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                               *



「私も、男なんて大嫌いです。憎みますわ!――私には姫様だけが全て。そうでなければどうしてこのエトルリアになど来ましょうか。一生おそばにおいてくださいまし。私は一生、姫様から離れません」
「本当に? タマル」
「本当に!」
「ヤナスに誓って?」
「十二神のすべてにかけて、お慕いしています。姫様から引き離されるくらいなら、わたしは舌を噛んで死にます」
「おお、タマル」
 シェハラザードはタマルを抱きしめ、頬に頬を押し当て、じっとしていた。この若い娘たちが、もう何度となく同じようなやりとりをしていることは明らかであったが、その言葉が与える感動が色褪せることはないようだった。
 シェハラザードは大柄で、骨格のしっかりした娘であったし、このところの幽閉暮らしでだいぶ落ちてきたとはいえ、ナーディルとともに鍛えてきた体には、女にしてはずいぶんしっかりした筋肉がついていた。その手に抱くと、タマルの体は骨などないかのようにか細く、痩せて、シェハラザードの保護欲と愛情をかきたてた。
「かわいいタマル」
 シェハラザードは囁いた。
「シェハラザード様――」
「可愛い、小さな、私のマリニア――。この世に信じられるのはお前だけ。私たち二人だけよ。男になど決してお前を渡さない。そのくらいなら、この手に掛けて殺してしまうわ。――私が、恐ろしい? タマル」
「いいえ! いいえ!――嬉しい……」
 そうして二人が再びそっと抱きしめあった時だった。
「ほおう、これは、間の悪いところに来てしまったようだな」
 粗野な――すでに二人のよく知っている声が、いきなり二人を飛び離れさせた。
「何者です! 無礼な!」
 すでに声だけで相手は判っているが、シェハラザードはとっさにタマルを後ろにかばい、声のした方に向かって仁王立ちになりながら、鋭い声で叱咤した。さすがに、公子の代わりに軍に号令した威厳は、少しの衰えも見せてはいなかった。
「相変わらず気ばかりは強いな、シェハラザード。美しい顔をして、どうしてそのように気が強いのか、俺には判らん――そう思っていたが、少し判るような気もしてきたぞ。つまりは、その小娘の腰元が、お前のから元気のもとなんだな!」
 毒の滴るような笑い声。それとともに、サンルームの下から這い上がるようにして現れた大柄な体が、すばやく室内に飛び込んできた。ずんぐりとたくましい、大きな体。ごつい、先の割れた顎の四角い顔、短く刈り込んだ髪。眉間の狭く、高く険しい顔が、巨大な猿を思わせた。シェハラザードはそっけなく顔を背けた。
「ランさま、何をしに、どこからおいでになりましたの?」
 彼女は冷ややかな声で言った。
「ちっ、まったく、可愛くない女だな。相変わらず」
 エトルリア二公子の長男、第一公子ランはにやりと笑い、入口から見える、ふかふかの絨毯を敷き詰めた廊下や、室内の様子をじろじろと眺め回した。
「まったく、父上が、こんな雌虎のどこを気に入って腑抜けにされているんだか、俺にはわからん。――女などというものは、少しぐらい美しかろうが、とにかく男にいかに従順で、おとなしいかだけが値打ちなんだぞ」
「そうお思いなら、さっとお帰りになったらどうですの。それに、わたくしはどこから、何をしに、とうかがいましたのよ」
 シェハラザードは、自らがこのランを強く嫌っていることを、隠そうとする手間さえさけなかった。ランは窓の下を指差した。
「何をしに、はすぐ判る。どこから、は、そこからさ」
「下はサリア湖ですわ」
「船を出させてな。かぎばしごをかけて、上がってきた」
「一国の王子ともあろうものが、こそ泥のような真似を。第一、お父上のお許しなしにここに近づくことは、お子たちといえど許されておらぬはず」
「だからこっそりと来たのだろうが。おかげでとんだ濡れ場を見せてもらったさ」
「汚らわしい」
 シェハラザードは唇を噛み締めた。タマルは恐ろしがってシェハラザードの背中にすがりついた。
「ともかく、この離宮のあるじはわたくし――。虜囚なりといえどこの中では、わたくしの命令が唯一です。お帰りなさい。さっさと、来たところから!」
 そして彼女は、荒々しく窓の外を指差した。
「おっと、俺がどこから来たかは言ったが、まだ何をしにかは言っておらぬはずだぞ。知りたくはないのか?」
「……」
「簡単なことさ。お前を、手込めにしにな」
 ランはくっくっと笑った。シェハラザードは青ざめた。
「大公様に見つかれば、公子といえど――」
「今日は、おやじは来んよ。というよりも来られんだろう。一旬もお前の所に入り浸ったおかげで、母上がすっかり機嫌をそこねたのでな。どういうものか、お前は売女の分際で、ひどく俺を――弟と叔父よりももっと嫌ってくれている。どうせ、娘ほども若い女とこう日夜いちゃついていては、おやじの命もそう長くはあるまいが、その後のことを考えると、今のうちにお前を手に入れておくのが得策だ。そう思って、機会をずっと窺っていたのだ。叔父やファンよりも嫌いのどうのと言ったところで、どうせ女の身など、抱いてしまえば俺になびくに決まっているからな。――とまあ、それがわざわざここまで来た用というわけだ」
「なんてばかな。わたくしがおとなしく、思いのままになるとでも? よしんば手込めにしたところで、ますます嫌われるだけのこと」
 シェハラザードはそっと後ろ手で、タマルに、サンルームを逃げ出して誰か呼んで来いと合図しながら、鋭く言った。
「第一、わたくしが大公様に、ラン公子にこうこうと訴えないとでもお思い? ばかばかしいにも程がある。人並みの分別があるのなら、そんなことができるかできないかくらいはお判りのはずですわ」
「それが、できるのさ」
 ランはにやにやしながらうけあった。
「お前は俺に身を任せ、しかもそれを決しておやじには言えんのさ。そうして逢瀬を重ねるうちに、なに、すぐに心が体に従うようになる。女なんてそんなものだ」
「ずいぶんな自信をお持ちですこと。――ばからしくて、呆れて物も言えませんわ。たとえあなたが地上最後の男だって、あなたの思いどおりになるくらいなら舌を噛んで果てるまでよ」
「だったら別に口などきかんでもいいぞ。死にたければ死ぬがいい。が、おやじに抱かれる前にもそう思っていたはずだがな。ええ? 所詮人ってものは、そう簡単には死にやせんのだ。未練たらたらだからな」
 いきなり、ランは言葉を切った。そろそろと後ずさりをして、タマルはやっと出入口にたどり着いたところだった。それへ、いきなりランの体が、大柄に似合わぬ敏捷さでおどりかかり、引きずり寄せた。
 叫ぼうとするタマルの口を掌で塞ぎ、いつ抜いたのか、鋭い短剣が彼女ののどもとにぴたりと押し当てられる。
「タマルに、何をする!」
 シェハラザードは叫んだ。
「静かにしろ。でないと……」
 ランは剣の平でぴたぴたとタマルの頬を叩いた。ランは大柄で、力の強い、鍛え抜いた戦士である。三人の公弟、公子の中で最も戦士としては名を馳せた男だ。シェハラザードでもどうにもなるまいが、ましてか弱いタマルの抗えようはずがない。ランの手の中で、タマルはまるで小さな子供のようにしか見えなかった。その目は、恐怖に大きく見開かれていた。
「卑怯な」
 シェハラザードが、ありったけの憎悪をこめて罵った。
「で、どうする、シェハラザード? 俺の方はどっちでも一向にかまわんぞ。この娘をさらっていって俺の奴隷にするか、この場で自由にしてやろうか? それとも、お前が俺の言うことを聞くか――両方か? むろん、お前は言わぬと誓ったらそれは守るだろう。誇りあるラトキアの姫だものな。なに、どうせいずれ確実に親父は死ぬ。その時、俺が後ろ盾にいたほうが、叔父や弟よりずっと確かだということは、お前にだって判っているはずさ――ファンは腰抜けだし、ハン・マオなど問題外だからな」
「わたくしに、父親の目を盗んで息子と関係を持てというのですか。恥知らず」
 シェハラザードは紙のように蒼白になりながら言った。
「いまさら、別段そう気取ることもあるまい。処女でもないくせに。第一、親父にそんなに貞操を誓うほど心も自由にされてしまったのか? 初めは親父をだって、力ずくで自分を汚した男と――今でも思っているのだろう。なら、俺と親父と、どこがどう違うというのだ。それとも、親父に惚れて、一生を奴の妾で過ごしたくなったか?」
「とにかく――とにかく、タマルを放して」
 シェハラザードはもどかしそうに激しく言った。
「わたくしを辱めるというのなら――仕方ないわ。でもタマルは……タマルには何もしないで! そんなことをしたら、二人とも死ぬわよ! そして化けて出て取り殺してやる。必ず、わたくしの怨念でエトルリアを滅ぼしてやる!」
「それが本音なんだろう? やっと吐いたな、ラトキア女」
 ランは笑って、いきなりタマルを突き飛ばした。あっと手を伸ばしかけたシェハラザードの腕を掴み、ぐいと引き寄せる。満足げに彼女の胸元をまさぐりながら、ランはにやにやと笑った。
「そいつを聞きたかったんだ。そう思っているのなら、話がわからんこともあるまい。おい、シェハラザード。俺のものになれ。そしてエトルリアを滅ぼす手伝いをしろ。そうしたら、お前にラトキアをくれてやる」
「真っ平だ。汚らわしい!」
「話のわからん奴だな」
「どうせ、我が父親を殺す計画でも立てているのだろうけれど」
 シェハラザードはありったけの力で、ランの腕をふりほどこうとしながら答えた。
「たとえもう一度ラトキアを取り戻すと言われても、そんな汚らわしい手で取り戻した国など要るものか。一生をここで虜囚と朽ち果てたほうがまだいい。わたくしにだってまだ誇りはある!」
「この期に及んで――こんな惨めな身の上に成り下がって、まだ誇り、誇りか」
 ランはあざ笑った。
「なら、その最後の誇りも取っ払ってやる。俺の、もっとも卑しい女奴隷のように扱い、男には女などはおとなしく従うだけでいいのだということを思い知らせてやる。まったく、お姫はだから厄介だ。何一つできはせんくせにな」
 ランはシェハラザードのドレスの胸を掴み、引き裂こうとした。シェハラザードが観念の目を閉じたときだった。
 高らかなラッパの音が、湖水を渡って聞こえてきた。
「あ……」
 すでにすっかり馴染んだ、大公のお成りの合図だった。
「何だと。親父だと」
 ランもさすがに慌てたらしい。
「くそっ。よくよく迷い込んで魂を抜かれたな。腑抜けめ」
 悪態をつき、シェハラザードを突き飛ばして彼女から手を離した。シェハラザードはよろめき、体から力が抜けてしまったように床に倒れ伏した。
「おい女、きさま、この事を一言でも親父に言ってみろ。お前の大切な小娘をめった切りのなぶり殺しにして、魚の餌にしてやるぞ。いいか、俺はやるといったことは絶対にやるからな。早く身支度をして、すまして親父を迎えろ、淫売」
 シェハラザードはありったけの蔑みと憎しみを込めた目をランに注いだ。
「いずれ近いうちにまた来る。その時には必ず、きさまを俺のものにしてやるからな。俺に襲われたなどと言ったって親父は信じやせん。信じたところで、お前から誘ったと言えばそれまでよ。いま、長男で右府将軍の俺に女のことで罰を食わすことなんか、できやしないんだ。いいか、そのつもりでくだらんあがきはせんことだ」
 言い捨てると、急いでまた窓からするすると湖水へ下りてゆく。そこに船を待たせているのだろう。それを待ちもせず、シェハラザードは突き飛ばされたときに頭を打ち付けて気を失ったタマルに駆け寄った。
「タマル、タマル、しっかりして。お願い、目を開いて」
 半ば泣き声で抱き起こし、揺さぶる。うーんと呻いて、タマルが目を開けた。
「ひっ……ああっ、姫様――」
「大丈夫よ」
 シェハラザードは恐怖の名残で身を震わせながら、自らも落ち着かせようと低い声でささやいた。
「あの男は行ってしまったわ。――大公がお成りなのよ。あと十テルジンもしたら着くでしょう。それまでに、何でもなかったようにしなければ……」
 やっと窮地を脱したという安心さえ、味わうことを許されない。今はなかなかの寵愛を得ているとはいえ、あくまでも虜囚の、一介の女の身――ランの言うとおり、我が子であり国の重鎮でもある彼の言とシェハラザードの訴え、どちらにサン大公が重きを置くかは知れていた。
「ああ――!」
 突然シェハラザードがため息とも泣き出すともつかぬ声を出したので、タマルは仰天した。いつもシェハラザードは強気で、すぐに泣き出すタマルを慰める側であったから。
「だめだわ。駄目だわ。非情になって、男たちを利用して、何とかして、ラトキアを再興しようと思っていたのよ。でも、でもわたくしなんて何も知らない。何もできない! わたくしは無力だわ。どうしたらいいの――どんどん流されてゆくばかり。――もう何もわからないわ。駄目。わたくし、駄目よ。タマル、タマル――」
「ひ……姫様、でも、早くお支度を……」
「そ、そうね……」
 ふらつきながら、シェハラザードは乱された髪を直し、服を整える。その乱れた頭の中は、女たちの運命をもののように弄ぶ男たちと、それに対して為す術も立たぬ無力な自分への瞋恚とに煮えくり返っていたのだった。

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