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                                *



 そんなやりとりが兄と妹の間であった、ほんの半テル後――
 今度は父と息子の間で話し合いが持たれていた。
 ごく内々の話であるから邪魔をせぬよう、と告げられて、ワルターの私室からは小姓も侍女も遠ざけられていた。部屋に二人きりになってしまったのを確認してから、バーネットは尋ねた。
「お話とは、なんですか。父上」
「うむ……」
 内々の、それも周りの者を遠ざけてでの話であるので、恐らくはバーネットとナジアの婚約の話だとか、あるいはフレデグントの縁談のことであろうと想像していたが、ワルターはすぐには話し出さずに視線をさまよわせ、咳払いした。
「……私とナジア姫のことですか。それともフレーデの?」
 あまり切り出すのが遅いので、バーネットは無礼を承知でもう一度尋ねた。
「いや、そうではない」
「では――何です? 父上がそんなに屈託あるご様子など初めて見ましたよ」
 またしばらくの沈黙を置いてから、ワルターが口を開いた。
「バーネット、ナジア姫とはうまくいっているのか?」
「彼女といるのはとても好きです。話をするのも。それを世の中で『うまくいっている』というのでしたら、うまくいっていると思いますよ。そういうことは、私よりも父上のほうがよくお判りでしょう。どうでしょう? 私とナジアは……その、何と言うのでしょうね? 恋人のように見えるのでしょうか」
「見えるよ。この上もなく無邪気で、かわいらしく」
「そんな言い方をなさって……。どうせ私が子供だとおっしゃりたいのでしょう。父上からすれば、てんでなってないのでしょうがね、私にとってはけっこうこれはこれで真剣なんですよ」
 バーネットはいささか気分を害したように言い返した。
「誰も子供だなどとは言っていないだろう」
 ワルターは苦笑した。
「かえってそれぐらいのほうがいい。私の息子なのだから、なおさら。ファウビスどのも私とナジア姫だったら絶対に引き離しただろうが、お前にならば安心して姫を預けられる、と言っておられたぞ」
「父上は遊びすぎなんです」
 きっぱりとバーネットは言った。
「母上と結婚なさる前にも色々とあったらしいじゃないですか。今年になってからだってサビナ・ヘルガにテルマ未亡人、ドムナ・ルテア、ドムナ・グウェンドレン……パーティーに出るたびに相手が違うなんて、よしてください。もっとも、一つとして揉め事になったことがないところに私は感心していますけれどもね」
「お前もよく知っているな、バーネット……」
「何年あなたの息子をやっていると思っているんです」
 ワルターはばつの悪い顔をした。
「だが、私のしたいのはそういう話じゃないんだ。話をそらそうとしていると思わないでくれ、バーネット」
「ええ。やっと本題に入ってくださるのでしょう?」
 彼は寛大だった。女性関係をとやかく言っていては、おそらくワルターの息子などつとまらなかっただろう。
「むろんお前たちに嫌な思いをさせたことがあっただろうことは認めるし、それはすまないと思っているが、もうそれも長い話ではない」
 ワルターは視線を膝の上で組んだ手に落として、バーネットの顔を見なかった。
「どういうことです? まさか隠居なさりたいなんておっしゃるつもりですか」
 珍しくも冗談らしいことをこの真面目な息子が言ったので、ワルターは笑うともつかぬような微妙な表情を浮かべた。
「陛下もこのところ落ち着かれてきたとはいえ、隠居のつもりはまだないのだが……ともあれ私にも、そろそろ年貢の納め時が来たとでも言うべきか」
 回りくどい表現の嫌いなバーネットはちょっと嫌そうな顔をした。
「そういう、持って回った言い方はよしてください。父上らしくもない。はっきりおっしゃっていただきましょう、父上。どうなさったんです? キュティアの申し子とも言われた父上がいったい、何でそんなことを言い出すのか」
「キュティアの申し子か。たしかにそのとおりだ」
 ワルターは笑った。
「私はいつも、自分が恋の矢を放つほうだと思っていたけれども――私が胸を金の矢に貫かれることもある。ミルドリュスに出会ったときもそうだったし、そして今も」
「……」
 バーネットはどことなく不安げな眼差しを父親に向けた。
「どなたかと……再婚なさるおつもりですか」
「遅くとも今年中にはそのつもりだ。だからお前に聞きたかった」
「それはむろん、父上が決めた方ならば息子の私がとやかく言うこともできますまいし、身を固めてくださるのは大いに結構ですが……どなたです? ローレイン伯の心を射止めたその方は」
「お前もよく知っている方だ」
「はあ……」
 ワルターは少し照れたように、視線を落とした。
「アデリシア・アルゲーディ夫人だ」
「何ですって?」
 バーネットは驚いて大声を上げた。
「アデリシア夫人は……彼女は……シェレンの母君じゃないですか!」
「それは私だって知っている。だがウォラス殿が亡くなってもう七年、――選帝侯をシェレン卿が継ぎ、成人してからは、もう五年が経った。彼女が再婚しても何も問題はないだろう。私とて、妻を亡くしてもう十七年になる」
 聞いた当初こそ驚いて立ち上がったものの、バーネットはすぐに落ち着きを取り戻して椅子に座りなおした。
「それはまあ……そうですが。いつからそんなお話になっていたんです」
「二年ほど前だ」
「そうですか」
 バーネットはため息をついた。
(では俺とシェレンが兄弟という可能性はないんだな)
 彼のため息を呆れととったのか、ワルターが不安げに尋ねた。
「お前は反対か? バーネット」
「いえ」
 彼はゆるく首を振った。
「父上がお決めになったことをどうして私が反対できるというんです? 父上もアデリシア夫人も、ご自分の判断がどういう結果になるかをよくご存じの上で決められたのでしょう。だったら、私はもう何も言いません」
「では、祝福してくれるか」
「はい。でも――」
「でも?」
 ワルターは訝しげに聞き返した。
「それは……」
 ワルターの言葉を遮るようにして、バーネットは続けた。
「反対している、というのではありません。ただ、よろしいですか、父上。父上とアデリシア夫人が結婚なさるということは、お二人だけの問題ではないんです。仮にもアデリシア夫人は前アーバイエ選帝侯夫人。その夫人と、ローレイン伯が結婚するなどということが、どれほどの政治的影響力を持つかよくお判りでしょうね?」
「判っている。だから、アデリシアには一度ウォラス殿と離婚し、実家に戻ってもらってから、という形をとるつもりだ」
 言い訳する子供のように、歯切れ悪くワルターは言った。
「それなら表面上問題はないですね。アデリシア夫人はたしか……カローゾ子爵家の出でしたか。それでも、父上。もう一つ忘れていただいては困ることがあります」
 まだ続くのか、とワルターは言いたそうな顔をした。だがバーネットは、詰問しているときや非難するときには、相手の顔色もあまり――というか全く気にせずどんどん続けてしまうほうだった。
「子供の――私とフレーデ、シェレンのことです」
「……」
「アデリシア夫人を、父上の妻として受け入れることはできましょうが、母として受け入れることはできません」
「バーネット」
 彼は父親の不安げな声など無視して続けた。
「アデリシア夫人はシェレンの母君であって、それ以外の誰の母でもありません。私とフレーデの母はミルドリュス・ルデュランしかいません。母上以外の女性を母と呼ぶのは、私にとって母上に対する裏切りになります。それはシェレンにとっても同じでしょう。彼の父は前十二選帝侯ウォラス・アルゲーディただ一人――彼にとって父上は、彼の母の夫となる人です」
 ワルターはもう何も口を差し挟まずに、珍しくも自分の考えをこれほど率直に、長く語る息子の様子を見つめ、その言葉に耳を傾けていた。
「ましてアデリシア夫人がウォラス卿と離婚するという段取りをとるというのならば、余計に私はシェレンにすまなく思います。私とフレーデは父も失わず、新たにその妻となる女性を家に迎えることになるのでしょうが、シェレンは父君を喪ったうえに母君も――むろん法的に、ということですが――失うことになるんです。彼は幼い子供ではありませんし、十二選帝侯を継いだ今では私の弟、フレーデの兄としてアデリシア夫人についてくることはできないのですから。さようのことだけは、承知しておいていただけますか」
「……ああ」
 彼は頷いた。バーネットが自分の考えていることや感情を出すことが滅多になかった分、それが出てくるというのはバーネットにとって重大なことであり、ワルターもそのことを充分承知していたので、重く受け止めた。
「一つ、聞いておきたいことがあります」
「何だ?」
「母上のことは――どう思っていらっしゃいますか?」
「ミルドリュスのことは、今も愛しているよ」
 ワルターは亡き妻を偲ぶように目を閉じた。
「だがアデリシアとどちらをより愛しているのか、と問われれば答えることはできない。もしもミルドリュスとアデリシアに同時に出会っていたら、私はどちらかを選ぶことができなかっただろう。選ぶことができるとすれば、それは本当の愛ではないからだ。同じ激しさと深さで、別のひとを愛するということも、時にはできるんだ。お前にはまだ判らないかもしれないが」
「でも、判りますよ。父上は真剣にアデリシア夫人を愛していらっしゃるのですね」
 バーネットはかすかに微笑んだ。
「シェレンは、この話を知っているのですか」
「今はまだ――今夜、アデリシアが自分から話すと言っていたが」

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