君はディアナの愛し娘
     恋をせずにはいられない
     黄金の髪と青い瞳
     ディアナのくれたほほえみに
     恋せぬものなどおりはせぬ
     野に咲く花も 風さえも
     君に恋しているという
     ディアナの娘 清らの乙女
     恋をせずにはいられない
            ――吟遊詩人の歌
              「ディアナの娘」




     第二楽章 赤と黒のカドリール




 たとえ年は若くとも、近衛騎士団の誇り、初恋の姫を守らねばならぬという使命感に燃えるクレメントは、フレデグントを後ろにかばって相手を睨みつけ、腰の剣に手をかけた。だが邸内からの明かりで相手を見知ると、はっとして手を離した。
「選帝侯閣下――」
 慌てて膝をつき、騎士の礼を取る。
「シェレン兄様!」
 フレデグントもびっくりしてベンチから立ち上がった。
「いえ、アーバイエ候閣下――いったい、いかがなさいましたの。こんな時間に、こんなところからおいでになるなんて。サビナ・オリアナといらしたのではなくて?」
「むろんオリアナと参りましたよ。ただ私も、冷たい夜風に当たりたいと思っていたところで、偶然お会いしてしまったというわけで」
「まあ」
 ゆっくりとフレデグントは言った。
 茂みの中から現れたシェレンは手に黒と銀の、棒のついた仮面を持っていた。それほど手の込んだ仮装はしておらず、仮面をそれに合わせたのだろう、黒と銀のシックな装いに身を固めていた。
「御機嫌よう、クレメント子爵」
 年長で、身分もずっと上の貴族にふさわしい重々しさでもって、シェレンはクレメント少年に挨拶した。クレメントは間の悪さに真っ赤になった。
「あ……あの……お話がございますのなら、僕は外します」
「ああ、どうか……」
 しどろもどろになりながら広間のほうに逃げていこうとするのを、シェレンは手を挙げて制しかけたが、思い直して手を下ろした。
「申し訳ない、クレメント子爵」
 せっかくの二人だけの語らいを邪魔されたクレメントが走ってゆくのを見送り、シェレンは仮面を目のところにかざし、皮肉っぽいものごしで優雅に片足を引いて、礼をしてみせた。
「ご機嫌うるわしく、サビナ・フレデグント」
 他人行儀に彼は言った。
「こんばんは、アーバイエ候」
 フレデグントも何となく戸惑ったように、とってつけたような礼儀正しさでドレスの裾をちょっと持ち上げて貴婦人の礼をした。
「お一人でいらしたの?」
「一人ではいけませんか、サビナ」
 シェレンはそっけなかった。
「私が一人歩きしては、いけませんでしたか? 私は花の独身ですからね。しかも、オリアナはキュルスと婚約している。しかし私は、あなたのように可愛らしいお付きを従えているのでもない……しかし」
 フレデグントは怪訝な顔をした。今夜のシェレンはいつもの彼と何か違っていた。
「何をそんなに笑われるのですか?」
「あの少年あいてでは、乙女心の複雑さ、心の機微を語るには少々不足だと申し上げたいだけですよ。彼には言葉のあやを解することはおろか、言外に忍ばせた意味すら解けやしないでしょう。おのれの思いのたけを素直にぶちまけるのが関の山でね」
 フレデグントは眉を寄せた。
「まあ、嫌な方。どこから立ち聞きなさってたの」
「あまりに美しいお姿とお言葉に魅せられていたので、恋の限界における興味深いお話をすっかりうかがいました」
「あまりいいご趣味とはいえませんわね。それに、クレメントさまをばかになさらないで。あの方はいい方よ」
「いい方――というよりは、いい子と言うべきでしょうね。まるで子供ですよ。あなたとは大違いで。それにしても姫、クレメント子爵を悩ませ、あまたの貴公子を悩ませるあなたの心を占めている、恋してはならぬというその幸せ者は誰なのですか?」
「そんな意地悪ばかりおっしゃる候にはお話ししたくありませんわ」
 フレデグントはきっとなって言い返した。
「すぐ、そうやって棘だらけになる。それであの少年があなたのことを薔薇のようだと言うのかな」
 シェレンは皮肉っぽく笑った。
「私には判らないわ。どうして今夜にかぎって、候がそんなに私に辛く当たるのか。いったいどうなさったの? 何を怒っていらっしゃるの? 私がお気に召さないのなら私のことなど放っておいてください。そして私に崇拝を寄せてくださる方まで馬鹿にしたり、皮肉を言ったりするのはやめてください。そんな覚えはないけれども、もし私が候に無礼を言ったり、したのならどうぞまっすぐにおっしゃって。直さなければならないことなら直しますし、直す必要のないことならばどうぞご勝手にと言うまでだわ。さあ、それがお気に障ったのならあっちへいらしてくださいな」
 シェレンの挑発的な言葉にさすがにむっとして、フレデグントは語気を強めた。だんだん強まってくる怒りに目を吊り上げたフレデグントは、そのきつい顔立ちとあいまって、すさまじいほどの迫力と美しさがあった。
「私があなたに腹を立てている、ですって?」
 シェレンは手をひらひらと振った。
「とんでもない! あなた自身には何の罪もない。あなたは何も知らず、何にも関係がないのだから」
「だから、何ですの?」
 フレデグントは叫んだ。
「私が何も知らないと候はおっしゃる。だけど現実に、今夜のあなたは私に意地悪ばかりなさるじゃないの。それでどうして何もないとおっしゃることができるのよ。シェレン兄さま!」
 その言葉を聞いたとたん、シェレンのおもてから、とりつくろっていた冷静の仮面がかなぐり捨てられた。その白い頬にさっと血の色がのぼる。
「兄さま、だって? なぜ俺が君に兄さまなどと呼ばれなければならないんだ」
「ひ……」
 その剣幕に、フレデグントはおびえてあとずさろうとした。だが、自分にも理由のわからぬ怒りを相手から一方的にぶつけられているという不当さに対する怒りがそれに打ち勝ち、押しやった。
「兄さまと呼ばれるのがそんなにお嫌なの? そうならそうとおっしゃってよ! そんな意地悪ばかりされたって判らないわ!」
 フレデグントは叫び、激する感情のままその場を走り去ろうとした。だが、その手首をシェレンは何を思ったのか掴んで引き止めた。
「何をするのよ」
 瞬間、彼女は炎のように燃える、激しい本性を取り戻していた。振りほどこうとして身をもがく。だが、むろんかよわいフレデグントの力ではシェレンの腕を振り放すことなどできなかった。
「放して」
 フレデグントは命じた。その石榴の色をした瞳は炎となって爛々と燃えていた。だがシェレンは彼女を放す代わりに、もう一方の腕を伸ばして肩を掴み、さらにフレデグントを引き寄せた。かすかにまだ残っていたフレデグントの最後の自制心もはじけとんだ。
「何するのよ!」
 叫びざま、彼女は空いていたほうの手でシェレンの端正に整った顔を叩いた。彼は避けようともしなかった。
「フレーデ、君は自分がどれほど知らぬのかすらわかってない」
 シェレンは怒りのあまり押し殺した、低い声で囁いた。
「どういうことよ! 放して!」
「君はそうして、無邪気に周りを傷つけるんだ。俺だけじゃなく」
 彼の夜の湖のような底知れぬ瞳が、フレデグントの炎のような瞳を睨むようにまっすぐに見据えた。その目に浮かぶ狂おしいかぎろいと怒りに、フレデグントは呑まれてしまって、自分の怒りもほとんど忘れかけていた。
「君はいつも俺を兄さま、と呼ぶ。だがそう呼ばれるたびに、俺がどれほど根強い怒りと反感を覚えてきたかなんて、君は判っちゃいない。想像もできないほど子供だ。それが俺にはいっそう腹立たしい。――シェレン兄さま! 君の兄でも何でもないのに!」
「それは……」
 フレデグントは言いかけて口を開いたが、シェレンは彼女の言葉など耳に入っていないようだった。
「俺は君にとって単なる――それだけの存在なのか? 俺はまっぴらだ! 君に兄と呼ばれ、君を妹と呼び、バーネットを兄と呼ぶなんて!」
「な……」
 フレデグントは、長年呼んできたその呼び方の何がそんなにシェレンを苛立たせているのか判らず、ほとんど子供のように怯えた。
「何のこと……?」
 シェレンは、フレデグントの手首を痛いほど握りしめていることにも気付かず、低い、かすれた声で荒々しく言い捨てた。
「いいか――知らないなら教えてやる。君の父親――ローレイン伯ワルター・ルデュランは、アデリシア・アルゲーディと再婚するんだ。亡き連れ合いと正式に離婚して」
「うそ……」
 かぼそい、頼りない囁き。フレデグントの瞳が大きく見開かれた。
「こんなつまらない嘘などつくものか」
 シェレンはむしろすっきりしたように、吐き捨てるように答えた。
「今夜、母から全て聞かされたよ。おそらくバーネットも聞かされただろう。俺の母親と君らきょうだいの父親は、連れ合いを亡くしてから運命の恋に落ちたのさ。俺の母は俺の父と離婚し、君らの母親になる。俺の父は妻に捨てられ、君の母は夫に捨てられるというわけだ。去るものは日々に疎しという諺どおりにね。だから俺は君の兄になり、バーネットの弟になる。フレデグント、聞いているのか?」
「うそよ……」
 いつのまにか、フレデグントの目は涙でいっぱいになっていた。
 彼女は、母を知らない。彼女を産んですぐに母は亡くなり、彼女は肖像画や、父と兄から聞く話の中だけに母の姿を知り、やるせない憧れと懐かしさを抱いていた。彼女の母親の座には、その亡くなった、優しかったというミルドリュスしかいない。そこに、他の誰かが来るなどという話は、にわかに受け入れがたい話だった。
「そんなの、嫌よ」
「フレデグント、君一人が嫌がったって二人は結婚する。バーネットだって、いずれナジア姫と結婚するだろう」
「嫌よ、父上が再婚して――兄上が結婚なさるなんて! 嫌いよ、ナジアもあなたの母上も、みんな大嫌いよ!」
「いつまでそんな、ねんねのような事を言っているつもりだ?」
 いくぶんシェレンは声を荒げて、腕の中で暴れだしたフレデグントをおとなしくさせるために、こちらはずいぶんと手加減をしてその頬を打った。
「ぶったわね」
 フレデグントは喘いだ。
「私を、ぶったわね」
「何回だって撲ってやるさ。その甘ったれた性格が直るのなら」
 シェレンは睨むような目をして言った。
「バーネットは君の兄なんだ。どうして兄の幸せを素直に喜べない?」
「兄上は私だけの兄上じゃなきゃいや! 私、兄上を愛しているのよ!」
 フレデグントはいやいやをするように激しく頭を振った。ヴェールが乱れ、髪に編みこんだ薔薇の花びらがはらりと落ちた。
「馬鹿を言うな、フレデグント」
 シェレンは怒鳴った。
「バーネットは君の兄だ。どんなに愛しているとしてもそれが妹としての分を越えてはならないことぐらい、君にだって判るだろう。それとも、君は実の兄ウルピウスに恋をして、それが叶えられぬ悲しさに泉に変じたヴェラにでもなるつもりか?」
「判ってるわ、そんなことぐらい」
 先程よりは弱々しく、フレデグントは言った。シェレンは苦しげに顔を背けた。
「君はまだいい。父が新しい妻を迎えて君には母上ができ、兄もいずれ妻を迎えるのだから。喜び続きじゃないか。だが俺はどうなる? この俺は。父はすでにみまかり、母は離縁して他の男の妻になり、妻としたい姫の新しい母親になるときた日には?」
「――……」
 フレデグントは思わぬ告白に言葉を失った。


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