前へ  次へ
     セラミス――ラトキア地方原産の多年生植物。
     丈は五十バルスほどに伸びるが、それ以後は
     横に広がって成長する。花は大人の掌ほどの
     大きさとなる。黄色が原種であるが、赤、白
     など多くの改良種がある。
     フェリス地方の原種は香りが強く、香水の原
     料として珍重される。
     花言葉は「美しい人」(黄色)、「偽りの愛」
     (赤)、「純情」(白)
                      ――アルフェウス
                         「植物総覧」




     第四楽章 水上の悲歌




 その水の都サッシャのざわめきとにぎわいを、サリア湖に沿って離れること、およそ二十バル。
 足の速い馬ならば、半テルもかからずに駆け抜けるだろうそこは、「水の離宮」としてエトルリアに名を知られるラスである。
 この辺りはまだサッシャの外郭であり、だいぶまばらにはなるものの、市門からこの辺りまではぽつぽつと、主として貴族の住まい、離宮、別邸が続いている。このラスを出ると、すでに首都圏を離れ、あとはさびしい森林が湖岸とリリア河畔沿いに広がってエリア湖畔のアユーブまで続いてゆくことになる。
 その間に、ホーティン、ゴルドの二つの小都市がありはするものの、それはサリア街道沿いに少し湖から離れてゆくので、ラスを出てからゴルドまでは、湖岸は深い森が続いている。
 ラスは快楽の都として知られるほかに、離宮都市ともあだ名され、サッシャへは、水路だけでも行き来が可能であった。きわめて小さい州や島がその辺にたくさんあるので、王族、貴族たちはそれを利用して、洒落た、静かな、密談や密会向けの別邸を建て、妾を囲ったり、病を養うのにも利用する。
 そのラスに、まだごく新しい、ひときわ目立つ離宮――それが、白亜宮であった。エトルリアの支配者サン・タオ大公が、自ら滅ぼしたラトキアの公女シェハラザード姫の歓心を買い、住まわせるために、わざわざ莫大な費用をかけて手入れして作り直した別邸である。
 妾の二つ名であったラトキアのセラミスにちなんで、そこには生け垣から庭園までびっしりとセラミスを植え、サリアの湖水に高殿となって張り出したその建物は、白大理石で造られていた。
 しかし、いかに贅をきわめたものであっても、その主の身の上を暗示するように、それは中州を利用した庭園と尖塔と、水上の渡り殿からできていて、たった一つの跳ね橋を上げてしまえばたやすく水中に孤立し、生半可なことでは陸上と交通できないようになっていた。
 その上、その跳ね橋は大公の印がないかぎり下ろされないし、湖水を渡ってサッシャに向かう小舟も、勝手に出すことは許されない。
 すでに半年近くにわたってその体を自由にはしていても、サン大公がまだラトキアの公女にすっかり心を許してはいない証――というよりもむしろ、いかに大公が、ラトキア残党による公女奪還――それによるラトキア大公国復活の動きを恐れているか、という証と見えた。
 しかし日用に供する品々は何日かに一回、ふんだんにサッシャから荷船で運び入れられ、自由という以外の点では何一つ足らぬもののないよう、ありとあらゆる細やかな気配りがなされている。
 見張りも兼ねた護衛兵が三交代制で、昼夜の別なく湖水側と陸側の双方の出入口を護っていたし、そば仕えにも、かつての一国の公女を遇するに不足のない人数が揃えられ、設備調度もまことに贅をつくしたものであった。
 名高いエトルリアの絹が、惜しみなく壁にも調度にも使われていたし、天蓋つきの巨大な黒檀のベッドには、細かな彫刻がびっしりとほどこされ、衣類も花々も望みのままである。
 エトルリアの住人たちの方は、クラインと並ぶ中原きっての美人の多い土地柄として名高かったのであるが、あいにくエトルリア大公家は、必ずしも典型的なエトルリア人ではなかった。
 というのは、何と言ってもエトルリアとてもゼーア三大公国の一つである。表向きはゼーア皇帝を戴き、盟国ペルジアと手を携えて分割統治しているかっこうを守っているので、代々、友好のため、エトルリア大公家は多くゼーア皇帝や、ペルジア大公の家系から妻を迎えている。
 そして、このため現大公もその弟も、エトルリアの黒髪、黒い瞳ではなく、ペルジア系の薄い色の髪や瞳を持つようになっていた。前大公妃はペルジアの公女で、それがたいへんな美女、というわけにはいかなかったのは、サン大公の血を分けた姪でもあるアダブル大公の娘たちが「ペルジアの三醜女」として中原に名を馳せていたことでも明らかであった。
 そのようなわけで、サン大公が新たに手に入れたこの娘のような年齢の妾に夢中になってしまっている、ということは、すでにエトルリア宮廷はおろかゼーア中の噂であった。はじめ大公は、三人のラトキアの遺児を二人の息子と弟に順番に与え、それによって旧ラトキア領の支配を正当化するつもりであったのである。
 しかしその目論見は上の二人の姫が自殺してしまったことで破れ、であればシェハラザード公女一人を誰かに与える方向に路線変更するところが、当時十八歳のシェハラザード公女の若さと美しさが大公自身の目を引き、彼は結局息子たちと弟の誰かに彼女を妻とさせる代わりに、自分の妾にしてしまったのである。
 やり手として知られるサン大公である。いったん目の前にちらつかされたラトキア大公の座と美しい妻、という餌をあっさりひったくられた、二人の息子たちと弟の不満を考えないはずがない。
 しかし、末息子ファンよりも年下の、若くて美しい、しかも彼によってはじめて男性を知ったシェハラザード姫への執着が、大公のような男をさえ溺れこませ、他のこと全てをないがしろにさせている――というのが、もっぱらのサッシャの評判であった。
 実際には、三人の誰に残ったシェハラザードを与えても、他の二人を怒らせ、内紛の元になったであろうから、これは必ずしも大公が色に迷った結果のみとも言われなかったが、それにしても、この白亜宮をかまえてから、サン大公が足しげく若い妾のもとを訪れるようになったのは確かである。
 それもはじめは大公妃をはばかり、訪れても共に夜を過ごすことはなく、早々に雪花宮へ早船で帰っていったものであるが、しだいにこの所、一晩泊まり、二晩泊まり、長いときには七日ばかりもこの離宮に滞在するようになってきていた。
 が――。
 今日のところは、大公のお渡りはないらしい。
 白亜宮はしんと静まり返っていた。湖水を渡ってくる使者の船もない。召使の男女も、各々の持ち場でのんびりと仕事をしているのだろう。
 離宮、別邸の多い土地柄だけあって、ラスとその周辺はとても美しい所である。クラインで言えばアーバイエ、ローレイン、メビウスで言えばハヴェッド――大きな国、歴史ある国はいずれも、そうした静かで風光明媚な保養地を一つくらいは抱えているものだ。
 このラスはサッシャに近い分、さらにあかぬけて、有名な遊廓街を抱える市の北半分はともかく、湖水に面した南側はとても静かであった。広い湖水では、釣り船がのんびりと名物のライギョを捕っている。水鳥が鋭い鳴き声を上げて、湖水を渡っていく。
 さわさわと梢に風が鳴ると、繊細なレース模様のような木漏れ日が揺れ動き、さっと強いセラミスの芳香が立ち込める。尖塔は湖に影を落とし、うららかな黄金色の陽光が、白大理石の庭園に戯れかかっている。
「ああ――いい気分だわ」
 涼しげな声が言った。
「ここにいると、嫌なことも、辛いことも、苦しいことも、みんな夢であったような気がしてくる。なんだか、何もかもがこれでよかったのだというようにさえ、思われてくるわ。ここは、危険なところね、タマル」
 くくっと喉で低く笑って、長椅子から身を起こしたのは、むろんこの離宮の女主人にして虜囚、人質であってエトルリア大公の妾妃――ラトキア第三公女シェハラザードそのひとであった。
 輝く白銀色の髪と紫の目、まったくエトルリア族と似たところのないセラード人、北方系の目鼻立ちが、その身を包むエトルリア風の衣装や背景の中、ひときわ際立って不思議な魅力を彼女に与えている。
 周りはさんさんと陽光のふりしきる湖上のサンルーム。目の下には青く澄んだ湖水が広がり、その果ては見えない。サンルーム中に、巨大な壺や鉢に植え込まれたセラミスが、目にもあやな黄色の花を咲かせている。
 かたわらにひっそりと控えている侍女のタマルは、主人のシェハラザードより一つ年下の十八。たった一人のラトキアからの、あえてシェハラザードとともに虜囚の身となることを望んだ侍女であり、片時も離れることなど互いに考えられぬ、いまとなっては公女と侍女というよりも、無二の親友か、姉妹か――それよりももっと近しく全ての悲哀も苦しみも分かち合ってきた、分身のような存在であった。
 これは褐色がかった黒髪に青い目の、影のようにひっそりと内気な、いつも瞳の奥に涙がひそんでいるような感じを与える目立たない痩せた娘であった。彼女は、絢爛なセラミスのような女主人の傍らで、小さいマリニアのようだった。
 が、シェハラザードを見つめる彼女の目のなかにあるほどの献身と自己犠牲と愛とを見出すことは、どんな男女の恋人たちにさえ、めったにないことだっただろう。
「――心配しているの? 心配は要らないわ、タマル。これは、たわむれにそう言っているだけのことなのだから」
「心配など、しておりませんけれど」
 タマルはかすかに首を振った。彼女はシェハラザードのゆたかな髪をくしけずっていた。それは日の金色を浴びてきらきらと銀の滝のように輝いていた。
 シェハラザードは、ふいにタマルの手を振り払って、ようやく肩甲骨のあたりまで伸びてきた髪を邪険にかきあげた。
「ああ、なんて強い匂い!」
 苛々と呟く。
「……?」
「セラミスよ。なんて嫌な花なのかしら。これ見よがしで、押し付けがましくて、傲慢で、けばけばしくて! 拷問にしか思えない。この花のおかげで、湖の水の匂いも、風の匂いも、何もかも消えてしまう。どこへ行ってもセラミス、セラミス、セラミスの匂いでいっぱい。気が狂いそうだわ」
「……」
「嫌いだわ。この花も嫌い。この花に譬えられたこのわたくしも嫌い。セラミスを見ていると思うわ。この花は、わたくしと同じ嫌なところを全部持っているって。たまらないわ、大嫌いよ。セラミスのような女なんて! なんてうっとうしい、疎ましい――そうは思わない?」
「とんでもない。わたくしは大好きですわ。セラミスも、姫様も。この世でいちばん美しい方ですもの」
 シェハラザードはそんなタマルを、長椅子の上に上体をひねって覗き込んだ。
「わたくしは一回でいい。姉上たちやお前のように、ロザリアとか、エウリアとか、マリニアとか――そんな、ひっそりとして、可憐な小さい花のようだと言われる女でありたかったわ。わたくし、自分が嫌い。本当に嫌い。軽蔑しているわ。自分の肉も心も、顔も――全て」
「そんなことを仰るものでは……」
「どうしておまえは、わたくしみたいな女をそんなに好いてくれるの? どうして、蔑み、罵り、唾を吐き掛けないの? わたくしはそうされても当然よ。自分でもそう思っているわ。十分の一レアルの価値だってないわ。父と姉の仇の張本人に身を任せ、たった一人の弟の安否も知らずその庇護の下に安閑と暮らし――自分の何もかもが嫌いだわ。こんな顔も体も――それが男たちの気をそそるらしいことも。早く年をとってしわくちゃに醜くなってしまえばいい。それとも自分で切り刻んでやろうかと思う。そうすれば、もう二度と誰もわたくしを欲しいなんて思わないに違いない。あの、いやらしく、物欲しげに匂いをぷんぷんさせて、これ見よがしに大きな花を咲かせているセラミス! 一輪残らずもぎ取って、踏みにじって、ばらばらにしてやりたいわ」
「姫様――また、そんなことをおっしゃって、タマルを困らせようとなさる……」
 タマルの目に涙が浮かんできた。
「どうして、タマルをそんなにいじめられますの? 私は何と申し上げればよいのでしょう? 姫様がそんな事を仰るたびに、私は……」
 タマルは両手に顔を埋めてしゃくり上げた。それを見るなり、シェハラザードはすぐに心を変えた。
「ああ嘘よ、嘘よ、タマル。今のはみんな口から出任せよ! わたくしは意地悪な、根性曲がりなのよ! お前を苛めてみたいんじゃなくて、お前に慰めてほしくて甘えているだけよ。泣かないで、タマル。お前が泣くと、わたくしまで悲しくなるわ。――謝るから、ね?」
「まあ、そんな、とんでもない」
「タマル、顔をお上げ。拭いてあげるから」
 タマルは素直に涙に濡れた小さな顔をあげた。シェハラザードの指先がそっと優しく彼女の頬を撫でた。
「たとえこの先、何人の男と体を交わそうとも」
 そっとタマルの細い体を引き寄せながら、シェハラザードはその耳元にささやいた。
「決して誰一人、この心には近づけない。させるものか。わたくしには、お前だけよ、タマル。お前がいてくれるから、この屈辱の日々を生きてこれたのよ。自ら身を投げもせず、人から何とそしられようと、こうして生きてこられたのよ。お前がなくては、わたくしは死んだも同じ。――でもお前はきっと、いずれいい人を見つけて、可愛い奥さんになって、わたくしのことなんて忘れてしまうんだわね」
「とんでもない、シェハラザード様!」
 タマルはシェハラザードに劣らぬ熱情を込めて言い切った。

前へ  次へ
inserted by FC2 system