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                                *



 むろんそれは――
 シェレンにとってみれば少しも意外ではない、ずっと心に秘め隠していた思いであったにしろ。
 フレデグントにとってはまさに晴天の霹靂であった。結局のところ、シェレン・アルゲーディは彼女にとって、仲のよい、兄の友人に過ぎなかったのだし、今までちょっとした噂が持ち上がったことはあったにしろそれをナーエにいた彼女は知らず、正式にそのような話が出たことはなかったのだ。
「妻としたい――ですって」
 フレデグントは紙のように青ざめ、今にも気を失いそうな様子で囁いた。
「そんな……私……」
「君は何も悪くない」
 なかば哀れむような、悲しげな瞳でシェレンは言った。
「そうして兄を慕い、いつまでも思っているがいい。だがそれで君がいったいどれほどの男の心を傷つけ、君の兄を思う女性を妨げ、兄の幸せを妨げる結果になっているのか、そのことぐらいは知っておくんだね」
「どうして、そんな言い方をするの」
 フレデグントはうめいた。
「どうして……私、知らなかったわ、兄さまがそんなふうに思っていたなんて……。だって、私……」
 ついさっき、そう呼ぶなと言われたばかりであったのに、フレデグントはシェレンを兄さまと呼んでいた。自分でもそのことに気付いていなかった。シェレンは、自分が傷つけられ、その痛みに苛まれているかのように顔を歪め、青ざめながら言った。
「だって? だって、何なんだ。俺が君の兄ではなかったから、恋の対象にすらならなかったと? 俺が義理の兄になれば、君は俺を愛するとでもいうのか? 実の兄にそうするように」
 自分の苛立ちの大半はおのれの母と、フレデグントの父のせいであって彼女自身のせいではなかったし、その言葉がどれほど目の前の少女を傷つけるかは判っていたが、シェレンは言うことをとめることができなかった。
「ひどいわ!」
 フレデグントは叫んだ。
「そんな……そんなふうに私を傷つけ、苦しめ……ひどい」
「君が傷ついたというのなら」
 シェレンは静かに言った。
「俺が今まで君ゆえに味わってきた苦しみはどうなるというんだ? 君はそれでも、おのれの悲しみにしか目が行かぬ――と?」
「それは、私だって至らぬことがあったわ。でもだからって、そんな言い方はないわ!  お――お兄様のことまで……」
 フレデグントは言い、ついに堰が切れたようにわっと泣き出した。
 しかし何を言うにもここは、すぐそこで華やかな舞踏会が開かれている真っ最中の庭園であった。クレメントが戻ってきたので、人々は十二選帝侯シェレンとフレデグントが二人きりであることを知っていた。
 しかし二人がなかなか戻ってこず、なにやら言い争うような声がしたので、若い二人であるゆえ、やきもきしているクレメントを含めて、あえて遠慮して庭園に出ぬようにしていたのである。
 が、とうとうフレデグントの盛大な泣き声まで聞こえてくるとなっては、クレメントが到底放っておくはずもなかった。
「フレデグント!」
 かなりためらいがちにであったがクレメントは叫び、とうとう庭園にまっしぐらに駆け込んできて、そこでベンチに泣き崩れているフレデグントと、苦い顔をして立っているアーバイエ選帝侯を見つけた。
 ばたばたと人々が続いて駆け込んでくる。
「候っ!」
 慌てて、おろおろとフレデグントに取りすがってなだめようとしたが、クレメントはやおら紅顔に決然とした色を浮かべてシェレンを振り返った。
「フレデグントに何をしたんですか!」
「何もしていない。人聞きの悪い」
 シェレンはまだ少し青ざめた顔のまま、かすかに首を振った。クレメントはなおのこと激昂した。
「何もしなくてどうして、フレデグント姫がこんなに取り乱して泣かれるというのですか! 何か無礼をなさったとは申しません。何かひどいことをおっしゃったのでしょう。そうですね!」
「クレメント様」
「子爵様、おやめください」
「誰か、子爵をあちらにお連れして――」
 なだめようとして伸ばされる手を振り払い、クレメントはやにわに剣を抜き放ち、ご婦人方の悲鳴の中で、その鞘をシェレンに叩きつけた。
「僕はアーバイエ候シェレン・アルゲーディに決闘を申し込む!」
 人々の叫びの中で、シェレンは軽く剣の鞘を振り払った。
「断る」
 もう、何の表情も浮かべずにシェレンは言った。
「な――。臆病な!」
「つまらぬことで決闘などと申されるな、クレメント子爵」
「つまらなくなどありません! 逃げるのですか、候!」
 クレメントはますます逆上した。だがシェレンは苦笑を浮かべただけだった。
「十七や十八の子供相手に取る剣は持たない」
「ぶ、無礼な……」
「クレメント、やめて――」
 フレデグントがようやく、泣いている場合ではないと顔を上げた時だった。
「十七や十八では決闘を受けぬ、というのだな」
 ふいに、奥のあずまやからかけられた声に、人々は騒然となった。
「よかろう。ならばこの私が、ファリア子爵クレメントどのに代わり、その決闘を申し込もう。アーバイエ候、シェレン・アルゲーディ殿」
「ああっ……」
 人々は、ふわりと現れた白い影を見極めるなり、さらに大声で叫びだした。
「バーネット子爵――!」
「私は二十八、貴殿より三年の年長――よもや取る剣がないなどとは言うまいな」
 わああっ、と人々は揺れ動いた。
 ゴシップが生き甲斐のような宮廷雀たちのことである。もちろん、アーバイエ候シェレンがかすかな恋心を親友の妹に抱いているだろうこと、その親友バーネット子爵が妹をそれこそ誰の手にも渡したくないほど可愛がっていることは誰もが知っている。
 若く美しく、身分の高い未婚の女性や貴公子を巡る色恋沙汰ほど、人々の変わらぬ興味をそそってやまぬものはなかった。が、フレデグントをめぐる噂の中でも、クレメント少年では、彼には気の毒であったが他愛がなさすぎて人々の心を満たすには充分でなかったのである。
 バーネットについては、今のところナジアという相手がいるし、もともと噂になるようなこともないいたって真面目な人物であったのだが、美男子ということと、父親の行状もあって、何をしても、何もしなくても目立つのだった。
 それにバーネットは皇帝レウカディアが密かに――といってもそう密かでもなかったが――思いを寄せている相手として知られており、またシェレンについても、クラインでは摂政公に次いで最も身分の高い、未婚の貴公子であり、レウカディアの相手の有力候補の一人であったのは間違いなかった。
 今はその話ではなかったけれども、とにかく何やかやで噂にのぼるこの二人が、一方が一方に決闘を申し込むというドラマチックな展開となったのである。人々は目配せしてささやきあい、固唾を呑んで成り行きを見守ろうと、前に出ようとして押し合った。
 その人垣の真ん中で、シェレンとバーネットの表情はどちらも険しかった。だが言葉だけはまるで、たまたま出会って挨拶を交し合うように、シェレンはのどかに言った。が、それは親友に対するというよりは他人行儀なものだった。
「どうしてもとおっしゃるのなら、私も武人。受けて立たぬものではないが――。しかしまた、何ゆえの決闘沙汰です、バーネット子爵。私には何も、貴公の怒りを買うようなふるまいをしでかしたというような記憶はありませんが」
「措け」
 バーネットは鋭く射抜くような、彼の妹よりも数段に迫力のある、まさに仇を見るような眼で親友を見た。
「我が妹を泣かせ、傷つけたというだけで私には充分に決闘を申し込む理由となる。むろん妹にそれなりの落ち度があったというなれば話は別だが。その説明をいただこうか、シェレン候」
「落ち度――ですって?」
 シェレンは肩をすくめた。
「さだめしあなたに言わせれば、ヴェラには何の落ち度もないのでしょう、心優しいウルピウス。涙が出るくらいうるわしい兄妹愛だな。さすがすばらしい父君の子供たちだ。あなたの父上は誰でも――あなたたちはお互いをしか愛さないというわけか」
「それは、どういうことだ」
 バーネットの目がさらに険しいものを帯びた。シェレンも負けていなった。
「何も。申し上げたとおりですよ」
「では、決闘の申し込みは受けるのだろうな?」
 バーネットは剣を抜き放った。作法どおりに鞘を相手の胸に突きつける。シェレンは剣を抜いてその鞘を打ち払う代わりに、手で胸の前からどけた。
「お断りする」
 冷ややかに彼は言った。そして鞘を投げ捨てた。
「これは私とフレデグントどのとの個人的な問題にすぎない。あなたが妹御に頼まれて、彼女の名誉を挽回すべく彼女の代理人として決闘を申し込まれるのであれば話は別だが。しかし、そうではない――そういうおつもりではないのでしょうね、フレデグント姫?  それともそうお望みですか。あなたを傷つけ、苦しめたという私を、愛する兄が成敗してくれることを? 私はどちらでもかまいませんが」
「あ……え……」
 フレデグントはこのなりゆきにすっかり茫然として立ち尽くしていた。が、ようやく、両手をねじり合わせて困り果てたようすで二人を交互に見た。
「いいえ、いいえ! やめてください! 私は誰にも私のために決闘をしてくれなどと望んではおりません。それにアーバイエ候のおっしゃるとおり、これは全くの個人的な――私が幼なじみの候と言い争って、場所柄もわきまえず、愚かしくも取り乱したと――それだけの話です。クレメント様もお兄様も、お心をお解きください。私がすべていけないんです」
「フレーデ」
 バーネットは表情を緩めて妹を見つめた。
「それでは、お前が侮辱されたことについて、私が戦うことは許されぬというのか」
「私は、誰にも争ったり、死んだりしてほしくありません」
 真っ青になりながら、フレデグントは言った。
「私のために、私などのためにクラインの守護神おひとかたなりとも死はおろか、傷ついてもいただきたくないのです。どうかこの剣をお引きください、お兄様。そしてもう、決闘などという恐ろしいことはおよしになって」
「そう……」
 フレデグントは駆け寄って剣の鞘を拾い、バーネットに差し出した。彼は妹から鞘を受け取り、また剣を収めた。
 人々はざわついた。それにはほっとしたような響きとともに、いくぶん、この上もなく面白い見ものを見逃した失望も混じりこんでいた。
「と、いうことだ。バーネット」
 シェレンは言った。
「フレデグント姫は決闘を望まれない。私にはあなたと戦う理由はない」
「そのようだな。妹は代理決闘を望んでいない。――だが」
 不意に、バーネットの目がぎらりと光った。再び剣を鞘走らせるなり、精鋭軍に下賜された美しく彫刻を施した鞘をシェレンに突きつける。
「十二選帝侯シェレン・アルゲーディ殿。子爵バーネット・ルデュランは貴殿に決闘を申し込む。理由は二つ。貴殿がいわれなく我が父の名誉をはずかしめたことと、私と我が妹との兄妹の絆を侮辱なさったからだ。その汚名を雪がねば、私は貴殿の、妹に対する求婚を受けさせるわけにはいかない。この決闘、受けていただけるだろうな」
「私としても貴公に決闘を申し込みたいところだ。貴公の妹は我が母を侮辱し、さる貴婦人を侮辱した」
「さればその名誉は決闘にて挽回できよう。受けるか」
「受けてたとう」
 ゆっくりとシェレンは言った。
 わああ――と人々が揺れ動いた。
「ああ!」
 フレデグントは両手で顔を覆い、ふらりとよろめいた。
「お兄様! 何て事を!」
「いずれ貴殿とはこうしなければならないと思っていた、シェレン殿」
「奇遇だな。私もそう思っていたよ」
 しかしバーネットもシェレンもうわべは落ち着いて、目ばかりはぎらぎらと光らせてはいたが、今は微笑みすら浮かべてお互いを見つめていた。
「だが今ここで、というわけにもいくまい。われわれはどちらもクライン聖帝陛下の忠実なる臣下。皇帝陛下のお許しを得ずに私闘しては陛下のお咎めをこうむるだろう。まして私は十二選帝侯、あなたは精鋭軍隊長の地位ある身だ。あらためて陛下の御前に出、そのお許しを得て場所をしつらえてからでなければ、おいそれと決闘できぬ」
 それは決闘の作法どおりの、理にかなった言葉であったので、バーネットは何も言い返さず、頷いた。
「さよう貴殿のおっしゃるとおり。幸い明朝の謁見がある。その折りに陛下の御意を得て決闘の詳細を決めることとしよう」
 シェレンが二人を取り巻いている人々を振り返った。
「さあ、そうと決まればこの話はおしまいだ――せっかくの皆様方のお楽しみをむげにぶち壊してしまうこともありますまい。踊りましょう、皆様。舞踏会の続きに戻ろうではありませんか。まだ夜は長いのですから。楽士たち、音楽を――!」


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