前へ  次へ


                               *



 しかし、ルカディウスはそのことではなく、何か別のことに傷ついたように答えた。
「ひどいじゃないか、アイン――」
「だから、お前は黙って、聞かれたことにだけ答えてりゃ、耳のいてえことも言われずに済むんだよ」
 つけつけとアインデッドは言った。育ちや境遇とで、ずいぶんと同情の余地があるとはいうものの、性格が良いとか、温和とか、優しいとはどんな彼を好いているものでも言いかねるアインデッドである。
 彼の世界は敵か味方かの二色で色分けされていて、他人に対する態度はそれに基づいてきっぱりと分かれている。自分の気に入った相手や、恩のある相手にはそれ相応か以上の好意と親切を返すし、充分に優しくもあれば温和でもあるが、そうでない相手には酷薄で、冷たい、犠牲にしようが踏みつけにしようがかまわない、情のこわいところがあるのは、どうにも弁護のしようがない。
 ところがルカディウスはアインデッドにとって軍師であるし、味方であるはずなのに、彼に対しては残酷で、人を人とも思わぬような態度ばかり示すのだった。天性の陽気さやふしぎな愛嬌が、彼の欠点をおぎなってあまりあるのだが、そういった良い面までも、ルカディウスの前ではすっかり影をひそめてしまうのだった。
 これについては、責任の大半はルカディウスにあるのは明らかだった。ルカディウスはアインデッドに惚れこみ、ひきつけられるあまりに、彼を途方もなく甘やかし、崇拝してしまっていたからである。これは、アインデッドのような性格の者にとって、もっとも良くない扱われ方であった。
 しかしルカディウスにしてみれば、自分がかくありたかったような理想そのものの、この二十三歳の美青年のそばにいられるのであれば、この十倍もひどい仕打ちだって喜んで甘受したに違いない。もとより、そういう不健全な、良くないものをはらんだ関係にものごとを持っていったのはルカディウスの方で、アインデッドはその不健全さに何かしらの違和感や苛立ちを覚えて、つい残酷なことを言ってしまうのであって、彼の方がずっとまともで、健全だと言えたかもしれない。
 もっとも、アインデッドの名誉のために言っておけば、アインデッドがルカディウスのことを虫けらか、石ころのように扱うのは二人だけでいるときに限られていて、他に一人でも部下のいるときに、その目の前で彼の軍師の面目が丸つぶれになるような振る舞いは、感心なことに決してしなかった。
 この時は、ルカディウスをへこませてしまうとアインデッドは満足して、あらためて周りの風景を眺めにかかった。それはサッシャの南側の下町で、ことにサリア湖に近い側にあるので、涼しい風が湖上を渡ってきて、はるか目の先には広々とした湖水がきららかに光っていた。
 周りの家々は丈が低く、古くて、貧しげだったが、店にも物売りの船にも品物は豊富に溢れ、またクラインと並ぶ、中原の美人の産地として知られるエトルリアである。通りかかる女たちは、年を食ったのはぶよぶよと太ってしまってみっともなかったが、若いのはすらりとして胸と腰がゆたかで、脚は引き締まっていて、とても綺麗だった。
 その上、エトルリアの女たちの服装は大変に色っぽい。上半身は何箇所もダーツを入れてごくぴったりと体の線をあらわにする、立て襟の上着を着て、腰の細さを際立たせるように、太目のサッシュベルトを巻きつけている。ズボンは「エトルリア風の」のひとことで有名なあのたくさんひだをとって、足首できゅっとすぼまる形である。
 それの上へ、寒いときにはショールやスカーフをつけ、足元は木のサンダル、髪は若い未婚の娘は後ろで束ねて垂らし、既婚の女は束ねた髪を巻き上げて、ヴェールをつけている。
 これは、アインデッドには懐かしい沿海州の女たちの風俗ともかなり通じるもののある、扇情的で色っぽいファッションだった。というよりも、エトルリア風俗というものは、ことに後宮や娼家のそれというのは、クラインの宮廷からディシアの遊廓まで、どこへいっても最も色っぽい服装として、男たちの目を引きたい女性にもてはやされ、真似されていたからである。
 これまでアインデッドがいた自由国境地帯の山間部の装いというのは、何枚もペチコートとスカートを重ねて腰をゆたかに見せ、顔のまわりを刺繍入りの頭巾ですっぽりと覆い、毛皮のふちのついた長靴を履くような田舎のものであったから、アインデッドはすっかりうんざりしていたところであった。
 この色っぽいエトルリア女たちが、船から陸に上がったり、カダーイの船頭に助け下ろされたり、腰を振って歩いたりしているのを見るうちに、彼の目はすっかりまん丸になってきた。
「へえっ。エトルリア女ってのは、やっぱりいけるじゃねえか!」
 さっきルカディウスをいじめたこともすっかり忘れて、アインデッドは口笛を吹き、指をぱちんと鳴らした。
「ここが美と快楽の街ラスじゃなくて残念だと思ってたところだが、どうしてなかなか、これでも充分だぜ。おいルカ、一日二日急いだところでどうなるってもんでもないだろう。俺はちょっくら、このへんの廓を探してしけこむぜ」
「おい、アイン――」
「そんなしかつめらしい顔で『おい、アイン』なんて抜かすな。せっかく楽しい気分になってたのに、また気が塞ぐだろうが」
 アインデッドは、馬につけた輿から降りてくる、貴婦人らしい金の刺繍をほどこした赤の衣装をまとった美人を見つめながら言った。
「何せもう何ヶ月も、お前だの、むさ苦しい山賊どもだの、あか抜けねえ田舎娘のつらばかり見せられてきたんだぞ。どんなにきれいだって、自分の面なんか見たってどうにもなりゃしねえし。ちったあ目の保養、命の洗濯をしてえじゃねえか。第一、おめえがどこかに行って、何らかの手立てをつけてくるあいだ、俺には何もすることがねえだろう」
「そりゃそうだが――しかし」
「なーにがしかし、だ。何がしかしなんだよ。このコウモリ男」
「……」
 気の毒なルカディウスは、ひどく雄弁なため息をついた。だが結局のところ、少し考えて許可を出した。
「まあ、お前がどうしても少し羽を伸ばしたいというんなら――。その代わり、お願いだから、そこで正体がばれたり、そこでい続けになって沈没するなんてことには、ならないでくれよ」
「うるせえな。そんなこたあてめえに言われなくたって判ってらあ。第一、廓ほど、情報集めにいいところはねえんだぞ。知らねえのか」
「そ――そうなのか」
「落ち着き先を見つけたら、宿に使いを出さあ」
 たちまち底抜けに元気になって、ひょいと水路のへりに飛び上がりながら、アインデッドは言った。
「ともかく、そこまでは一緒に行くから」
「来たけりゃそうしろ。で、お前はどうするんだよ。え?」
「どうするって、廓のことか」
「ばかが。お前が廓なんか行ってどうするんだ。まあお前みたいな見てくれの奴だって、商売なら誰かは相手をするだろうがな。そうじゃねえ、この先どうやって例の女と連絡をつけるのか、腹案はあるのかと言ってるんだ」
「ないこともないが」
「こっちにダチはねえんだろ」
「少々聞いた話があるんで、そっちに出張ってみようと思ってるんだ。うまくすりゃ、何か手になると思う」
「わかった。とにかくそっちは任せるからよ。手立てがついたら、俺のところに言ってきな。俺はそれまでひと遊びといく」
「……」
 またルカディウスは恨めしげにアインデッドを見たが、何も言わず、フードを引き下ろして歩き出した彼について歩き出した。
 マントとフードに深く身を包み、おもてを隠していてさえ、アインデッドの歩き方も、隙のない身のこなしも、見る者が見ればたちまちに、巡礼であろうはずもない、鍛えぬいた戦士のそれと判ってしまいそうである。ルカディウスは、その高い若木のような後ろ姿に心配そうな目をくれた。
 アインデッドの方はいっこうに気にもかけない。水路を離れて、このサッシャにもある馬車通りを渡り、サッシャに名高い色町であるラティーナの方へ歩いてゆく。それをルカディウスがせかせか歩きで後を追う。
 馬車通りに出ると、向こうから、ざっ、ざっ、と石畳に靴を鳴らして、エトルリア兵の一団がやってくるのと行き違った。巡回ではなく、誰か身分の高い軍人の護衛の一隊らしい。
 エトルリアの兵士は、大仰な鋲うちの、鎖帷子を横に垂らした尖塔のような兜をかぶり、ごつい嵩張る鎧を着込んでいて、まるで鉄製の怪獣が動いているように見える。威圧的で、不気味な外観であった。それが徒歩のもの、馬に乗ったもの、あわせて百人ばかり、真ん中の一騎を押し包み、旗指物を押し立てて、馬車通りの真ん中をのしのしと通っていくようすは、いかにも恐ろしげであった。
 道を行く人々は、露払いに突き飛ばされる前に慌てて道を避け、広い道路の両側に平伏する。ついうっかり前を横切りかけたり、避け遅れたものは、容赦なく突き飛ばされて、道の端に突き倒された。
 ガシャン、ガシャン、と兵たちのつけている鎖帷子が鳴る。脅すように、重たい剣と鎧が触れ合ってガチャガチャと音を立てる。
 アインデッドとルカディウスは足を止め、道端に寄って、この威圧的な一団を見つめた。それが次第に近づいてくると、その兜の下のつり上がった目にじろりと見られて、ルカディウスははっと気付いて慌てて平伏したが、アインデッドが突っ立ったままでいるのを見て、また慌ててその手を引っ張った。
「ひざまずけ、アイン。近づいてる」
「何で俺がエトルリア人に跪かなきゃならねえんだ」
「馬鹿を言うな。こんなところで、こんなつまらんことで騒ぎを起こして何になる。早く。こっちを見てるんだ」
「ちっ」
 不承不承、アインデッドも道端に跪いた。彼が頭を下げたのを確認して、ルカディウスは額を地にこすりつけた。
 ジャラン、ジャラン。
 ざっざっざっざっ。
 ガチャ、ガチャ、ガチャ。
 さまざまな耳障りな音を立てて、兵たちが通り過ぎる。下げた頭の目の端に、何十もの鉄色のごつい長靴の群、足を守る鉄の脛あてをつけた馬の足、そしてガシャン、ガシャン、と規則正しく、揃って大地を打つ槍の柄が通り過ぎてゆく。
 アインデッドはフードを傾け、平伏しているふりを装いながら、その影からそっと目を上げた。この一団が護衛しているのが誰なのか、どうしても一目見たい、という好奇心にかられていたのだ。
 色とりどりの旗指物を立てた行列の真ん中に、一つけばけばしく飾り綱をかけた白馬にうちまたがった一騎が、今まさにアインデッドとルカディウスの目の前を通り過ぎようとするところだった。
 それほど若いとはいえない。いいところが三十を半ば過ぎたか、そのくらいだろう。基本的には他の兵と変わらないエトルリアの鎧かぶとを着けているが、丸くててっぺんの尖った兜の先には、鮮やかな吹き流しのようなものを付けて長々と垂らし、ごつい鎧の上から、両肩にごてごてした紋章入りの留め金で留めた、派手な緋色のマントを馬の尻の方まで引いている。かなり身分が高いと見える。
 その兜の下の顔は、生粋のエトルリア人の特徴を示して目は細くつりあがり、頬骨が高く、額は広い。黄色がかった顔色をし、体つきはずんぐりしている。その目は他のすべてのエトルリア人の特徴を裏切って、青灰色をしていたが、そのせいで、その顔はいやな何かをたたえているように見えた。口許は何となく好色そうでしまりがなく、目は冷ややかで傲慢そうだった。
 アインデッドは、魅せられたようにこのエトルリアの騎士を見つめた。彼の凝視を感じ取ったに違いない。その騎士は、馬上から沿道に目をやった、彼の淡い色の小さなずるそうな目と、ヤムの巡礼の、激情と炎を秘めた緑の輝かしい目が、通り過ぎる一瞬、まっこうから合った。
 目があってしまったことに気付いてアインデッドはすぐに顔を伏せたが、おや、というように、かすかにエトルリアの貴人は眉をひそめた。それから何事もなかったかのように一隊は通り過ぎ、その男も二度と振り返らなかった。やがて一隊のガチャリ、ガチャリという音が遠ざかるにつれて、物売りの叫び、馬車のわだちの音――町にいつもの賑やかさが戻ってくる。
「何だってんだ。危ないじゃないか、あんな……おい、アイン?」
 その辺の店で何やら聞いていたルカディウスが駆け戻って、まず文句を言った時、アインデッドは、これまでルカディウスが見たこともないような奇妙な表情で、もうとっくに見えなくなっているその行列の消えた曲がり角をまだ見つめて、行き交う人々の間に立ち尽くしていた。
「アイン――」
「あ……ああ」
「どうしたんだ。ぼんやりしちまって。お前らしくもない。今そこで聞いてきたが、今の行列、とんでもない大物だったぞ、誰だったと思う」
「どうせ将軍か公子あたりだとでも言いたいんだろう。もったいぶるな、早く言いやがれ」
「あれはエトルリア大公の弟、ハン・マオだ。三十五だか、六だか、それくらいだろう。エトルリアの騎馬隊三万を預かってる。サン大公の二人の息子たちよりも気に入られてるそうだ」
(エトルリア公弟ハン・マオ――)
 アインデッドは、ルカディウスの付け加えたなくもがなの評など、耳に入らぬように繰り返した。その目は、生まれだけで何もかもを手に入れられる全ての貴族、王族に向けられる悪意に光っていた。
 彼らは知る由もない。
「――ウォ。ウォ・アンレン」
「はっ。何か」
「今そこに、二人……ヤムの巡礼がいただろう。見たか」
「いえ、――少々気付きませなんだが、ハン様――それが何か?」
「すらりと背の高い、緑の目の奴と、平伏していた小さい奴だ。誰か目端の利くものをやって、そいつらの身元や住居を調べさせろ」
「はい。しかし、そいつらがどうかいたしましたか」
「わからん」
 ハン・マオは小さな目に、奇妙な光を浮かべた。
「ただ、妙に気になった。あの若い男の目……巡礼という感じではなかった。何というのか? どこかの王子がお忍びで巡礼に身をやつしているとでも言うような、そんな感じがした。気のせいならいいが、気がかりは払っておくに越したことはない」
「かしこまりました。ただいますぐ」


前へ  次へ
inserted by FC2 system