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 《白鹿》亭の二階にマリエラの為に用意された部屋の、寝床に横たわって、彼女は今さっき聞かされた話を反芻していた。
(ティフィリスのアインデッド……)
 その名は、彼女にとって忘れようと思っても忘れられる名前ではなかった。少女時代の余りにも短いひとときに巡りあい、そして別れた数多くの人々の中でも、とりわけ彼女の心に強く刻み付けられた思い出。
(本当に、彼なのかしら……だとしたら、こんな所で)
 それはもう、五年も昔の事になる。
(アインデッドはまだ、あの約束を覚えているかしら)
 定期船に乗りそびれた彼女をマノリアまで運んでくれた海賊船の船長が、アインデッドだった。アインデッドは、王になるのだという予言を信じて疑わず、その気概が虹のように輝く十八歳の少年だった。そして様々な曲折ののちにマリエラは、彼のサーガを作ると約束して別れたのだった。
 だが久々に聞いたその名は、街道を荒らし回る赤い盗賊団の首領としてのものだった。それが、マリエラには深い衝撃だった。ラトキアに帰るためには遠回りをしなければならないという忠告よりも何よりも彼女を打ちのめしたのは、実はその事だったのである。
「アインデッド」
 そこはルーハルの、打ち捨てられた廃墟。かつては自由開拓民あたりが小さな集落を作っていたのだろう。しかし実のところそこは無人の廃屋などではなかった。破れかけた屋根は修繕され、石積みも積みなおされて、人が住めるように整えられている。その中の一軒の館。
 窓際に片膝を立てて座っていたアインデッドの背が揺れた。
「どうした」
 振り返る顔は若く、照らし出す月の光よりも美しい。しかしこのところ、彼のおもてが心からの笑みを浮かべることなど滅多になくなっていた。眉はいつも不機嫌そうにしかめられ、唇は何かをあざ笑うように歪んでいた。それでもなお彼は美しいのだった。
 彼の顔に思わず見とれて、ルカディウスは目をそらした。そうやって見詰められることを、アインデッドがいちばん嫌うことを彼はいつも言われるので、よく知っていた。だが背も容姿もコンプレックスとなっているルカディウスにとって、まさにアインデッドはそうなりたかった男の理想そのものであった。彼がアインデッドに惚れ込み、付き従いたいと思ったのも、むろんアインデッドが人並みはずれて人をひきつけるものを持っていたこともあっただろうが、そのあたりの事情もあったのだろう。
「いや……明日、フェリスからのセラミス商人の隊商がサナリアあたりを通るそうだ。たぶん昼頃になるだろう。傭兵を五十人ばかり連れている」
 ルカディウスは精一杯何でもないふりをして咳払いした。
「ああ、ご苦労」
 アインデッドはそっけなかった。それもいつものことであったが。だがルカディウスはまだ引き下がらず、今夜はサライアの月だというのに息が白くなるほど冷えるのに、火を入れていない暖炉に目をやって、心配そうに尋ねた。
「――今夜は冷えるのに、火も入れないで平気なのか?」
「……」
 今度はものも言わず、アインデッドは軽く手を暖炉に向けた。冷え切った灰から突然炎が上がり、薪が燃え始めた。炎のスペル《ナカーリア》を持つ彼にとっては、造作もないことだった。
「これでいいだろう」
 投げやりな態度で、アインデッドは言った。そしてまた視線は窓の外へと向けられる。そこから見えるのはサナリアの森と、夜空。
「考え事の途中だったなら、もう戻るよ」
 ルカディウスはおとなしく言った。
「だがもう遅いし、寝たほうがいい」
「気が向いたらな」
 ちょっと皮肉っぽい笑いが返った。出て行こうとするルカディウスに、アインデッドは気が変わったように声をかけた。
「――ルカディウス」
「何だ?」
「例の作戦を実行するのに、あとどれぐらい要るか、わかるか」
「……」
 少し考えてから、彼は答えた。
「本当なら、あと二百人は集めたいところだが、これ以上ではかえって統率が取れにくいから、これぐらいでいい。軍資金は――そうだな、もうあと半年ぐらいで、充分蓄えられるだろう」
「あと、半年か」
 アインデッドは親指の爪を噛んだ。妙に苛々したような、もの思わしげな様子だった、それをルカディウスは心底気づかうような目で見る。
「そう焦るまでもないだろう。まだたったの五ヶ月しか経ってないんだ」
「焦ってなんかいない」
 むっとしたようにアインデッドは答えた。その顔がまた、沈んだ表情で暗くなる。
「だが、時が経つのがもどかしいな。もう五ヶ月か。一年近くもこうしてるような気がするぜ。――そうしてラトキア公女を助け出し、ラトキアを再興させ、俺がゼーアの王となる布石を作る――それだけで、あと何年かかるのか」
「そう長くはかからないはずだ、アイン」
 ルカディウスはアインの機嫌を損ねまいとして言った。
「少なくとも、ラトキア再興までには。それに、お前はまだ若いんだ。時間はたっぷりある。焦るんじゃない」
「花の時はすばらしく、またとなく、そして短くはかないもの」
 ルカディウスには目を向けず、夜の森を見つめたままアインはひとり言のようにオルフェの詩の一遍を呟いた。
「まるで一日一日が一年のようにも感じる。俺がクラインをも越える国の王になり、この手でクラインを滅ぼし、あの美しい石の都を踏みにじり、火の海に沈め、血に染めてやるまでにあとどれほど待たねばならないんだろう」
 そう呟く彼のおもては月光に青白く濡れ、森の色を映すかと思われる瞳は妖しく、どこか憂愁のかげりを帯びて輝いていた。その目はこのサナリアの森ではなく、現実にはそこにはないカーティスの街を眺めているかのようだった。
「なあ――アインデッド」
 おずおずとルカディウスは尋ねた。
「お前が言いたがらないから俺は今まであえて聞いてこなかったが、どうしてお前はそこまで、クラインにこだわるんだ? 確かにあの国は中原でもっとも文化の高い、美しい国ではあるが……」
「別に、あの国の領土が欲しいだとかそういうわけじゃ、ねえよ」
 余計なことを聞くなと怒るかと思われたが、今夜はよほど機嫌がいいのか、アインデッドはルカディウスの予想に反してきちんとした答えを返した。初めて聞くことであったので、彼は興味を隠しきれなかった。
「どういうことだ?」
「俺はただ、あの国を滅ぼしてやりたいだけだ。クラインが悪いんじゃねえんだろうがな、とにかくあの国の全てをこの世から消し去ってやらねえことには俺の腹は癒えねえんだろうよ」
 その眼前には遠い未来に彼がもたらすだろう、中原の華の破壊のありさまが映っているのか、陰惨で凄艶な笑みを浮かべ、アインデッドは言った。
「そこまで……」
 ルカディウスはごくりと唾を飲み込んだ。もしかしたらこの質問がアインデッドを怒らせてしまうかもしれないという不安を感じていたのだ。
「そこまでクラインを憎むのは、何故なんだ?」
「大したことじゃ――いや、大したことだな、大したことだよ」
 アインデッドは一人で頷いた。
「俺の一生の願い、このティフィリスのアインデッドの一生に一度きりと思った願いを反故にさせた街、国なんてものは許せねえ、そういうことさ。そんなにあいつ(、、、) があの国を愛し、俺の友情、信頼よりも大切だというのなら俺はそんなものはぶち壊し、あいつ(、、、)が大切だと思うもの全てを消し去り、燃やし尽くして――」
 言いかけて、アインデッドはふと口をつぐんだ。喋りすぎたと思ったのだろう。彼の懸念どおり、彼の独白めいた言葉はルカディウスの関心を大いに引いていた。彼は片方しかない灰色の目をいっぱいに見開いていた。
「その、あいつ、というのは……もしかして、女か? お前をふる女がいるとは思えないが……」
 ルカディウスのこの言葉はアインデッドを面白がらせた。
「女? まあ、どっちだってかまわねえだろう」
 くすくす笑いながら、彼は言った。
「さあ、ルカ。お前の聞きたいことはもう俺は喋ったぞ。そろそろ俺を一人にしてくれ。それともまだ何かあるのか? 俺の女の話なんか聞いたってもう飽きただろ。もっとも、お前に昔の恋の話があるってなら俺はいくらでも聞いてやるがな」
「そんなもの」
 ルカディウスは目を伏せた。
「無いのはお前だってわかるだろう」
「そうか? あるならいつだって俺は聞いてやるぞ」
 笑いながらアインデッドは言った。だがルカディウスはますます俯いて、もごもごと早く寝るように、というようなことを言いながらアインデッドの部屋を出て行ってしまった。それを見送り、気配がなくなったのを注意深く探ってから、アインデッドは笑みを引っ込めてまた暗い面持ちに戻った。
「女……か。まあ、誤解されてたほうがいいだろうな」
 彼は呟いた。女にふられるよりも手痛い傷を彼の心に残した相手ではあったが。
 あの日の、双ヶ丘でのできごとを思い出すたびに、アインデッドは大声で叫びだし、暴れまわりたいほどの怒りと苛立ちを感じた。それを表に出せないために余計に彼の中では昇華しきれないさまざまな感情となって、あの日の雪のように彼の心に降り積もってゆくのだった。
 そのたびに、アインデッドはいつの日か軍勢を率い、彼からサライを奪ったクラインを――彼は一目も見たことがなかったが――全ての原因である女帝レウカディアを血と炎の海に沈める光景を思い浮かべて、陰惨な慰みとしていたのだった。そうでもしなければ彼は精神のバランスを保てなかっただろう。
 そして今の彼を支えているのは、サライに復讐する、そのことだけだったのである。
(まるで俺は、セーラムみたいだぜ)
 アインデッドは頬の片隅で自嘲した。
 それは遠い昔の、ウクバールの王女の物語である。
 王女セーラムはヤナスの司祭ヨハナーンを愛したけれども、彼はセーラムを拒んだ。恋に焦がれた彼女の思いはやがて憎しみに変わり、ある時王の前で舞を舞ったその報奨として何でも一つだけ、国の半分であろうとも望みのものを与えようと言われた彼女は、ヨハナーンの首を所望したのである。
 何でも与えると約束した手前、仕方なく王はヨハナーンの首を切り、銀の盆に載せて彼女に与えた。そうして、どんなに愛しても生きている間には手に入れられなかった男の唇に口付けして、彼女はとうとう私はお前を手に入れた、と笑ったのだという。
(むろん俺は別にサライにそういう意味で惚れてるってわけじゃねえが――だが本当に、あいつなら俺の生涯の友としてやってゆけると思っていたんだ。いつだって誰もが俺の運命に巻き込まれ、死んでしまったり、俺から逃げ出してしまったり、むろん逆に俺が捨てることもあったけれども、あいつだけはそんなことにはならないだろうと、そう信じたのに――)
 なのに、サライは彼よりもかつて捨てた国への忠誠を「選んだ」のだ。それはつまり彼はサライに「捨てられた」のだということだった。その事実がアインデッド自身は恐らく決して認めようとはしなかっただろうが、彼の芯のところでは傷つきやすい心をいたく傷つけていた。
(今は俺のことを忘れていればいい。白い石の都で安らかに眠っていればいい。だが、見ていろ。いつかお前を――お前の目の前で、お前が俺よりも大切だと思ったもの全てを壊し、奪ってやる。そうすればお前だっていやでも俺のことだけを考えるだろうさ。それがたとえ憎しみであろうともな)
 アインデッドは暗い炎の宿る目で、遠い夜空を見た。
 森に、夜風が吹く。

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