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「ローレイン伯御令息バーネット・ルデュラン子爵!」
 その名が告げられるなり、いつもそうなるとおり、草原に風の立つようなさざめきと、どことなく華やいだざわめきとが、にぎやかな大広間に流れた。
「ファウビス法務大臣御令嬢ナジア姫!」
 秋の神ルクリーシスを讃える華やかでにぎにぎしい仮面舞踏会である。農村地帯のそれとは違い、カーティス城のそれは、農業の何も知らぬ貴族たちのただ洗練され、どこまでも優雅な祝い事にすぎない。
 今日はカーティス城の中でも、小さいけれども瀟洒なことで知られる小月宮と庭園が、近い《ルクリーシスの祭日》のための、実りと水の神をことほぐもよおしの舞台に選ばれている。
 人々の心は浮き立ち、繁栄と平和を謳歌するようであった。広間はいちだんと沢山の花花で飾り付けられ、かがり火が焚かれ、そして巨大な、一年に一回のこの日だけ、人々の目の前で飾られるクリスタルのルクリーシス神の像が、いちばん奥の壁の前にきらきらと燭台の光を全身に受けて輝いているのが、人々の目を引いた。
 クラインの平和――クラインの繁栄。
 その思いこそが、広間と庭園を埋め尽くしている、貴紳淑女の心をもっともふるわせてやまぬものであっただろう。
 ペルジアはメビウスに屈して和平交渉の最中であり、エトルリアとラトキアとの戦火は一応の収まりを見せたとはいえいまだくすぶり続けており――。
 ひとり、クラインのみが豊かに、静かに、安泰である。
 その思いが、人々をいっそう喜ばしい気分にいざなっていた。
 婦人たちの歌、音楽。
 あでやかにひるがえる、貴婦人、美姫たちのドレスの裳裾。羽扇や、髪に結いこんだ花や羽、宝石の髪飾り。
 かがり火を受けてちかちかときらめく腕輪、首飾り、髪飾り、指輪などの貴重な宝石類。むせ返るほどかぐわしい香料の香り、花々の甘い香り、つややかな髪の輝き。
 一分の隙もなく装いを凝らした宮廷きっての伊達男たち、髪に振った雲母入りの髪粉のきらめき、凛としたいでたちの、正装の武官たち。近衛士官の白と銀の上着も、剣の飾り彫りも、うら若い姫君たちの胸をときめかせる。
「バーネット様、お顔の色がすぐれませんわね」
 バーネットに手を取られ、彼のそばに寄り添ったナジアは心配そうに、羽扇で口許を隠して尋ねた。
「わたくしが無理にお誘いして、いけなかったかしら?」
「そんなことはありませんよ、ナジア」
 バーネットはなるべく晴れやかな笑顔を見せようと努力した。実のところ、ほんの二、三時間前のワルターからの再婚の報告というのは、いくらもうすぐ三十になろうとはいえども、息子の彼にとって大きな驚きでありまたショックであった。しかも相手が、気心の知れた親友シェレンの母だというので、二重の衝撃だったのだ。
 しかし彼はそんな様子はおくびにも出さぬようにつとめていた。もともと彼はすぐに熱くなってしまう性格であったにしろ、私生活を仕事に持ち込まぬように努めていることもあって、大体のところはそれで隠しおおせていた。
 彼の姿が広間に現れるやいなや、若い姫君たちや、そんなに若くもない貴婦人たちが、ナジアのことなどさておいてわっと群がってくる。それに、バーネットは疲れたように、しかし優しく対応していた。
 バーネットは武官の中では一番の――宮廷でもサライについで第二、第三を争う美青年で、その美貌もたとえばカーティス公サライの花のような美貌とはまったく違う、生粋の男らしい精悍なそれであった。笞のようにしなやかな長身で、筋肉質で、するどく切れ長の目と、細く美しい鼻梁を持っていた。
 彼はこのところよく舞踏会に姿を見せるようになって、姫君たちを喜ばせ、また悩ませていたのだが、そのおもてはどことなく常に憂愁のかげりを帯びていた。それがいっそう悩ましい、男の色気があるなどといってもてはやされていた。
 文人、なよやかな貴族の男性が多いクラインにあって、バーネットが格段に男らしく、凛々しく見えるのは間違いなかった。もっとも彼は韜晦には長けていなかったので、その飾り気のなさや朴訥さを気取っているだとか、二枚目ぶっているなどと悪く言うものもいないわけではなかった。
「バージェス伯御令息クレメント・ファリア子爵!」
「ローレイン伯御令嬢フレデグント・ルデュラン姫!」
 兄に少し遅れて、呼び上げられる人々の名の中にフレデグントとクレメントの名を聞き取ることができた。
「ほら――フレデグント様がおいでになりましたわ。なんて可愛らしい」
 ナジアがバーネットを見上げて微笑んだ。その夜は、フレデグントの衣装は紅の透かし織りの絹を幾重にも重ねた、まるで薔薇の花のようなドレスであった。花びらを重ねたような袖口からは、彼女が腕を動かすたびになめらかな肩と腕がすっかりあらわになり、肘の上まである長い、同じ紅のレースの手袋をはめていた。
 ドレスの色のためにますます輝いて見える髪は赤い羽飾りと薔薇の花を編みこみ、そうして結い上げた髪のてっぺんから、背中まで届く銀糸の交ぜ織りのレースがルビーのピンで留められて長々と引かれていた。この頃人気の出てきた新進気鋭のデザイナー、アンミアヌスによるちょっと奇抜なこのドレスは、若いフレデグントにはよく似合ったし、クライン宮廷では父と兄をおいて他にいない赤髪をすばらしく引き立てた。
 そばにぴったりと寄り添ったクレメントは、もちろんそのフレデグントの美しさにすっかり魅せられきって、一秒でも目を離すのさえ嫌なようであった。そのクレメントは、近衛騎士団の白い制服とマントがまことにつきづきしく、騎士人形のように見えた。
 仮面舞踏会とはいうけれども、もとよりその氏も素性も知り尽くしているもの同士の催しごとである。色とりどりのマスクをつけるのは、むしろちょっとしたスリルと目先の変わる新鮮さとを、日頃ずっと共に過ごしている人々に与え、何となく秘密めかした楽しみを味わおうという趣向にすぎない。
 それゆえに仮面は装いの一部として、みなそれぞれドレスの色に合わせたり、羽や小さなくず宝石をちりばめたり、思い切って奇抜なデザインのマスクをあつらえたり、思い思いの趣向を凝らしていた。
 中には目だけをくり抜いた黒い布で目から上をすっぽりと覆い、鼻のところは鳥の嘴みたいに突き出した道化のマスクを被り、頭には白い大きな羽を飾った黒い帽子をかぶって出ているのは口だけという――それは宮廷一の洒落者と名高いローレイン伯爵ワルター卿であった――目ざましい紳士もいる。
 今夜の彼のパートナーをつとめる前アーバイエ候夫人アデリシアは、これはそれほど奇抜でもない、目の周りだけを隠す、ガラスの粒をちりばめて銀糸でふちどりをした繻子のマスクを紐で結わえ付けていた。
 だが、たいていのものは、柄付きのマスクを目のところにかざし、踊りの時にも片手だけをつなぎ合わせて、ちょっと風変わりなダンスを演じているのだった。
 この宴にはむろん皇帝レウカディアも父の先帝アレクサンデルとともに出席していたのだが、彼女は最初のほうの、皇帝の挨拶と最小限の時間だけをようやくというように我慢して、バーネットがサビナ・ナジアとともにお行儀よく入っていった時には、顔を蒼白にして退出していってしまっていた。
 だが人々は、レウカディアの即位当初の気短さも、最近そのように閉じこもり、ほとんど外に楽しみを求めなくなってきたことも、彼女がまだ二十歳であることも、女帝だということにも慣れきって、この頃ではつまりそんなものなのだと思って二、三人の人を除けば一向に気に留めなくなっていた。
 そしてまた、貴公子たちはほっとし、貴婦人たちは大いに残念がったことであったけれども、宮廷一の美貌を誇るカーティス公も、レウカディアと同じぐらいの時間しか出席しないように気をつけていたので、今夜の舞踏会ではバーネットは入れ違いのようになってしまっていた。
 しかし広間にも庭園にも人があふれていたので、バーネットがサライの姿を見つけることはなかった。シェレンの姿も探したのだが、あいにくシェレンはバーネットと違って髪の色ですぐに見つけられるわけではなかったし、おまけに皆マスクで目元を隠していたせいでますます分かりづらくなっていた。
 バーネットたちが入ってきたとき、宴はすでにたけなわで、何回目かのワルツやロンドが終わり、ヴォルトが始まっていた。二人は男女が抱き合って踊るこの情熱的な舞曲を最初に一曲踊り、美しい色付きの調合酒を手にして広間の端の、サロンになっているあたりへ移動した。
 彼はさりげなく父親の姿を探し、ダンスの輪の中にすぐに見つけた。もう五十を過ぎているというのに、ワルターはいまだ社交界で一、二を争うすぐれた踊り手の一人であり、彼のいるところでは老いも若きも貴婦人たちが華やいでいるのだった。バーネットは母以外の女性にも愛想のいいそんな父の姿を見て育ったものだから、社交界があまり好きではなかったが、最近ではそんな父親をある意味うらやましく思っていた。
 おのれの心の赴くままに恋をし、浮名をどんなに流していようともそれが原因でトラブルに巻き込まれたことなど一度もなかったし、何だかんだと言いつつもバーネットとフレデグントの母――ミルドリュス夫人が存命であった間は、彼は良き夫、家庭人であり、一度として他の女性を顧みることはなかったのだ。
 しかし、ワルターは根っからの風流貴公子、洒落者であり、その性格はいくら妻にほれ込んでいようとなかなか矯められるものではなかった。そしてバーネットは真面目な性格とは相反して貴婦人たちにもてはやされ、否応なしに目立たざるを得ず、フレデグントはご存じのとおり華やかな美少女で、自分がそうしてちやほやされることを無邪気に喜んでいた。
 それぞれがどう感じていたかは定かでなかったが、ともあれそのようにして、ローレイン伯爵一家は社交界の中で非常に目立っており、カーティス城の人々の絶え間ないゴシップの種であった。
 ワルターが次々と浮名を流すのは毎度のことで、バーネットは真面目でナジア以外のサビナと付き合う雰囲気は全くなく、それで人々の関心はほとんど若きローレイン伯令嬢に向かっていた。
 人々の目に映るフレデグントはきわめてあでやかで、美しく、若く、内気と物静かには縁遠かったがみずみずしい花のような活気と華やかさにあふれた美少女だった。だがここ最近彼女のルビーのような瞳は何かの憂悶にかげり、若い貴公子たちはそのかげりの謎を解こうとして心を燃やしたし、誰一人としてそれに成功したものもいなかった。
 クレメントも含めて、彼女のおもてをかげらせている憂いの正体が、彼女に求愛するあまたの貴公子たちから一人を選ぶことのできぬ心苦しさのゆえなのか、それとも全く別のことであるのかを知るものもいなかった。
「だいぶ、お疲れのようです。冷たい風に当たりながら、庭園のベンチにおかけになりませんか」
「そうね。少し疲れましたわ」
 もう五曲ほど立て続けに素晴らしいダンスをクレメント相手に披露したばかりで、彼の差し出した鮮やかな水色の調合酒を片手にフレデグントはクレメントの慫慂のままに、外に出ていった。
「本当に時々、あなたはなんて他の姫君と違っているのだろうと不思議に思うことがあります」
 クレメントは、自分が年もゆかず、経験もなく、したがって初恋の姫君の心をつかむ巧みな話術もなければ、話題も豊富でないことをよく自覚していた。それで、形勢を挽回するためにひっきりなしに彼女への賛美ばかりを連ねるのであった。
「あなたの瞳はまるで紅玉のようです。不思議な方。なんと美しい赤い髪でしょう。まるで赤い薔薇、セラミスのようです」
「それはここがクラインだから――ティフィリスでは私のような者は珍しくもないのですわ、クレメントさま」
「何を言うんです」
 びっくりしてクレメントは言った。
「クラインだって、ティフィリスだって、あなたのような方は二人とおりますまい。あなたはあなたです、フレデグント。他の女性はみな血と肉でできているのに、あなたお一人は白亜と柘榴石と、あかつきの日の光でできているみたいです。――僕はもうあなたに剣を捧げたでしょうか? 何度捧げても足りぬような気がする。ああ、フレデグント。僕はあなたを愛しています。――愛しています!」
 十八歳にだけ可能であるような昂りと情熱に身を任せて、クレメントは叫んだ。そして自らの情熱のあまりに頬を真っ赤にしながらベンチからすべりおりて剣を抜き、柄をフレデグントに、刃を自分の胸に向けて差し出し、剣の誓いを繰り返した。彼女は剣を取り、その刃に口づけてクレメントに返しながら吐息を漏らした。
「お願いです、クレメントさま。私のようなものをそんなふうに、まるで女神か何かのようにおっしゃるのはどうぞおよしになって。――私は、あなたの言われるようなものではありませんわ。私はあなたと同い年の、取るに足らぬ、平凡な、ただの娘です」
「また、そんな悲しい顔をなさる。僕といるのはお嫌ですか? それとも、あなたのお心を、誰かが占めていらっしゃるのですか?」
「そんなことではありませんけれど――世の中には、決して求めてはならぬ方というのもございますわ」
 フレデグントはあいまいに微笑んだ。
「おお、それは、僕があなたにふさわしからぬという意味で?」
「そんなことではございませんわ。でも、こんなにあなたにお心を寄せていただき、多くの方に心を決めるように求められていながら、お一人に心定めることもできぬ、心の弱い私をどうしてそんなにお慕いくださいますの?」
「こんなに美しいあなたを、どうして愛さずにいられましょう? 僕はそれでも、悪いことはないと思いますよ」
 クレメントは何と慰めてよいのか迷ったが、ふいに明るい表情になって叫んだ。
「あなたにとってそれは心苦しいことなのかもしれません。でも僕にとっては、少なくともまだあなたのお心が誰の上にも定まっていないということは、いつか僕があなたのお心を射止められるかもしれないという望みになるのですから」
「まあ、クレメントさま」
 フレデグントは口許に扇を当てて上品に笑った。だが何かを思い出したように、ふっとまた何かふさぎ込んだようなかぎろいがその瞳に浮かんだ。それには気付かず、クレメントは燃える思いのままに彼女の手を取って口づけようとし――そしてふいにぎくりとしたように動きを止めた。
 庭園の木々の茂みの間から、まるでふいに湧き出したとでもいうように、長身の人影がすっと現れたからである。

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