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 というわけで、三隻のカダーイは夜をかけてサリア湖畔のラスへと向かったのだった。それほど大した距離でもないが、大勢乗せているのと、本来が市中の運河用の小さい船であるのと、追手の目を恐れてメインの大きな水路を通らず、狭い横合いの水路から水路へとぬってゆくのとで、なかなか思い通りにははかどらない。
 盗賊たちは当番を決めて、交代で周囲を警戒しつつ、狭い船の中でくっつきあうようにして何とか仮眠をとった。
 狭い水路を抜け、やがてかなり広い人工の運河に入っていく。サッシャの街が後ろになると、船頭たちは小さな帆を取り出して、船底に転がしてあった細いマストを穴に差し込んで組み立てて、帆を張った。
 運河の両側には、平底船や、屋根つきの、平たいわりに大きい筏のような船がずらりと並んだ杭にもやっている。彼らは有名な、サッシャの水上生活者であった。一生、その大半を船に住み、船から船へと行き来し、サッシャの水路を船で素早く駆け巡り、この迷路を知り尽くしている船の民である。
 多くカダーイの船頭はこの階層の出身である。聞くところによれば、彼らこそは遥かなエルボスやその近辺のソンガから連れてこられた民の直系の子孫であり、最初に征服されてはるばるこの中原につれてこられたとき、故郷と良く似た湖水と川と小川の多いこの辺りを見て懐かしさにたえず、征服者たるゼーア皇帝に願い出てこの一帯を住まいにしたという。
 そして、陸の上よりも水上にいることを好む彼らはサリア湖からあちこち運河を掘り、網の目のように細い水路を巡らせ、しだいにサッシャをいまあるような水の都へと変貌させていったのだというのだ。
 運河の両側には柳の木が立ち並び、組み上げた石垣の上に枝を垂らしている。それもなかなかに、サッシャならではの風情ある眺めであった。
「――よく、こんなものを作りやがったもんだ」
 ギイ、ギイ、と櫓を押してゆく船頭の慣れた手さばきで、ゆらゆらと夜の運河を河口へと向かいながら、アインデッドはそっと呟いた。例によって、彼は毛布をかぶって丸くなったまま、全然寝ようともせずにじっと周囲に気を配っていた。
「え?」
 シロスがびくりと頭をもたげる。
「何かおっしゃいましたか、お頭」
「ひとり言だ。いいから寝てろ、シロス」
 アインデッドは、ちゃぷちゃぷと舷に当たる水音に耳を傾けながら言った。
(そうか。サッシャを落とすためには、この水路を握るかどうかが決め手になるか。普通なら、陸路さえ押さえりゃいい。海のほうが、まだ港々の要所を押さえればすむから、扱いやすい。が、サッシャじゃ、サリア湖畔のどこからでも、船をつけて兵を上陸させられるし、水路の全てを押さえることもできない)
(エトルリアが、シャームを簡単に陥したようには、サッシャはいかねえってことか。――ま、今すぐエトルリアを落としてどうこうってつもりがあるわけじゃねえが、たしかに攻めにくい都だ。――そのうえ水軍で攻めてきても、大船は水路には入らないし、小舟では兵が乗らない)
(この、網の目のような水路の突き当たりに、雪花宮がそびえている……)
 カダーイはしだいに広い河口へと向かってゆく。
 星々がしだいにその輝きを遠くし、月が蒼白く没しかかるころには、両岸はずいぶんと遠くなっていた。また、その左右には人家がほとんどなくなり、柳の並木に代わって黒く鬱蒼とした森が現れ始めていた。
 そうしてやがて行く手に、広々と黒く静まる、広大なサリア湖が広がってくる。
 それはなかなかに雄大な、素晴らしい風景であった。
 そろそろ、河口あたりの小さい集落の漁師やサッシャを日に何度も往復する荷運びたちの船が、明け方の運河に漕ぎ出してくる。小さい帆を垂らしたのや、カダーイよりも少し大型の双胴船、筏に毛が生えたような荷船など、いろいろな船がアインデッドたちのカダーイとすれ違う。
 まだ、夜明けが近いといっても辺りは薄暗い。それぞれの船は、舳先やマストにランプを吊るしたり、舳先に立つ水主(かこ)が松明を振ったりして、互いの存在を行き合う船に知らせあう。むろん、三隻のカダーイも舳先にカンテラを下げている。
 幾つもの明かりがちらちらと湖面に映り、それがさーっと急に崩れてゆく。チャプチャプとおだやかに打ち寄せていた波が、船とすれ違うとき、急に強く打ち寄せ、カダーイを軽く上下する。
(水だ――水の匂いがする)
 アインデッドは子供のようにこれらの様子を飽かずに眺めながら、また口の中でつぶやいた。
(不思議なもんだぜ。川は真水の匂いがしやがる。海の磯の匂い――同じ水でも、ちゃんとぜんぜん違う匂いがするもんだ)
(ゼフィール港の匂い――今でも思い出す)
 何のかのと言ってもやはりアインデッドはティフィリスの子、沿海州の血を持つ人間であった。サッシャに入り、いつも無意識の中で水の匂いがし、水のせせらぎが鳴っているような日々が始まってから、何となく彼は活き活きとし、同時に遥かなティフィリスに思いを馳せる癖がついている。
(海は、いいな)
 アインデッド自身は、小舟ぐらいは自在に操れるのはむろんだけれども、生粋の船乗りというわけでもない。しかし、彼の、顔も名も知らぬ父親は船乗りだったのだと母親に聞かされた。彼を養父として愛し、慈しんでくれたフリードリヒ王太子は、ティフィリスの海軍提督にして、ティフィリスの誇るブリュンヒルデ号の船長である。
(船の暮らしもいい。ジャニュアだの、メビウスだの、クラインだのにゃ、もううんざりだ。俺は本当は船乗りになって、フリードリヒの跡取りにしてもらい、ブリュンヒルデ号を率いて七つの海に乗り出してゆくことだってできたんだ)
 それがこうして今は、サッシャの運河でカダーイの揺れに身を任せている。
(人間、ほんとに明日の身の上はわかりゃしねえな。――わからねえと言や、ルカ、お前もまさか、こんなことになるとは思ってもなかったろうな。すまねえな。悪く思うな)
 兵士たちは十五、六人、ルカディウスたちは二十人ほどだったが、何と言っても完全武装のエトルリア兵、それに町なかのこととて、援軍を呼び寄せるのもわけはない。いつもサッシャでは、いかめしいエトルリア兵の一団が市中を巡回しているのだ。
(ほんとは、せめてもの情けに俺の手で殺してやるつもりだったが――。ひょんなことで手間が省けたってもんだ)
 アインデッドの口許に、薄い酷薄な笑みが浮かんだ。
(今頃は殺されたか、捕まって、牢にでもぶちこまれたか)
 捕らわれれば当然雪花宮に連れてゆかれ、ハン・マオの部下の尋問を受けることになるだろう。他の下っ端は何も知るまいから、当然その調べはルカディウスが中心になる。あの若い男はどこの誰だ、サッシャに何をしに来た、なぜこのように必死に取り返そうとする――と、厳しく責め苛まれるだろう。過酷な拷問にもかけられよう。
(あいつの、あの貧相な体なら――)
 一日と持たず、死ぬかもしれない。
(あいつはどういうわけか、俺に本気でぞっこんでいやがる。殺されるまで、決して俺の名もたくらみも、吐くようなことはあるまい)
 また万一にも逃げ延びて、無事に追手をかわし、約束の場所にやってきても、すでに待っているカダーイはいない。アインデッドとシロスたちが、その後いったいどこへ消え失せてしまったのか、知る術はルカディウスにはないのだ。
 むろん、ラスで目的を達しようとするだろう、くらいは読むかもしれない。
(奴がどうにか尋ね当ててくるまでに、こっちはとっとと目的を果してずらかってやる。そうすりゃ、広い中原だ。二度と巡り会うものか)
 それでも尋ねあててしつこく追いすがってくるようなら、今度こそは本当に、腰の剣にものを言わせるだけだ。
(俺は、お前が嫌いなんだよ、ルカ。――お前はけっこう切れるし、何でも知ってるし、良く働く、惜しい道具だ――とは思うぜ。だがな……いくら使えるったって、それが俺の神経をすり減らすときちゃ、そのままにしておけねえ)
(――お前が俺をひどい奴、残酷な、裏切り者の人でなしにするんだ。俺は、別の奴の前じゃこれでけっこういい人間なんだから、根っから根性が悪いわけじゃねえ。みんな、お前が悪いんだ。お前が俺をだめにする)
(だから、死んでほしい、俺の目の前から、永久に消えてほしいんだよ、ルカ――。お前は俺にはよくないんだ。現にさっきも俺はあの船頭を殺っちまった。何も殺すまでもねえものを、これだってお前のせいだぞ、ルカ)
(俺に目を付けたのを呪うがいいや。俺もお前をつい拾っちまった日を一生呪うからな。――ああ、嫌だ。こんなふうに人に煩わされるのは。俺はそんなのに慣れてない。お前は死ななくちゃならねえんだ、ルカ。俺は自由だ。人の思いに縛られるくらいなら、愛してほしくなんかない。俺は、独りでいい。俺に近づくな――俺に近づく奴は、みな、焼き尽くしてやる……)
「おかしら――おかしら!」
「え――?」
 あまりにも深く自らの激しい思いに没頭していたので、アインデッドは反射的に毛布をはね除けた。覗き込んでいたあわれなシロスは仰天して腰を抜かしそうになった。やにわに剣で切り払われるのではないか、というほどの殺気が、アインデッドからほとばしり、襲いかかると思えたのだ。
「何だ――シロスか」
「お、お、おかしら……、どう……」
「俺が、どうかしたか。どうもしねえぜ」
 シロスはかすれた声で言った。
「今、えらくおっかねえ顔してましたぜ――。ソーチを殺った時なんか、比べ物にならねえほど」
「難しい考え事してだけだ。そんなにすげえ顔してたか、俺」
「ばっさり切り殺されそうな気がした。お頭はいい男だから、怖え顔をするとえっれえ凄みがありやすね」
「わけもなく右腕のお前を切り殺してたまるかよ。狂人じゃあるめえし。そのぐらい凄みがきかなきゃ、てめえらの頭はつとまらねえよ。で、何だ。何か用だったのか」
「大した用じゃねえんですがね、寝てんのかな、と思ったんで。――もうじきにサリア湖に入るとこだから」
「おお、やっとか」
 アインデッドは毛布を押しのけて身を起こした。
 彼が暗い思考にひたりこんでいる間に、ようやく世界は明け初めていた。結局、一晩じゅう船上に揺られていたことになる。――東の空が白み、朝のほの白さが世界中を包んでいる。
 いつのまにか彼らのカダーイは運河を抜け、広大なサリア湖に入っていた。
 中原で最も広い湖として知られるサリア湖である。
 もっとも中原といえど、ことに山岳部は、その全ての地理が明らかになっているわけではないが、しかし少なくともこれほど大きな湖はもうゼーアにはない。その向こう岸はむろん見えない。
 明け初めてゆく光の下に、どこまでも広々と群青色の湖水が広がり、そのさまだけを見ていればまるでイェラントの海、ミリアの海に出たかのようだ。が、あの海独特のなつかしい潮の香りが鼻をつくことはない。――サリア湖は、淡水湖である。《光の湖》の名のとおり、波に砕ける陽光がきらきらと輝く。
 左右に広がる湖岸は深い森、その木の間に、小さな家々が見え隠れする。森の彼方に塔のようなものが見えているのは、方角からいってサッシャの郊外だろう。
 夜はすっかり明け、岸近いあたりに、何隻もの丸い平底船が出ていた。人が二人も乗るのがせいぜいのこの船は、サリア湖畔の葦を刈る、葦刈船である。腰に袋をくくりつけ、背に籠を背負った貧しげな身なりの男女が、二人ずつ葦刈船に足を踏ん張り、一人は棹を操り、もう一人は腰をかがめて、湖岸の水中からたくさん生えている葦を鋭い鎌で切り取っては籠に入れている。朝食前の軽い一働きだろう。
 この葦は丈夫で切れにくいので、よく乾かして籠や履物、とてもつばの広い船頭の帽子を編んだり、水に漬けて腐らせて繊維をとり、薄い筵や暖簾、うすべりを作ったりする。サリア湖の風物詩である。
 確かに、その葦で編んだ尖った三角の帽子を被り、籠を背負った人々が棹を操り、湖岸にもやう姿が朝もやの中に見えつ隠れつするのは、他のどこでも見られぬ、興味深い光景といえた。
 湖のもっとも岸を離れたところでは、もう朝漁の船が漕ぎ出している。こちらはもっと大きい船を碇でとめて、投網、さし網を打つ。小さい快速のカダーイは、漁の船を邪魔せぬように、そこを大きく迂回して、すいすいと運河口へ漕ぎ上ってゆく。
「ホーイ」
「ヨーイー」
 のどかな歌うような声がかけられる。網が上がると、中ではぴちぴちと跳ねる魚が銀鱗を輝かせている。
 湖岸は深い朝もやの中に白く煙っていた。その中を、漁船を避け、白い水脈をひいて、三隻のカダーイは順調に水上をすべった。風が出て、帆は半分がた張っている。船頭たちは深い湖に入ったので棹を使うのをやめ、帆綱に斜めに足を絡ませ、船の外に半ば身を乗り出して船を操っている。
「――!」
「え?――何――だって?」
 強い風が言葉を吹き飛ばす。船頭は口に手を当てた。
「ラスが見えてきたぞう――!」
 辛うじて、そう聞き取れる。サリア湖に入ればラスは目と鼻の先だ。
「あ……」
 ふいに、さっと陽光が降ってきて、朝靄が晴れてゆくと、目の先にまるで忽然と出現した幻のような、不思議な美しい宮殿が小さく見えた。
 橋で湖岸とつながれ、本体は無数の柱に支えられて水中に建っている。優美な、西方風の作りの建物。サンルームに光が反射してきらきら光る。その宮殿の、外からも見えるベランダ、バルコニー、窓、人工庭園らしい外側の一角――。
 その全てを埋めて、黄金色の炎が取り巻いていた。
 セラミスのおびただしい花々。
 その強烈な胸苦しい芳香が、湖水を渡ってここまでも届く。
「セラミス――」
 アインデッドは、胸いっぱいにその甘い香りを吸い込み、吐き出した。
「白亜宮だ――!」

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