、このままじゃまずいでしょう。迎えをやるなり、せめてラスの街に、奴が来たときたずねあてられるように、見張りなり何なり置いておくとか――」
「シロス、お前」
 アインデッドは、間近に迫ったシロスの、頭も良さそうでなければ気も利きそうにない顔をじっと見つめた。
「え――?」
 シロスはびっくりしたように目を丸くしてアインデッドを見つめ返す。少しでも、崇拝する首領に下心や、見かけどおりでない企みや、そんなものがあるのかもしれない、などと夢にも疑ったことのない顔だ。
「ま、いい」
 ゆっくりとアインデッドは言った。
「奴のことだ。命さえ別状なければ、必ず俺の行方を捜し当てて追いついてくるだろう。ルカにはルカの方策ってもんがあるだろうから、その間こっちで勝手に動くのはまずい。今日一日はここでルカを待ちがてら、時間つぶしをしていようぜ」
「なるほど」
 ますますアインデッドをげんなりさせたことには、シロスはいま一つ冴えないままだった顔色をぱっと明るくさせて言うのだった。
「そういうことだったのか。――さすがはおかしらだ。俺たちとは考えの深さが違わあな。少しばかり心配してたんでさ。おかしらがあんまりルカの事を言わねえんで、何かまずいことでもあったんじゃあるめえか、とね。――だとしたら、おいらにも、関わりのねえことじゃなくなっちまうしなぁ。――そういうことなら、もうすっかりいいんだ。皆に改めて、ちゃんと気張って魚でも集めてきて、疲れておいでのおかしらにうめえ朝飯でも食わせてさしあげろ、と言ってきやしょう」
「あ……シロス」
 シロスがいそいそと、向こうの森の方へゆくのを、アインデッドはちょっと手を上げて引きとめた。
「へ、何ですか」
「何をしていいのか、わからねえんだろ。――ケヴィンたちに、湖の方で、残りの奴らが来るのを見張るよう言っとけ。それから、この金で、ラスの市場の方に出て食料調達がてら、シェハラザード公女の噂なり何なりをそれとなく聞きだしてこい。――そうだな、それはニゾリウスとメレアゲルの二人に行かせろ。いいな」
「へい」
 シロスが行ってしまうと、アインデッドはがくりと腰を落としてその辺の下草の上に座り込んだ。
(ちっ……)
 スイバの端をむしりとって口にくわえ、しがみながら眉をしかめる。
(ルカの野郎、けっこうシロスたちを手なづけちまいやがって)
 アインデッドは正直のところ、ルカディウスの作戦を立てたりする以外の能力というものを甘く見てなめてかかっていたので、いつのまにかルカディウスがシロスたちの人望を集めるようになっていたらしいのが予想外だった。
(こいつは、うかつに内心を見せるわけにはいかないな)
 しかしともかく、うまくルカディウスは置き去りにしてきた。もろもろの状況からいってルカディウスが生き延びる可能性は少ないし、死んでしまえばあとはどうあれ、幾らでも言いくるめよう、言い抜けようはあるのだ。そう思うと、アインデッドはいくぶんか落ち着いた。
(奴らは何も考えてやしないんだ。何も考える必要なんか、ないんだからな。ルカがさきゆき、俺にとってためにならねえ存在になるかもしれねえ、なんて言ったところで理解できまい。奴らにとって大切なのは今日飲む酒、今日の金、目先の欲と利益、それだけなんだ。何年もかけて達成してえ大望なんてものはありゃしねえんだ。ただそのへんの獣と同じで)
 そんな連中を頼みの戦力としなければならないことにいささか幻滅しながら、アインデッドはサリア湖の湖水に映る、半バルほど北寄りの湖岸に建つ白亜宮の遠景に目をやりながら、あれこれの思いにふけりはじめた。
 光の湖が湖水に細かな金粉を散らしたように輝いている。その上に建つ白亜の宮殿は、蜃気楼のようにあやしく、幻想的であった。
(ゼフィール港で見た、蜃気楼みたいだ……)
 目を閉じると、海のように広いサリア湖の、規則正しく打ち寄せてくる波の音がはっきりと聞き取れた。
(蜃気楼が見えるのは、海神祭の頃だったな……)
 あれはもう、何年の昔のことだったのだろう――。
 アインデッドは唐突に涙ぐみたくなるような強い激しい懐かしさに襲われた。ここにあるのは懐かしいティフィリスの海とは全く異質な真水の匂いだが、波の音がそんな望郷の念を呼び覚ますのだろうか。
(最後の海神祭は、ブリュンヒルデの上で見たんだ。フリードリヒと一緒に。あん時は俺はまだほんのガキで、二度とあれが見られなくなるなんて考えもしていなかった。そしてこれからも、俺がティフィリスに戻ることはないだろう――どんなに帰りたくとも、俺には帰るべき故郷はない……)
 それは苦い確信だった。それは恐らく、常に自信家であり、おのれの人生に一点の後悔も見出したことのないティフィリスのアインデッドが生まれて初めて感じた、後悔にも、絶望にも近い気持ちだった。
 そんなわけで、シロスが呼びに来たときには、少々いつもの陽気で自信たっぷりの彼らしからず、沈み込んだ様子になっていた。
「おかしら、朝飯をどうにか算段してきやしたから、ともかく腹ごしらえなさってくださいよ」
「おお、そうか。ご苦労」
 朝食は、ミールの団子を入れた魚の出汁のスープと、このあたりで好んで食べられるぽろぽろした黄色い米だった。部下たちはあちこちに点在する漁家や農家に行って、食物を調達してきたものであるらしい。
 だいぶ遅くなって、あと二テルもすれば昼というほどの時間になっていたので、みんな空腹であった。アインデッドはまったくそうではないつもりであったが、一口、団子汁を口にしたとたん、自分がひどく空腹であったということに気付いたのだった。
 考えてみると、若くて、食べ盛りの彼が、夕べからずっと食べていないのだ。しかも夕べの晩飯も一口、二口で食いはぐれている。
 そうと気付いたとたん、気分が悪くなるほどの猛烈な食欲に襲われて、アインデッドは猛然と食物を詰め込みはじめた。シロスが隣に控えてやはり食事をしている。他のものは、各々に少し離れた木陰に三々五々座り込み、これもまた食物を詰め込んでいる。
 アインデッドはディシア遊廓の悪ガキのお行儀よさを存分に発揮して、あとからあとから食物を口に詰め込み、噛むことも面倒そうに汁で飲み下し、夢中で食べていた。シロスはようやく首領が人心地ついたようだ、と見極めがつくまで、おとなしく待っていたが、やがて感じ入ったように言った。
「しかし何だねえ、おかしら。やっぱり、おかしらとルカは、格別の、何というかこう、きずなみてえな奴があるんだねえ」
「な、何を言いやがる。いきなり」
 アインデッドは団子汁にむせた。
「おかしなことを」
「おかしかねえよ」
 シロスは不平そうに言った。
「いや、俺あさ、ルカを置いてっちまって、この先もしルカに万一のことでもありゃ、おかしらはどうするつもりだろう、少しくらいやばくったって、ルカと落ち合うまで待っていなくちゃ、あとあと困るだろうに、おかしらはよくよく焦っていたのか、うっかりしてたか、どっちだろう――そう思っていたのにさ、おかしらはいっこうにやきもきする様子でもねえしさ。どうしたもんかと思ってたら、さっき、判ったね、やっと」
「何をよ」
「要するにおかしらはルカをほんとに信じているんだね」
「この野郎、気色の悪いことを抜かすもんじゃねえ。飯がまずくなるじゃねえか」
「何も、あっしにまで照れるこたあねえよ」
 シロスはにこにこした。
「おかしらはルカの知恵や、おかしらのやることなすこと、よくわかってるってことを、信用してるんだろう。だから必ず見つけ出すと思って、そうやってどっしりと落ち着いてるんだ。いやあ、なかなか、そうできるもんじゃねえ。大したもんだと思うよ」
「お前、ほんとにそう思うのか」
 アインデッドはかなり呆れて聞き返した。シロスはしかし大真面目の真顔である。
「もちろんじゃねえか。俺も早く、そこまでおかしらに信用されるようになりてえよ」
(こいつは、相当におめでたい奴だぞ)
 アインデッドはこっそりと独りごちた。そして、素焼きのつぼに鼻を突っ込み、最後の団子汁をすすりこむのに一心不乱のようなふりをした。シロスの方はいっこうにそれに気付かない。
「いやあ――やっぱり、ルカは人を見る目があるねえ。……ルカの言うとおりだ、と思うね」
「何がだ」
「いやさ、ルカは、ずっと前からときたま俺たちに言ってたんだ。俺たちのおかしらはとても若えし、気性がとても激しいから、ちょっと見には冷たかったり、ひどいようにさえ見えることもあるかもしれない。しかし、本当は芯はそりゃあ情の深い、義に厚い、心の優しい男惚れする男なんだ、そいつはちっと見てりゃあすぐわかるってね」
「よさねえか、てめえ。薄気味悪い」
「そ、そんなこと言うもんじゃねえよ。ルカは言ってたが――おかしらはとても、何というか内気なところがあって、思ったことを素直に出せねえし、裏腹に振る舞っちまう人だからってさ」
「おい、いいかげんにしろよ」
 アインデッドは食べ終わって口をぬぐうと、つぼを地に置き、かなり閉口してきたので、まだ何か喋りたそうなシロスを置き去りにして、少し離れた湖岸の方へ下りていった。

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