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     エリニスの恋情……強い憎しみ、恨みを抱く
                 こと
     サライルの絆……悪縁のこと。
                望まぬ縁が続くこと
                      ――中原の諺




     第一楽章 ラティーナの夜想曲




「おい、何をやっているんだ。早くこっちに来いよ」
 部屋の中はもう揺らめく灯に薄暗く、夜はずいぶん更けている。
 サッシャ第一の遊廓、ラティーナの娼婦宿の一つであった。
 エトルリアの遊廓は、みなほとんど同じ作りになっている。小部屋、大部屋取り混ぜて、細長い一本の廊下の両側に並ぶ長い棟の中は薄暗く、玄関で履物を脱いで渡さなければならない。それは娼婦の足抜けや、客の逃亡を防ぐための手段であった。その代わり、足元はびっしりと絨毯を敷き詰め、壁はタペストリをかけめぐらせたり、布を張ったりしてある。
 各々の部屋の前を通ってゆくと、その部屋の中で思い思いに寛いでいる女たちを見ることができる。室内には長椅子やテーブルくらいしかなく、入口には薄い紗のカーテンが半分絞ってかけてある。突き当たりにやり手婆が陣取っており、どの女をと指名すると、その女を連れてきて、そのまま階段を上って二階の小部屋に入るようになっていた。
 すでに二階で稼いでいる女の部屋は、ぴったりとカーテンが閉じてしまっている。半分開けたり、すっかり開けたカーテンの向こうで、なまめかしいなりをした名うてのエトルリア娼婦たちがゆったりと水煙管で麻薬をふかしたり喋ったりしながら、誘う目つきで男たちを見やっているのは、なかなかに遊蕩的な眺めであった。
 エトルリアの娼婦といえば、世界で最も美しく妖艶で、床の技、手練手管に長けた女の代名詞として世界中に名が響いている。俗に男の夢として、「エトルリアの娼婦と遊び、クラインの女をめとり、メビウスの女に子を産ませる」というのがあるくらいだ。クラインの女は貞節で美人が多く、メビウスの女は丈夫で働き者で有名である。
 その、エトルリアの名高い娼婦のなりはといえば、乳房を丸出しにして、乳首にはさまざまな宝石や絵の具を塗り、たまにはそのまま乳房に花模様などを描くこともある。その胸から下の細腰は、きらびやかに刺繍をほどこしたサッシュを結び、色とりどりの下帯を後ろから回して股のあいだをくぐらせ、前で結んで垂らし、その上から透き通る布地のエトルリア風のズボンを履いている。
 初冬ということもあって肩からショールをかけたり、ヴェールをかけたりし、喉や手首、足首にも飾り物をつけ、髪は結うなり垂らすなりして、またその化粧も独特なものであった。孔雀石や青藍石の砕いた粉を眉とまぶたの上に丹念に塗りつけ、唇には玉虫色に輝くエトルリアの紅をつける。
 まぶたの青い輝きと唇の玉虫色が、黒蓮をたえずたきこめている小部屋の、薄暗い灯の中で、世にも悦楽的で悩ましく、ちかりちかりと光って心をそそる。
 言っておくと、とにかく「この世の悦楽で手に入らざるものなし」と豪語するエトルリアのこと、むろん女よりも少年や男が好ましいというものにはそれ専用の娼家がとびきりの上玉をそろえて御用を待っており、また金さえ積めば客のどんな嗜好にも応じられるという、かなりいかがわしい店も多かった。
 こうした遊興の巷はどこであれ多かれ少なかれ、そうした面を持っているものだが、むろん「美と快楽の都」ラスの世にも名高いディアナ遊廓をはじめ、このラティーナにも、他のもっと小さい色里にも、そうした華やかな誘惑に満ちた表の顔と同時に、暗く怪しい裏の顔を持っていたのは当然である。
 「手に入らざるなし」とは、快楽のみならず、人の命から、禁じられているはずの奴隷の売買、黒蓮の麻薬に白蓮の媚薬、毒薬まで、ありとあらゆるものにまでわたっていた。ここでは、金さえ出せば、どんなものでも手に入れることができる。
 野望に燃える若い盗賊団の首領がここ二、三日沈没に及んでいたのは、このようなところであった。もとより海の国ティフィリスの、ディシア遊廓で生まれ育ったティリンスのアインデッドのこと、どこに行こうと彼が最も寛ぎ、のびのびとし、ふるさとに帰ったように感じるのは、必ずこうした色里、遊廓、暗黒街の真ん中である。
 どこの国でもこうした場所は、何となく似通ったにおいと、隠語と、しきたりを持っている。それは、そうしたにおいをかぎ当て、自分もそういったものをまといつかせている人間にとっては、天下御免に開放されているものであった。
 かたぎの、良家の子女ででもあればおぞけをふるうに違いない、こうしたところの胡散臭さ、いかがわしさ、危険、暗黒ほど、アインデッドを生き生きと、水に帰った魚のようにするものは他になかった。
 アインデッドがその自慢の嗅覚で選びあてた娼家は「キュティアの家」という大層な名を持ち、隣が賭博場なのも都合が良かった。まず得意のさいころ博打をやって、少しばかり遊んでから、アインデッドはいよいよ娼家にくり込み、中でも一番若く、一番ぴちぴちして、一番べっぴんのフェイという女を敵娼(あいかた)に選ぶと、いちばん上等の部屋に沈没した。――それがもう、三日も前のことである。
 しばらく、自由国境地帯のルーハルくんだりで不自由な暮らしを強いられていたので、これはアインデッドにとっては天国のような暮らしだった。アインデッドは首尾よくルカディウスを追っ払うと、しばらくは何もかも忘れて酒を飲み、女とたわむれ、命の洗濯とやらに勤しんでいた。
 退屈すれば、隣に博打場もある。女をもう一人都合することもできる。――が、基本的に、アインデッドはもう一人女を増やすのはやったが、もとになる敵娼は、一回の遊びのうちは変えないことにしていた。
 もともとたいへん女に好かれるたちの彼としては、そうして何日か逗留していると、だいたい十中九まで女の方からすっかり熱を上げてきて、細やかに尽くしてくれるようになるし、中には彼に金を払わせまいとする女もいて、好都合だったのである。
 この晩――というか、ここでのアインデッドの敵娼(あいかた)のフェイは、まだ十九で、なかなかきれいな、十九というのにすでに最もエトルリア女らしい婀娜っぽさと強かさと手管とを全て身につけた小柄な娘であったが、この二、三日で、すでにだいぶアインデッドに惚れこんでいて、一夜を重ねるごとに、その客あしらいは細やかな、情の通ったものになっていた。
「――な。こっちに来いってば」
「いま、お酒の支度をしてるのよ」
 万一にも、アインデッド、ティフィリスのアインデッドという名が、どこかの街道警備隊から、このサッシャにまで届いていないものでもない。それを恐れて、ここでは彼は終始ベニツァのエンディートという偽名を使っている。
 知ってのとおりアインデッドの髪は赤かったが目は緑で、言わなければティフィリス人には見えなかったし、顔立ちも、目が吊り上がり気味でいくぶんかティフィリス系であったが、母方の混血のために、人種的特徴を掴みづらい。
 それに彼は、あちこち歩いてきたので、ほとんど訛りのないソレルア大陸共通語を喋る。ペルジア人になりすますのは、そう色々突っ込んだ話さえしなければ、そう困難なことではなかった。
「飲むんでしょう」
「ああ。けど、少しにしといてくれ。キュティアの矢が役に立たなくなるからな」
「あんたって、エンディート……」
 フェイは酒を盆に載せて運んできながら、感心したように言った。
「何だよ」
「ほんとに元気ね」
「当たり前だ、俺は若いんだ」
 アインデッドは得意そうに言って、身を横たえていた広いベッドの上に上体を起こし、手を伸ばすと、女を盆ごと引き寄せた。
「危ないってば。零れるわ」
「早くしろよ……」
 二人はくすくす笑いながら、もつれあうようにベッドに倒れこんだ。
「何だか、今夜は外が落ちつかねえな」
 フェイの長い髪に指をからませて弄びながら、アインデッドは言った。
「何かあるのかよ」
「ううん、何も聞いてないけど」
「お前が下に行ってた間、何となく廓全体がバタバタ、騒がしい気がしたぜ」
「そんなことないんじゃない。いつも、こんなもんよ。ここ、流行ってるもの」
「そういう、この店の客の話じゃなくてさ」
 アインデッドはフェイを引き寄せた。
 エトルリアの娼家には基本的に窓がない。しかし、薄い壁を通して、どこかの路上ででも歌うらしい、吟遊詩人の張り上げる声が聞こえてくる。
「暑いな」
 ややあって彼は身を起こし、額や首筋にじんわりと浮かんだ汗をうっとうしそうに手でぬぐった。
「もう冬だってのに、なんでこんなに蒸しやがるんだか」
「いま拭いてあげるわよ」
「窓がねえのがいけねえんだな」
 アインデッドはぶつぶつ言った。フェイが水を入れた手桶を持ってきて、麻の手布をしぼり、まめまめしくその体を拭ってやる。
「そう言やあ、ラトキアの公女ってのが、今、大公の妾になってこのサッシャにいるって話、知ってるか? えらい別嬪だって言うじゃねえか」
 また、ごろりとベッドに身を横たえた。
「今時分、何言ってんの」
 フェイは笑った。アインデッドの好きなタイプというのは、気の強い、はっきりと物を言う、目端の利く女であったから、ここでもちゃんと、そういう女を敵娼(あいかた)に彼は選んであった。
「ラトキアのシェハラザード姫が、大公さまのお妾になったのなんて、もう半年も前の事だわよ。はじめはそりゃ、泣きの涙だったらしいけど、すっかり今じゃ大公さまに可愛がられて、わざわざラスの離宮を与えられてさ。そりゃ優雅に暮らしてるらしいわよ。初めはあたしらも、自分の身と引き比べて、やっぱり女はかわいそうだ、いくさだ、国が滅びたってことのあるたびに、泣きを見るのは女だと思ったもんだけど、今じゃ、もと公女だろうが、おひいさまだろうが女は女、しぶといもんじゃないかとよく噂してるわよ。これでもしあの女に、息子でも生まれてご覧よ。よくよくあの女に迷い込んでしまったらしい大公さまのこと、上の二人の公子より、その子を大公の世継ぎにしたいくらいのこと、考えるかもしれない。そうしたら、結局ラトキアが滅びようと、彼女の身は大公妃、べつだん何の変わりもありゃしない。ほんとに女ってのはしぶといわね。死なないかぎり、若くてきれいな女ならどうにでもなるもんだわ。――まして身分の高い女はね」
「そんなこともなかろうが」
 アインデッドは、内心の強い関心をおくびにも出さぬよう、まったく興味のなさそうなようすを装った。
「へええ。ラスに離宮をな。――そいつは豪儀な話だな。ずいぶんでかいのか。大公はまたずいぶんと、その女のために要らん金を使ったんだろうな」
「そりゃ、一国の公女を住まわせるんだから、それなりだわね」
 フェイは頷いた。
「何でも、この前の客が話してくれたけど、サリアの湖に張り出していて、跳ね橋がいつも上がっててさ。船か、勅状持ちの使者じゃないと入れもしないって。そりゃ警戒が厳しいそうよ。そりゃそうよね。大公さまは、あの公女を誰かに奪い返されたら元も子もないんだものね。だいいち大公妃さまだって面白くないだろうし。そんな立派な離宮だって、自由に出入りできなきゃやっぱり囚人よ。あたしらとちっとも変わっちゃいない。高級の女郎じゃないかって、あたしら、よく言ってたもんよ」
「……」
「ま、あたしらは一応は納得ずくで身を売ったけど、あの人は国を滅ぼされて、しようもなかったんだから、そう言っちゃ気の毒じゃあるけどね」
「――何でもその女は、たいそうなべっぴんだそうだな。ど田舎のラトキア女とも思えねえような。そんなべっぴんをものにしたら、さぞかし男冥利に尽きるだろうな。――あいたた。何だよ、何だってそんなとこをつねるんだよ」
「なによ。しまりのない顔しちゃってさ。ほんとに、男って、なんでこうなんだろう。ああ、腹が立つわ。いま現にこうして女を抱きながら」
「痛、痛えってば。お前もべっぴんだよ。――けどさ」
「何よ」
「おい、よせって。――いや、俺は、一回もラトキア女できれいなのなんざ、見たことがねえからさ。一回くらい、その女の顔をちょっと見てみてえもんだと思ってさ」
「勝手に見に行けば」
 フェイは拗ねた声を出した。
「そのかわりどんな目に遭ったって知らないから。そのラスの離宮はたいそう厳重に警戒されてるというわよ。近づく奴は皆ラトキアの残党と見なされて、殺されるか、拷問にかけられるって。……その方が、世の女のためかもね。あんたみたいな、うさんくさい、ろくでなしの悪党はさ」
「何言ってやがる」
「だって――あら、おかみさんが呼んでる。ちょっと待ってて」
 フェイが、全裸の上にうすものを引っ掛けただけの格好で外に出ていったのを見送って、アインデッドはベッドに仰向けになった。その痩せたおもてから、にやついたところも、助平らしい表情もさっと消え失せて、その緑の瞳に、鋭い、油断ならない光があらわれてきた。

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