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     この世には、愛することしか知らぬ人がいる。
     かの人は愛のために生き、愛のために死んだ。
     多くの人が愛のために生きることはできても
     死ぬことはできぬ中で、かの人は愛を捨てて
     生きることよりも愛に死ぬことを選んだのだ。
     まさしくかの人はディアナの子であった。
                      ――エウリュピデス
                           「オルフェ」




     第三楽章 夜会舞踏曲




 夜会はいまやたけなわであった。
 黄金の間には音の戦いとでもいうような大音響が満ちていた。とどまることを知らぬ笑い声、何かの叫び、調子外れの旋律、そして得体の知れない耳障りな音響の上に、時折、夜会の音楽がここちよいそよ風のように届く。
 広間は青晶殿の三階部分をなし、市内の貴族たちを集めるくらいの、規模としては中程度のものであったけれども、目のくらむような豪奢な光景をみせていた。すらりとした柱の列と、レースのように軽やかに見える細かな透かし彫りの細工をなされ、金泥を塗られたアーチの連なりが周りを飾っている。
 どの壁面も黄金の間の名にふさわしく絹と金が織りなす色彩に彩られていた。あまたの色彩によって愛や狩猟の場面を描いたタペストリが飾られ、さらには武具や楯でも彩られていた。
 床は金砂を含んだ石で張られ、天井画が映るのではないかというほどなめらかに磨き上げられている。外に面した壁は大きく窓を取り、橙の強い赤の、紗のカーテンがかけられて、昼間には薄赤い色調を広間に満たすのだろう。入ったとたんに金色に目を射られるかのような錯覚を覚える。
 そして、これら全ての上に、高々とした丸天井から吊り下げられた数知れぬ灯火や、壁面の切り石の上にずらりと並べつけられた金の枝付き燭台が驚くほどきらびやかな光のきらめきを放っていた。
 黄金に光り輝くこの広間にあちらにふわふわ、こちらにふわふわと、透き通るようなレースやきらめく宝石を身につけた貴婦人たちの姿が見受けられ、その周りには鎧の代わりに金襴をまとい、剣の代わりに羽飾りや儀礼用の細く短い短剣を吊るした貴公子たちが集い、或いはそれぞれ仲間内で狩猟やそのほかの楽しみの話におおいに沸いていた。
 青晶殿の周りには広々としたディアナ庭園があり、遅まきの北国の春を彩るマリニア、セラミス、エウリア、ルテアなどの花々が今を盛りと咲き誇っていた。庭園の至る所で今夜は巨大なかがり火が焚かれ、あずまやや茂みのかげのベンチには、喧騒を逃れてきたカップルだとか、もっと秘密めいた間柄らしい二人づれなどが所々に見受けられ、伶人がそのそばで恋愛詩や気の利いた曲を演奏していた。
 かれらの音楽をのぞけば、夜会の音の海も、ここまでくれば遠いさざ波のようにしか聞こえなかった。
「抜けてきても大丈夫かな」
 アルドゥインはセリュンジェだけを供に、庭園まで出てきて外の涼しい空気を思い切り胸一杯に吸い込んだ。タギナエ候預かりになっていた紅玉騎士団四番隊と五番隊の面々はアルドゥインがオルテアに呼び戻される二日ほど前にお咎めなしということで戻ってきており、彼らの新しい将軍にアルドゥインが任じられたことを知るやそれはもうたいへんな熱狂ぶりであった。
 ペルジア遠征での顛末を聞き知るだけの一番隊から三番隊までの兵士たちはそれほど騒がず、順当に行けば将軍に昇進するであろうアシュレーが副将軍のままとどまって、突然現れたアスキア出身の傭兵上がりのアルドゥインが彼らの将軍になることに首を傾げもしていたのだが、とりあえず彼の武勇のほど、手腕などはすでに明らかなとおりであったから、さしたる混乱も招かず、ごく穏やかに物事は受け入れられたのであった。
「もう挨拶は終わったんだし、かまわないだろう」
 ヒダーバードでの奇妙な願いどおりに、セリュンジェは今までどおりディウス隊の小隊長であったが、アルドゥインの一番の仲良しであることもあって、今夜のパーティーにも付き添っていた。
 桃色に、赤紫を一吹きのせたような花がひしめくほどについたルテアのそばのベンチに並んで腰掛けて、アルドゥインとセリュンジェはそれぞれさっきまでの夜会の様子を思い返していた。
 イェラインについてはすでに書き記すまでもないが、皇后ユナはなかなかにアルドゥインの関心を引く女性だった。彼女はべつだん、醜いわけでもなかったがそう大して美しいというわけでもない女性だった。がっしりと大柄で、いかにも北国の女性らしい体格をしており、目はきつくて鼻が高かった。黒髪を手の込んだ形に結い上げ、ダイヤモンドをちりばめた皇后冠の上からレースを長々と引き、華美な宝石を散りばめたいくぶん派手すぎる紅のドレスを身にまとい、これも豪華な毛皮のマントを金細工のブローチで肩に留めていた。
 何よりも目を引いたのは、その顔の険しさ、瞳の鋭い光であった。ユナ皇后はどちらかと言えば男顔で、それも何か正当に評価されぬ怒りやもどかしさに満ちた男の顔であった。その目は何か暗い火をひそかに燃やしていた。
 アルドゥインが一礼しても彼女はそんなものには興味はないといった感じで面倒そうに頷いただけであった。次に並んでいたのは皇子パリスと妃ルクリーシアであった。二人が結婚してもう二年になるが、いまだ彼女に懐妊の兆しはないようだった。
 中原一の美女の誉れも名高いルクリーシアの姿を、アルドゥインはそれなりの興味を以て見たわけであったが、想像を越えて有り余るほどに彼女は美しかった。つややかに美しい黒髪には白百合が編みこまれ、華奢なティアラがのせられていた。真珠のような肌に珊瑚の唇、そして夢見るような黒曜石の瞳。彼女は肩のところがふくらんでいて、黄土色のリボンがアクセントに結ばれている、緋色に輝くしゅすのドレスを着ていた。その胸と袖口にはふんだんに金糸でかがったスリットが入っていて、下に着た絹の白いドレスが見えるようになっていた。
 ともあれ彼女はまさに奇跡の女であった。その隣に立っているパリス皇子は重厚そうな黒と金の上衣に、ふんだんに襞をとったダブレットを着ており、足にぴったりとしたズボンと長い靴下、きらめく革の編み上げ靴という、一国の皇子にふさわしい麗々しいいでたちであった。
 パリスはにこやかな青年で、母の冷酷よりも父の温和を受け継いでいた。アルドゥインが挨拶をすると実に喜ばしげな笑みを浮かべて、これからメビウスのために尽くしてくれるよううんぬんと言葉をかけた。しかしパリスはルクリーシアの圧倒的な美しさと並ぶと、てんで見劣りがしてしまっていた。むろん彼は男であったのでそこまでの比較をされずに済んだわけであったが。
 そしてほとんど年の変わらないためにつねに比較の対象となるリュアミル皇女の姿はその場になかった。イェラインが娘の不在を近習に尋ねたのだが、彼らが答えるよりも先にユナが口を開いていた。アルドゥインはその時初めてユナの声を聞いたのだが、あまり感じのいい声ではなかった。
「リュアミルは頭痛がするとかで床を離れられないそうですわ」
「だがさっきはそのようには見えなかったが」
 イェラインが言うと、彼女はあまり娘の話題に触れたがらぬ様子をありありと見せて、言った。
「おおかた面倒がっているのでしょう。ほんとうに、皇太子の自覚があるのか……」
「母上」
 パリスが控えめな制止の声を出さなかったら、ユナはまだ愚痴を続けていたかもしれなかった。ユナはむっつりと黙り込み、もう何も言わなかった。代わりにパリスが弁解するように言った。
「姉上はひどい頭痛で、ときどき寝込んでしまわれるのだ。気を悪くしないでくれ、アルドゥイン殿」
 アルドゥインはそれには、別に今夜だけが機会ではないので気にはしていないと答えたのだが、実のところはけっこう気になっていた。それはユナの態度のせいであった。そこで、周りに人がいないことを確かめて尋ねた。
「なあセリュ、皇后陛下はリュアミル殿下をあまり好いていないようだな」
「知らないのか? リュアミル殿下は側室の皇女で、その側室があんまり陛下に愛されていたもんだから、とばっちりでリュアミル殿下まで皇后陛下に疎んじられているってのは、メビウスじゃ有名な話だぜ」
「そうなのか」
 セリュンジェは大きく頷いた。
「リュアミル殿下の母上は没落貴族の姫だったから格が違いすぎるってんで正妃になれなかったが、ユナ様よりも先に陛下の妃に召されて、リュアミル殿下を産んだんだ。ユナ様からしてみれば結婚前から夫には別に愛する女性がいて、しかも子供までいるっていう状態だ。憎まないほうが珍しいもんだぜ。その姫はずいぶん早死にだったんだが、これはあくまで噂だが――死因は自殺じゃなくて、ユナ様が何かしたんじゃないかって」
「へえ……」
 皇后の冷徹なおもてを思い出しながら、アルドゥインはおざなりな相槌を打った。彼は顔かたちであまり人間を見ないようにはしているが、たしかに恨まれたら怖いような顔であった。
 何気なくアルドゥインが庭園に目をやると、思いもかけなかった人の姿が目に飛び込んできた。
「あ」
 アルドゥインは組んでいた足を戻し、急に立ち上がった。セリュンジェがぎょっとしたように尋ねる。
「どうした、アルドゥイン」
「ちょっと野暮用だ。ついてこないでくれ」
「……」
 セリュンジェのあからさまに怪しむ視線を背中に受けながら、アルドゥインは花壇と花壇の間を足早に突っ切っていった。アルドゥインが目指す相手は、声をかける前に彼が近づいてきたことに気付いて振り向いた。
「あら……」
「こんな所でお会いできるとは、奇遇ですね」
 とってつけたような台詞を、アルドゥインは言った。相手は突然のアルドゥインの登場にもそれほど驚いたようではなく、にっこりと、彼の心を奪ったあのどこか寂しげな笑みを浮かべた。
「ええ、ほんとうに」
 《ロザリアの君》は、ちらりとアルドゥインの装いに目をやった。きちんと髪を整え――といって彼の場合伸ばしっぱなしだった髪を切ったくらいだったが――第一級の紅玉将軍の礼装に身を包んだアルドゥインは昨日よりもさらに物語めいた凛々しい姿であった。彼女はその衣装で、すぐに彼の名前にいきあたったようだった。
「アスキアのアルドゥイン卿ですわね。あの時はお名前をうかがいませんでしたけれど、今は判ります。まるで、ずいぶん昔のことのように思えますわね。今日の主役がこのような所で何を?」
「夜風に当たりたいと思いまして。差し出がましいとは存じますが、広間には戻られないのですか? お一人ではお寂しいでしょう」
「少し事情がございまして、始まるときには間に合わなかったので。今更出てゆくのもお叱りを受けるだけ、いっそ出てゆかぬほうがよいと申しましたけれど、侍女が顔を出さぬのもまた責めを受けるし、皇帝陛下に失礼と申しますので、庭園だけで、と」
 《ロザリアの君》は困ったような微笑のままだった。淡い菫色の絹のドレスは、襟ぐりが背中の中ほどから胸元まで大きく開いているものであったが、彼女の雰囲気が楚々としているせいか、全くいやらしさはなかった。襟や袖のふちは白の布に切り替えられて、愛らしい襞飾りが寄せられている。
 結い上げた髪にはヴェールの被り物を付け、二重の真珠の紐と大きな紫の宝石入りの留め具で固定し、両側に白い羽毛の飾りが垂らしてある。ほっそりした手首にも淡い菫色のタフタを巻きつけ、その上に星型の銀のブレスレットを嵌めていた。
「差し支えなければ貴女のお名前をお聞かせ願えませんか」
 その姿に見とれながら、アルドゥインは言った。彼女がためらうような様子を見せたので、アルドゥインはちょっと怪訝な顔をした。が、身分の高い女性の恥じらいと考えて、それ以上はもう尋ねなかった。
「今すぐにとは申しません。お名前をお教えねがえるまでは、貴女をロザリアの姫とお呼びしてもよろしいですか?」
 その言葉に、彼女はびっくりしたようだった。
「なぜ、ロザリアと?」
「あ……いや……あなたと最初にお会いしたとき、ロザリアの髪飾りをつけて、ロザリア色のドレスを着ておいでだった」
 狼狽しつつ、アルドゥインは答えた。それに、これは今さっき気付いたことであったが、彼女の茶色の瞳は虹彩の周りだけが青くて、それがまるでロザリアの花のように見えなくもなかった。《ロザリア》は同意を示して頷いた。
「判りました。どうぞそのようにお呼びください、アルドゥイン卿」
 アルドゥインはセリュンジェを向こうのベンチにほったらかしたままであることもほとんど忘れて、すっかり舞い上がってしまった。他の点ではどんなに冷静で、あまり感動しないたちであっても、アルドゥインは恋愛ごとに関しては全くうぶで奥手な少年のままであった。
「折角ですから、ご一緒させていただいてもよろしいでしょうか。広間にゆかれるのがお嫌なら、お話でも。何かお飲み物でも持ってまいりましょう。とはいえ話すことと言ってもペルジアの話くらいしかないのですが……」
 しかしながらそのわりに、彼はなかなか積極的に誘いをかけていたのであった。

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