前へ  次へ


                                *



 アルドゥインと《ロザリアの君》は、何となく和んだ雰囲気で淡い青紫色のカティンカの茂みを抜け、アルドゥインの強い勧めに押し切られるようにして青晶殿の中に入っていった。だが彼女はよほど人ごみが苦手なのか、黄金の間に入っても中央には出て行こうとしなかった。
 給仕の持つ盆からカディス酒の水割りのグラスを受け取り、二人で飲みながらアルドゥインのペルジア遠征の話などして、ダンスをするでもなく、林立する柱に寄りかかるようにして立っていた。《ロザリアの君》はアルドゥインの全ての話に対して興味深そうに耳を傾け、時々差し挟まれる質問や相槌は彼女の深い知性をうかがわせた。
 黄金の間の柱の間は小さなサロンのようになっていて、ディヴァンや小さなテーブルが置かれていた。アルドゥインと《ロザリアの君》の後ろに置かれたディヴァンに、二人の青年が大声で話をしながらどっかりと座った。
「どうやらリュアミル殿下はおでましになっていないようだな」
 一方が言った。
「来てなくたって別にかまいやしないがな。見ても面白くも何ともないからな。ルクリーシア殿下なら一目、遠くからでもお目にかかりたいと思うが」
「全くだ。目の毒とまでは言わないが、お世辞にも美女とは言いがたいな。まあ、もちろん、二目と見られぬような顔ではないのが幸いというところだが、ルクリーシア妃殿下と並べてみろ、まるで稀代の醜女にしか見えないぞ」
 相手が笑うのがアルドゥインにも聞こえた。
「皇女殿下にもとりえというものはあるさ。あの程度でも皇女といっていられるのだから他の女も安心できるというものだ。ルクリーシア妃殿下ではあまりに完璧すぎて気後れしてしまうからな」
 二人の貴族は言いたい放題に言っていた。もしもリュアミル皇女に何かの落ち度があったとしても、ひどい言いぐさだと感じたに違いない。これがメビウス宮廷の貴族たちの考え一般なのだろうかと、アルドゥインは憤然としながら思った。
(仮にも主君の娘だろう。なんて暴言だ)
 アルドゥインはそう思いながら、ふと隣の《ロザリアの君》に視線を移すと、彼女はきゅっと唇を噛み締めて、耐え難いものを耐えているといった感じだった。彼の視線に気付いて、《ロザリアの君》はすぐに表情を緩めてちょっと首を傾げた。
「どういたしました?」
「あの二人、何たる暴言かと」
 額に青筋を立てかねないようすでむっつりと言ったアルドゥインに、彼女は軽く首を振った。
「ですが、ああいう方は多いのです。もし仮に、そこに皇女自身がいたとしても、聞こえていようがいまいがおかまいなしです」
「……なんて国だよ」
 アルドゥインはこっそりと呟いて、ため息をついた。《ロザリアの君》とアルドゥインがそうして話している間にも、二人の貴族は時折笑いを交えながらリュアミルの話をしていた。苛々しながら、でもその場を動くこともできず、アルドゥインは嫌でも耳に入る会話を聞いていた。
「だいたい、女なんてのは顔が少々まずくたって、気立てが良く女らしければ可愛げもあろうというものさ。それがなまじ女帝になる気など起こして賢しげにふるまっているから、よけいに可愛くないんだ。どうせ結婚できやしないのだから、パリス皇子に帝位継承権を譲ってしまえばいいものを……」
「こんな所におられましたか、閣下。お探ししました」
 突然声をかけられて、アルドゥインはどきりとした。しかしすぐに、セリュンジェを庭園に残したまま、一言もことわらずにここに来てしまったことを思い出した。あまり遅いので探しに来たというところだろう。
 セリュンジェが近づいてくるのを見て、《ロザリアの君》はさっとアルドゥインのマントの影に隠れようとしたが、セリュンジェは彼女の姿をしっかりと見ていて、あんぐりと口を開けた。アルドゥインが怪訝そうに眉を寄せる中、彼はぴたりと足を止めて瞬きを何度もした。
「リュ……リュアミル殿下!」
「えっ」
 驚いて振り返ったのはアルドゥインだけではなかった。そのリュアミルをおもしろおかしい肴にして笑いものにしていた例の二人も、セリュンジェの大声にびっくりして、二人を振り返ったのである。
 実際彼らが口にしているほどリュアミルが醜いだとか、可愛くないなどということはなかった。容姿の美という点ではルクリーシアに譲らねばならなかっただろうが、それが彼女の欠点になるわけではないし、並以上の美人であった。
「……」
 アルドゥインは言うべき言葉も見つからずに、まじまじと《ロザリアの君》――リュアミルを見つめた。彼女は気まずそうに顔をうつむけ、そっと視線を床に落とした。アルドゥインはどうして《ロザリアの君》がリュアミルその人だったのだということに気がつかなかったのか悔やんだ。もちろん、間近に会ったのは一度きり、その後も遠目でしか見ていなかったのだから気付かなかったのも無理なかったが。
(……てことは俺は、なんて馬鹿な片思いを……)
 アルドゥインの密かな驚愕と落胆をさておいて、事態は進展していた。二人の青年のうち右に座っていたほうが、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「リュアミル殿下、いつのまにこちらに? 今夜はおいでにならぬとばかり存じておりましたが、それとも私が気付かなかっただけでしょうか?」
 お前らが後から来たんだろうが、とアルドゥインは言おうと思ったが、それよりも先にリュアミルが口を開いていた。
「わたくしはあなたがたがここにおいでになる前から、この場所におりました。チトフ伯爵、女帝がけしからぬと仰りたいのはよく判りました。女の身なる私にメビウスを任せられぬというのであれば、貴方がメビウス王となって私の代わりにメビウスを治められるがよろしい」
 リュアミルはほとんど表情を変えずに毅然と言った。二人は顔を見合わせた。そこで止めてしまうかのと思われたが、リュアミルのことを可愛げがないとか賢しげと言っていた右の男の方が、片頬に笑みを浮かべて言った。
「そのような畏れ多いことはとてもとても。パリス皇子がおられるではありませんか。領地には頬赤き娘たちも多いこと、殿下と結婚いたさなければならぬほど私は切羽詰ってもおりませんよ」
 皇女に対して言うには余りにも不敬なその台詞に、リュアミルの頬がさっと紅潮した。何か言い返すかと思われたが、彼女は反対にきゅっと下唇をかみしめた。これほどあからさまではないにしろ侮辱はいつものことで、言い返しても何も変わらぬということが、もう身にしみてしまっているのかもしれなかった。
「おお、これは失礼を申しました、我が殿下」
 チトフ伯爵は片割れが心配そうな表情になってしまっているのも気に留めずに、愉快そうに呵々と笑いながら、リュアミルを後に残して立ち去ろうとした。
「待て、貴様!」
「わっ馬鹿、アルドゥイン!」
 突然大声がかかっもので、怒りとそれ以上の恥辱に頬を染めていたリュアミルはもちろんのこと、すでに何度か歩き出していた二人も驚いて振り返った。リュアミルはずっと彼の隣にいたので大声に驚いただけだったが、二人の方はアルドゥインの存在などほとんど無視していたので、驚きは大きかったようだった。
 周りの人々も何事ならんといった様子で彼らの方を振り向き、踊りやめ、或いは話しやめて見守っている。どうやら喧嘩が起こりかけているらしい、というのは雰囲気で読み取れたらしく、なんとなく遠巻きにしていた。
「お前は――新しく紅玉将軍になったやつか。何と言ったか」
 チトフは明らかに機嫌を損ねたようで、つかつかと戻ってきた。あたふたとしているセリュンジェを尻目に、アルドゥインは毅然としていた。
「アルドゥインだ。覚えておけ」
「何だ、お前。口の利き方を知らぬ男だな」
「その言葉、そっくりそのまま返してやる。未来の主君たる皇太子殿下に向かって何たる口の利き様だ。聞くに堪えん暴言の数々、謝ったくらいではすまんだろうが、殿下にすぐに謝罪申し上げろ」
「私が伯爵だと判っていて言っているのか。紅玉将軍になったからとて威張るのはよすのだな、成り上がり者め」
「だからどうした。貴様が伯爵なら俺は公爵だ」
「何だと」
 アルドゥインはふん、と鼻で笑った。
「お前の爵位など、どうせ父祖から受け継いだだけのもの、お前の実力で得たものではあるまい。それでよくも威張れたものだな」
「うわあああ」
 セリュンジェが頭を両手で抱えた。
 アルドゥインは自分が侮辱されたみたいに憤っていた。セリュンジェは逃げ出しはしなかったが、どうなっても俺は知らないぞ、と口の中で呟いた。周りに集った貴族たちにもどうやら喧嘩が始まりかけているらしいこと、チトフ伯爵と、新紅玉将軍に就任した男がリュアミルの事で争っているらしいということが飲み込めてきた。だが、なぜその新将軍がリュアミルが侮辱されたことでそんなに憤っているのか、そればかりは彼らにも推測しかねることであった。
「礼儀を知らぬのか、貴様」
「はッ」
 ますます仏頂面になってくるチトフを尻目に、アルドゥインは端正な顔を惜しげもなく歪めた。
「そういう貴様は殿下に何を言ったと思っているんだ。貴族だろうが何だろうが、主君を侮辱していいとでも思っているのか。貴様なんぞに卿をつけるのも汚らわしい。さあ、さっさと謝れ!」
 成り上がり者と馬鹿にしている相手にここまで言われて、チトフもかちんときたらしい。どうやら一触即発の事態に陥りかけていると見て、リュアミルが口を挟んだ。
「もうおやめなさい、あなたも、チトフ卿も。喧嘩など……」
「女は黙っていろ! だから可愛げがないんだ!」
「何だと――」
 チトフは怒鳴り、アルドゥインは絶句した。とはいえ驚きのせいではなく、怒りのあまりのためだった。彼にしてみれば《ロザリアの君》であるリュアミルは思い人であると同時に、皇太子だと気付いた瞬間から一生忠誠を捧げるべき相手と化していたのであり、その彼女を侮辱したなどということは許しがたい大罪だった。
 彼はやにわに左手の手袋をむしりとると、チトフの顔に投げつけた。
「貴様、決闘だ!」
「わあっ! 止せ、アルドゥイン!」
「黙ってろセリュンジェ」
 アルドゥインは厳しい声で命じた。その勢いに押されて、彼は口を閉じてしまった。チトフの方も、顔を怒りで真っ赤に染めながら床に落ちた手袋を踏みつけた。彼の方は手袋をしていなかったので、投げつけることができなかったのだ。アルドゥインの方がずっと背が高かったので、チトフは顔を見上げて言わなければならなかった。それだけでも彼の自尊心をだいぶ傷つけていたのである。
「いいだろう。受けてやる。私の名誉にかけてな」
「それはこっちの台詞だ。貴様に名誉などというものがあるのならな。殿下の名誉にかけて、貴様をぶっ倒してやる」
 女性は相手が同性であれ異性であれ決闘を申し込むことができないので、女性のかわりにその女性の騎士が彼女の名誉のために決闘に出ることはままあることなのだが、当事者のリュアミルの意思はまったく無視されていた。
「陛下の許可を、明日得るからな!」
 チトフは言い置いてくるりと踵を返した。
「やめなさい!」
 彼女は追いかけて殴りかねない勢いのアルドゥインの前に腕を差し出した。リュアミルが自分を制止しようとしているということに気付いて、彼はまだ憤懣やる方なかったが怒りの矛先をおさめた。
「私がいつ、あなたに決闘をしろと言ったのです。今すぐに彼に謝罪して撤回しなさい。いいですね?」
「それはできません」
 アルドゥインは頑固に言い張った。
「貴方が皇女殿下であれば尚更です。あのような暴言、殿下がお見過ごしになるとしても俺は許すことはできません。たとえ殿下にお許しいただけずとも、俺は俺自身の名で彼に決闘を申し込みます。そして打ち負かして、二度とあのような失礼を言えぬようにしてやります」
「どうしてそのようなことを。私が耐えればすむことです」
「君主である殿下が耐えるということ自体が間違いではございませんか!」
 彼は大声を上げた。怒鳴るような声だったので、思わずリュアミルとセリュンジェは身をすくめた。そしてリュアミルは困ったように言った。
「だからといって、チトフ卿に決闘を申し込むなんて。あなたは父に剣を捧げたかもしれませんが、私の騎士でもなければ、代理でもないのですよ」
「俺は皇帝陛下に剣をお捧げいたしました。陛下に忠誠を誓うはむろんのこと、俺の剣は未来にいたるまでメビウス皇家のものであり、ひいてはリュアミル殿下にお捧げしたも同然のこととご理解ください」
「ですが、それとこれは違います」
 それを聞いて、アルドゥインはさっと跪いて剣を抜き、切っ先を自分に向けてリュアミルに柄を差し出した。
「では今から俺はあなたの騎士になります。――われ、アスキアのアルドゥインは、メビウス皇帝陛下に捧げたるこの剣を皇太子リュアミル殿下にも同じく捧げ、皇家に永遠の忠誠を誓う。いかなる艱難辛苦が君にあろうともわれは変わらず君を護らん。我が忠誠を疑う時あればいつなりともこの剣を押し、我が命を奪いたまえ、我が君。されど我が魂はとこなしえに君を護らん。いざ我が剣を受けたまえ」
 かなり勿体ぶった剣の誓いを厳かに述べて、アルドゥインはリュアミルを見上げた。本当に困った、というていで彼女は彼を見つめたが、アルドゥインが将軍である以上、しかも衆人環視の中だったので、受け取らないわけにはいかない。彼女は剣におざなりな口付けをして、くるりと回して返した。そしてか細い声で返句を言った。
「アスキアのアルドゥイン殿の剣、確かに承りました。でも、決闘は……」
「一度だけです。それで殿下を侮辱する者に、今度からどうなるかを思い知らせてやれます。どうかお許しください」
 彼の真剣な瞳が、リュアミルの瞳とぶつかった。彼女はそんなふうに誰かに言ってもらったことも、護ってもらったこともなかったに違いなかった。彼女はただ、困りきった表情で頷いて、一度きりだと誓うように言っただけだった。

前へ  次へ
inserted by FC2 system