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 サン大公の離宮到着の知らせが届いたときには、シェハラザードは何とか身繕いを済ませ、気を静めて、居間に移って大公を迎える用意を整えていた。
 ここに来てから、ついつい感じることが前よりも少なくなっていた、自らの境遇のよるべなさ、頼りなさ、はかなさ――そうしたざまに、歴史は浅いとはいえども一国の、ラトキアの公女ともあろう身を追いやった非情の運命への憤りと悲しみに、胸が潰れる思いがする。
(父上、エスハザード姉様、ドニヤザード姉様、どうかわたくしを見守って。どうか、わたくしに力を貸して……)
 自殺した二人の姉、無残な最期を遂げた親類たちのことを思うと、体に一本心棒が通って、くずおれそうな身と心を支えてくれる心地がする。
「どうした?」
 野太い声をかけられて、シェハラザードはびくっと身を震わせた。何を言うにも姫君の身――サン大公に身を任せたのも一応は納得ずく、戦場でも、直接に乱戦の中に身を投じたことはない。あんなふうに、理不尽な、荒々しい男の暴力に晒されたのは、本当にこれが生まれて初めてのことであった。
「ええ……あの、どうも今日は……体の具合が」
「すぐれぬのか。それはよくない」
 近く覗き込んで、優しく言うその顔が、はっきりと明らかな親子の相似を見せて、あの男を思わせるのにさえ、体中がすくみ上がる。そうとも、サンは知らない。
 ソファに座っていたシェハラザードの隣に腰掛け、サンは気遣いと優しさを見せつつその腰を抱き寄せようとした。その時であった。
「――!」
 シェハラザードは弾かれたように立ち上がり、一瞬どこに走ればよいのか迷った挙げ句に窓辺に駆け寄り、身を乗り出した。胃がよじられるような痛みと同時に酸っぱいものがこみ上げ、シェハラザードはこらえきれずにこみ上げてきたものを吐き出した。苦味と酸っぱさが鼻を突き、涙が出た。
「どうした、シェハラザード」
 うろたえて、サン大公が立ち上がる。一度吐いてしまうとそれですっきりして、シェハラザードは咳き込み、その場に座り込んだ。サンはその背中をさすってやった。突然襲ってきた吐き気の発作が去ったことにほっとしていたので、その嫌悪感には、シェハラザードは気付かずに済んだ。
「大したことはございません。ただ、気分がすぐれませんの――」
 まだ荒い息遣いでシェハラザードは無理やり微笑もうとした。
「何でもないことがあるか。ひどい顔色だ。真っ青だぞ」
 サン大公がシェハラザードの顔を見て、驚いた。まさか嫌悪感が高じた余りに吐き気がしたのだなどとは言えない。ごまかすように微笑み、脂汗に濡れて張り付いた髪を、シェハラザードは額から払った。
「どうしたのだ」
「そ、その、風邪をひいてしまったのですわ、きっと。わたくし、昨日の夜はバルコニーの窓を開け放して眠ってしまいましたから」
「それはいかんな。医者を寄越させよう」
 昨日は実際に、窓を閉めていると少し暑く感じる夜であったから、シェハラザードの説明に疑いを差し挟んだようでもなく、サンは言った。再びシェハラザードは気分を何とか落ち着けて、椅子に戻った。
「しかし、な、シェハラザード。それは、つかぬことを聞くが、もしかして――」
「はい――?」
「日頃、わりあいに丈夫なそなたが、具合が悪いだの、吐き気がするのというのは、もしかして……」
「は……」
「子供ができた、という兆しはないか? いや、いや」
 サンは老いの目立つようになった顔をほころばせた。
「お前にしてみれば、まだ恨みもあるやもしれぬが――わしにとっては、前にも言ったが、心底お前がいとしいのだよ。知ってのとおり、アイシャとわしはたいへん仲のよい夫婦とは言えぬし、息子どもも――いま一つ、良くできたとは言えん。お前とわしの子なら、どんなに美しく健やかな子だろう。わしは、お前にわしの子を産んでほしい。わしの最後の夢かもしれん。男とは、幾つになっても夢を見たがるものだよ。シェハラザード――どうした?」
「いえ……」
 シェハラザードは、突き上げてきた震えをやっとかみ殺した。
(わたくしが、サンの子を)
(ラトキアとエトルリアの子。滅ぼした仇と、滅ぼされた恨みの間の……)
(とんでもない! そんな――そんなことになりでもしたら、わたくしは……わたくしは生きていられない。サライルの黄泉に行ってさえ、父上や姉上や、エトルリアの手にかかって死んだ、何万のラトキアの民に会わせる顔がない)
(それだけは――それだけは……)
 むろん、今のそれがそうではないことは、シェハラザードだけは知っている。だが、こうしてサンに愛されていれば、いずれ彼女も健やかな若い女である以上、必ず来ることなのだ、ということに――いま初めて、うかつにもシェハラザードは気付いた。
(それだけは……)
「どうした――?」
「い、いえ……」
「まあ、これから冬になるが、季節が良くなったら、全てのわずらわしい俗事から離れて、少しぐらいのんびりとしたいものだな。いずれまたお前と、どこかへゆっくり旅行でもしたいものだ」
「ニーリャンは、楽しゅうございましたわ……」
 その言葉だけはごまかしでも何でもなく、シェハラザードは言った。たった二日三日のことであったけれども、サリア湖以外の風景を眺めることができたのは、シェハラザードにとってほとんど一年か、それくらい久しいことであったから。
「そうか。では考えておこう。それにしても、シェハラザード。本当に、かなり具合が悪そうだな」
 サンはシェハラザードの青ざめた、若く美しいおもてに目を当てた。
「アイシャの奴めが騒ぎ立てるのが煩わしくて一飛びにここまで来てしまったが、お前はもう、今日はゆっくりとしていたほうがよいかもしれぬな。少しでもお前の顔を見たのでほっとした。今日はこれで帰ろう。明日には医者を寄越すつもりだ。ちゃんと休んで、無茶などしてはならぬぞ。よいな、これは命令だ」
「……まあ」
 シェハラザードは、ようやっと平静を取り戻して、あでやかに笑った。
「まるでもう、この身が閣下のお子をみごもったと決めておしまいになったようなことをおっしゃる。まだ、判りはしませんわ。それに――これは、風邪ですのよ」
「何となく、そんな確信があるのだよ」
 大公は笑いながら出ていった。
 それを見送って、シェハラザードはほっと深いため息をつき、ソファに座り込んだ。
(ああ)
 シェハラザードには、もう遥か昔のようにも、それでいてつい昨日のできごとにも思われる、祖国が独立し、ふたたび独立を失ったきっかけとなった呪わしい日。その日こそが全ての彼女の悲運の始まりであった。
(それまで、わたくしの日々は一点のかげりもなく、曇りもなく続いていたものを)
(あの日から、全てが暗転してしまった。本来ならばめでたい、祝われるべきであった我が祖国の誕生の日から――そして今、全てを失い、最後の誇りすらも脅かされながら、そうしてわたくしは敵将の妾となった身を、幽閉の塔の中に横たえている)
(胸が痛むほど、今となっては全てが懐かしい。あの時は、皆が、わたくしの傍らにいた。――父上、エスハザード姉様、ドニヤザード姉様、いとこのアルナワーズやシャルナワーズ、グリュン、アクティバル、そして、ナーディル)
(ナーディル……思い出さぬ日こそないわ。たった一人生きているだろう、わたくしの大切な弟!)
(今は、わたくしは本当に独りぼっち……タマルのほか誰一人、心許せる相手とていない。誰一人、わたくしのために命を懸けてくれるものもいない)
 憎い当の敵王たるサン大公の情けにこそ、すがらなくてはならない、あまりにも儚い身の上であった。その子、弟たちはすべて、自分の体を物のように奪い合い、自由にしようとしていがみ合い、しかし結局、彼女は美しい戦利品以上の何ものでもない。
(ああ――今更ながら、昔はなんて幸せだったのだろう。ナーディルと遠乗りに出かけたり、姉様たちときらびやかなドレスを着て、ダンスをして――何と幸せで、そして何もかもを持っていながら、その事に気付きもしなかったのだろう。何だかわたくしは、ひどく年をとってしまったような気がする。皆とっくに逝ってしまい、わたくしひとりが限りなく年老いてしまって生き残り、思い出を偲ぶよすがすらないような)
(父上の墓はいずこにある。皆はどの地で、誰の手にかかって斃れていったのか――。ナーディルは何処にいるのかしら。もし生きているとすれば、どこにいて、何をしているのだろうか。死んでいるのならば、どこでどのような最期を遂げたのか――あれを最後に見たのは、シャーム落城の日だった。わたくしが、逃れさせて……)
(どうして、わたくしはこのような身の上になってさえ、生きているのか……)
「姫様」
 いつのまにか、シェハラザードはうたた寝をしていたらしかった。
「あ……タマル」
「そろそろ、夕刻でございます。お召し替えをなさいませんと。夕風がたって、お体に毒ですわ」
「こんな体、どうなろうとかまうものですか」
 シェハラザードは吐き捨てるように言った。だが、タマルの目が悲しげに曇るのを見てたちまち後悔した。
「ああ、嘘よ、タマル。言ってみただけ。――どう。さっき打ち付けたところは、何ともない?」
「少し痛みますけれど、大事ございません。姫さまこそ、ひどい目におあいでしたのに。大公閣下が心配なさっていたようですけれど、いかがなさいましたの」
「あの男の事を思い出してしまって、気分が悪くなったのよ。少し、動揺が過ぎてしまったのだわ。でもわたくしなら、大丈夫。わたくしは、強いもの」
 わたくしは強いのだ――シェハラザードは、自分に言い聞かせた。目の前にタマルのかよわい、白い顔が、落ちてくる夕闇に白い花のように浮かんでいるのを見ていると、自分はタマルを守る立場にいるのだから、という自信がようやくわきあがってくる。
「灯をお持ちしますから、お召し替えを」
「ええ、するわ。でもその前に、タマル、何とかして、お前でも――誰か買収できるものでもいい。サッシャに、こっそり走らせられない?」
「と申しますと――」
「耳を貸して、タマル」
 シェハラザードはひそひそと囁いた。タマルは自分の口を手で押さえた。
「ご、ご懐妊? 姫様が! まさか――」
「わたくしも、そうではないと思うの。でも確かめたいのよ。――万一そんなことになれば、もうわたくしはそれ以上何もできない。赤子を持って脱出もいくさもできないし、第一、エトルリア大公の子を産んだ女など、ラトキアの民はもう認めてはくれないもの。たしかめて、はっきりしたことを知って、安心したい。もし万一そんなことになっていたら――仕方ない。そんな、呪われた赤子は闇に葬るしかない。ね、タマル、わかった?」
「は、はい」
 タマルは小さく身を震わせた。
「何とか――何とかいたしますわ。この私の、命にかえましても。……サッシャに行って、こっそりお医者か魔女を連れてくればよいのですわね? きっと何とかなると思います。ちょうど、申し上げるとご気分を悪くされると思って黙っておりましたけれど、小隊長のイー・ジュインが、私にかなりおぼしめしがあるのです。何とか、私も勇気を奮って色仕掛けをして、頼み込んでみます。――姫様がこんなに勇ましく、お一人で戦っていらっしゃるのに、タマルにできないわけがありましょうか」
「――でも、お前を危ない目に遭わせるくらいなら……」
「ご心配なさらず、お任せください。わたくしだって、ラトキアの民――公女殿下のためならば、命を捨てる覚悟でございます」
「おお、タマル。愛しているわ」
「姫様――私も……」
「時間がないのよ」
 シェハラザードは呟いた。暗く、その目が燃え上がる。
「何かが迫りつつあるわ。ランか、赤子か知らないけれど、何かが変わるという予感がするわ。急がなくては――!」

「Chronicle Rhapsody19 東の狼」 完


用語解説
トルキエの女……伝説の詩人オルフェの信奉者だった女たち。妻を失った後のオルフェに言い寄ったが相手にされず、逆上して彼を殺してしまった。
レアル……ラトキアの通貨単位。十分の一レアルがいちばん小さいので、シェハラザードの台詞はいわば「一円の価値もない」と言ったようなもの。

楽曲解説
「悲歌」……エレジー。死者の哀悼の詩。或いはそうした内容を持つ音楽。

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