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    ピュラ 何とでも言うがいい。
         私の命はもうとっくに死に結び付けられてしまった。
         私の心は冷たい墓土の下に埋められてしまった。
         この願いをかなえるためならば命だって惜しくはない


   ヨランツ そしてあなたの心は燃え上がるのですね。
          氷のように冷たいものに。
                            ――エウリュピデス
                              「氷の乙女」より




     第三楽章 湖を渡る風




 水の都サッシャから見て、東寄りのサリア湖畔に位置する街、ラス。そこは美と快楽の都として知られる、エトルリアの中で最も有名な都市である。至る所遊廓が軒を連ね、夜な夜なそこは一夜の悦楽を求める人々で溢れる。仮初めの愛、儚い夢のような恋の街――それがラスだった。
 ラスの湖畔には大公の別荘として建てられた水上離宮がある。雪花宮と同じく水上に高殿作りで建てられたその宮殿は、白い外見から白亜宮と呼び習わされている。この白亜宮に大公の別荘とはまた別の用途のために大掛かりな改修が行われ、その工事は今年の春に落成した。
 今やただ一人のラトキア公女となった、シェハラザード公女の監禁。
 それが白亜宮の改修目的であった。もとより水上に建てられているので、湖畔と宮殿をつなぐ唯一の跳ね橋を上げてしまえば、陸からの出入りは不可能となる。そのため改修されたのは主に内装であり、身分高い女性が居住するべく調度品を新たに婦人室用のものに更めたほか、公女の入水を防ぐために窓を塞ぐなどの処置が行われたのであった。
 食料や燃料などの物資は船で搬入され、公女との接触を図る者が忍び込んでおらぬか、手紙などの連絡手段などが中に隠されてはおらぬかと、全て厳しい検閲を受けた後に宮殿内に運び込まれる。
 再三に渡る交渉の結果、シェハラザードはいまだ外界に出ることは叶わないまでも、ある程度の自由を手に入れた。その代わりに払った代償は昔の彼女だったら舌を噛み切ってでも拒んだに違いない要求を受け入れることだった。
「大公閣下のお渡りです」
「お通ししなさい」
 乾いた声が、それに答えた。彼女は面倒そうにベッドから身を起こした。背中の上までゆたかに伸びたはっとするほど豪華な銀髪に、いまだ深い憎悪と悲しみをたたえた菫色の瞳。薄物を一枚羽織っただけだったので、その見事な裸身はくっきりと透けて見えた。ゆたかな白い胸に、ほっそりとした腰。それは到底、つい最近十九歳になったばかりの少女のものとは思えなかった。
 部屋が薄暗いのは、ただ夜であるからというだけではなかった。そこは天井のとても高い部屋であったが、人の背が届くところには窓は一つもなく、天井に近い辺りにほんの明り取り程度にしかならぬような小窓があいているばかりだった。それでも湖に吹く風は室内に入り込み、時折すうっと肌を撫でていく。
「今宵は風が涼しいな」
 間もなくエトルリア大公サン・タオが入ってきた。その声を聞いた途端、彼女の柳眉が一瞬だけだったがけわしくなった。が、あっという間にそれは消え、シェハラザードは一度目を伏せた。サン・タオは寝台に横たわった彼女の肢体にじっくりと眺め入り、満足げに言った。
「そなたはまったく美しい。かつてはそなたの姉たちとで三輪の花、ラトキアのセラミスと呼ばれていたようだが――花とたとえるより、むしろこう呼ぼう。光の天使、と。その銀の髪はまさに月の光ではないか。きらきらとしろがねのように輝いておる。まだ短いのが玉に瑕だが、伸びればさぞ美しさがいやますことだろう」
 彼女に投げかけられる視線は、一人の人間に対するというよりは何かおのれの最も大切に秘蔵する宝石や、美酒をいとおしむようなものであった。その視線を見れば、サン・タオがシェハラザードを一個の人格としてではなく、コレクションの一つくらいにしか考えていないのは明白であった。
「今夜はどうなさいましたの? 突然そのように、オルフェのような言葉でお褒めあそばすなんて。それに、夜も更けておらぬのにこちらにお渡りくださるとは……。何かお嫌なことでもございましたの?」
 しかし相手の視線の意味について彼女が何を思ったにしろ、それを表に出すことはなかった。気だるげに肘を枕について頭を支え、シェハラザードは微笑んだ。命じられてはおらぬが侍女が一人、ひっそりと入ってくると、一言も発さぬまま寝台脇の卓に酒の瓶とグラスを置いて出て行った。
「それを忘れたくて来たのだ。あまり聞くな」
 侍女が完全に出て行ったかどうかなど気にしたようでもなく、せかせかとサン・タオは言い、シェハラザードの薄物の胸を押し開いた。薄闇に、彫像のように白く血の気のない肌が露になる。ゆっくりと彼女は腕を持ち上げて、胸を隠すようなしぐさを見せた。それは恥じらいのためというよりは、誘いかけるようなしぐさであった。
 サン・タオの息が荒くなるのとは対照的に、シェハラザードは顔を少し背けて床を見つめ、氷のように冷たくそこに横たわり続けていた。
 数刻が過ぎ、サン・タオは寝台に上体を起こして、隣にはべるシェハラザードの酌で酒を飲んでいた。
「それで……先程のお話ですけれども、何でしたの?」
 明らかにそれを聞くことを待ちかねていたような彼女の質問に、サンは苦笑した。ぐいと酒をあおる。
「そなたは本当に、政治が好きな女だな。父の――ツェペシュ殿はどのようにそなたを育てたのだ。このように美しい顔をしていながら、気性ばかりは男勝りだな」
「まあ、意地悪を仰いますのね」
 シェハラザードはかすかな媚態を漂わせて彼を軽く睨んだ。
「まあ、いい。そなたの意見などはなかなか役に立つ。先だってのペルジアとメビウスの戦のときにもな。ランやファンはせっかくの領土拡大のチャンスをふいにするのかと詰め寄り、実の姉の嫁ぎ先を見捨てるのか、とアイシャはわしにくってかかったものだったが、結局のところそなたの言うとおり手を出さずにいて正解だった。和平交渉に持ち込ませた男、あれは何と申したか……」
 目指す言葉がなかなか出てこなくて、サンはちょっと眉をしかめた。シェハラザードは教えるべきか迷ったが、結局口をつぐんだままでいた。数秒考え込んだが、サンは目指す名前にゆきついたようだった。
「そうそう、思い出した。アルドゥインだ。あの男がたった一人であのいくさを終わらせたと言っても過言ではない。わずか五千の兵で敵国の首都に乗り込むような男を敵に回しても良いことなど何もないだろう」
 シェハラザードはかすかに笑った。彼女の瞳は、その事になみなみならぬ関心を抱いていることを示して、ごくわずかではあったけれども、かつてグリュンと国政を論じていた頃のような輝きを取り戻していた。
「我が軍の将軍らや、息子どもが彼よりも劣っているとは思いたくないが、あのような男が一人でもいれば面白いだろうな」
「この頃、その男の話ばかりなさいますのね」
「そなたの事も褒めておるだろう。世の中にはアイシャのように己の意見一つも持てぬ愚かな女も多いが、そなたは賢い。姿の美しさのみに価値がある女、知識ばかり男に負けじとする醜い女とも違う。美しく、賢い。そなたはわしの宝だ。シェハラザード、そなたが正妃であればよほど助かるものだが」
「そのようにお褒めくださいますな、大公閣下。ほんとうに、今宵は何かございましたのかと疑いますわ。そのようなお言葉がアイシャ様のお耳に入りましたら、このシェハラザードの身があぶのうございます。わたくしは正妃の座など望んでおりません。こうして閣下の愛を受けているだけで、充分」
 シェハラザードは、かつてはついぞ見せたことも、やろうともしなかった婉然たる微笑を浮かべた。
 エトルリア大公の愛妾。
 それが、今のシェハラザードだった。一時はたった一人残ったラトキア公女とラトキア大公の座を巡って、もともと仲の良くないラン、ファンの兄弟と公弟ハン・マオは一触即発の事態となりそうになっていたが、兄弟の父でありハン・マオの兄である大公サンが彼によって男性を知ったシェハラザードのまだ若い体と磨かれる前の美貌にすっかり夢中になったのであった。
 公子兄弟にとってははなはだ不愉快な事ではあったのだが、そのことによって国を分ける兄弟喧嘩などが起こらずに済んだわけであるから、サンの助平心にも多少の功徳があったというものである。
「これは殊勝なことを言ってくれたものだな。それが半分でも本心からの言葉であったらば、わしとしても少しは嬉しいことだが」
 からかうようにサンは言った。
「なあ、シェハラザード。わしはこの頃、心底そなたが愛しいのだよ。最初は息子どもと弟の争いのたね、ひいては国の分裂の原因になってしまうくらいならいっそ自分のものにしてしまえという気であったが、今ではそなたの傍にいる時が、唯一心から安らげる時なのだよ」
「まあ」
 シェハラザードは先程のサンと同じ、信用ならぬというような光を奥底に沈めた瞳で彼を見つめた。一瞬、二人の視線の間に言い知れぬ緊張が漂った。しかしそれはサンの自嘲するような笑いで破られた。
「そのように見つめずともよいわ。そなたはわしを恨み、憎んでおるのだろう。直接手を下したのは息子たちとはいえ、そなたの祖国を滅ぼすように命じたのは他ならぬこのわしなのだからな」
「いいえ。今はもう、そのようなことは」
 瞼の奥に本当の感情を隠してしまうかのように、シェハラザードは目を伏せた。彼女の声は常と変わらぬ平静を保ったままだった。
「父を亡くし、姉を亡くし、帰るべき祖国も無き今となっては、わたくしはサン様だけが頼りの身。それは、初めは憎みもいたしましたし、それともこのまま姉たちの後を追ってサリア湖にこの身を沈め――死んでしまおうかとも思っておりましたわ。けれどもわたくしとても命は惜しゅうございます。サン様を恨んで何になりましょう。恨みなど、とうの昔に捨てました」
「本当に、そう言ってくれるか」
 驚いた声音で、サンは言った。シェハラザードは頷いた。
「そうでなければ、わたくしは今ごろ姉たちの待つサーライナの御国に行っておりましたでしょう」
 厳重な監視下にありながら、仇敵の妻となることを厭うて自ら命を絶った二人の姉を持ち、また弟の身代わりとして戦うことを選んだ、気性の激しいシェハラザードである。確かに彼女の言うことはもっともであった。
 サンは冷徹な彼らしくもなく、わずかに緊張したような、喜びを抑えきれぬような声でささやいた。
「そなた、心からこのわしを愛しておると申すか」
「はい」
「親子ほどに歳が離れていてもか」
 念を押すようにサンはもう一度尋ね、シェハラザードは肯定の意味で深く頷いた。
「それがどれほどのことでございましょう?」
「そうか……そう申してくれるか」
 サンは満面の笑みを浮かべた。
「そなたは賢い女だ。そなたはまだ若いし、わしもこれでもまだまだ若いつもりだ。いずれそなたが子を産むことになれば――わし亡き後はあの息子どもなどよりもそなたの子にエトルリア大公を継がせた方がよいかも知れぬ。そなたはなかなかに優秀な摂政になるだろうからな。そうすればそなたも、ラトキアを復興できるばかりか、エトルリアまで手中におさめられるというもの」
「意地悪ばかり仰るのですね。わたくしの子に大公位を継がせるなどと仰ったら、閣下のお子たちが黙っておりませんわ。――恐ろしい」
 拗ねたように言い、シェハラザードはサンの腕を軽くつねった。その手を捕らえて引き寄せ、サンは面白そうに言った。
「いや、いや、そうなれば、の話だが、張り切って長生きをしようではないか」
「ここにお移しいただけるようにお願いしたときにも申しましたけれど、わたくし、ラン様が怖いのです」
 思い出すだけで寒けが走る、というように両肩を抱いて、シェハラザードは呟いた。それは演技などではなかった。
「ファン様やハン・マオ様はよいのです。けれどもラン様は……きっといつか、何か悪いことが起こりそうな、そんな気がするのです。わたくしが閣下の子を産みでもしたならば、たとえわたくしがここにいようとも……」
 サンはシェハラザードの細い肩をしっかりと抱いた。
「そう案ずるな。悪いようにはせぬ。そなたの心配はもっともだ。ハン・マオはともかく、ランもファンも我が子ながら信用ならぬからな。先程の話は本当だぞ。しかしまあそれは……おいおい、な」
「ええ、それはもちろん、まだ授かってもおらぬ子の話ですもの」
 シェハラザードはまたかすかな媚を含んだ目でサンを見つめた。父と息子であるからにはその顔に彼女が今この地上で最も嫌悪する男と共通する特徴を見つけ、彼女は密かな、しかし激しい嫌悪を感じていた。

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