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                                *



 リールが近習たちの手によって連れ出されていった後も、人々のざわめきはなかなか収まらなかった。
 ごく最前列の人々であれば、何かの異常に気付くこともあったのだろうが、その他の人々には戦士たちの表情まで見えようはずもなく、声も聞こえなかった。それで、彼らはあからさまな敗北にリールがヒステリーを起こしたのだろう、ていどにしか考えなかった。もともとリールに対してそれほど好意を持っているわけでもない。人々は一向に気を留めず、ただひたすら今日のメインイベントを待ち続けていた。
「アルドゥイン
――アルドゥイン!」
 紅玉騎士団の面々は意気上がって彼らの英雄の名を唱和しつづけている。だが周りの連中も、もうさっきのようにそれを制止しようとはしなかった。アルドゥインの技量が武将として、指揮官のみならず戦士としても彼らの期待を決して裏切らない
――むしろ大きく上回るほどであるということを見て取って、すっかり夢中になっていたのである。
「アルドゥイン!」
 中にはメビウス兵たちと一緒になって唱和する者たちさえ現れはじめ、それは次第に増えつつあった。
 もっとも、
「トティラ、トティラ!」
 という声も、競技場の、ことに昔からのトティラの武名をよく知っている、宮廷人たちの多い側から押し寄せていた。
 日はすでに中天に高い。誰もいない競技場はしんとしていた。下働きの男たちがあらわれ、リールの剣の折れはしを拾い、砂地をきれいに均し、もとのとおりまっ平らにしてから引っ込んでいった。
 人々は固唾を呑んで、戦士の登場を待っている。
 その、南北二つの門に近いほうから、わああっと大歓声があがり、それは波が及ぶように観客席全体に広がっていった。
「アルドゥイン
――アルドゥイン!」
「トティラ! トティラ!」
 双方を応援する声も、絶叫に近いものになりつつある。
 その中で、ゆっくりと二人の狂戦士は、北と南の門から現れ、競技場の砂地へと進んでいったのだった。
 人々がどよめく。アルドゥインはもとより、さっきとまったく変わらない。かぶとだけは暑いのが嫌だったのかかぶらず、代わりに額を守るための銅のバンドを嵌めている。息も乱さず、疲れも見せぬまま、静かに砂地の中央へと出て行く。まるでそこらの庭園を横切ってでもいるかのような、平静で落ち着いた、穏やかな印象があった。
 対するトティラはきわめて対照的だった。
 目の前で、女ながら愛弟子の
――しかも愛人でもあるリールがああもやすやすと敗北を喫するのを見たばかりである。トティラの顔はすでに自分でも抑えきれぬもので真っ赤に染まり、今にも湯気を噴かんばかりであった。アルドゥインが目に入るなり、すさまじい雄叫びをあげた。
「アルドゥイン!」
 アルドゥインは静かに、しかし一歩も退かずにその目を受け止める。剣改めの手続きをトティラはようやく耐えているかのように待った。
「来い、アルドゥイン!」
 トティラは唸った。
「来い!」
 いよいよ、人々の叫びは耳を聾さんばかりに競技場を包んでいる。そして今や頂点に達するかと見えたとき
――ふっ、と止んだ。
 あとにはただ、恐ろしいまでの静寂。
 太陽はじりじりと砂地を照らし、人々を焦がす。
 むろん今はまだ初春、陽射しがそんなに強いはずもない。そう感じられたのは、人々の握りしめた手の汗、額に流れる汗、高鳴る動悸のせいだろう。
 人々は待った。その中で両勇士は互いの剣を合わせ
――
「始め!」
 騎士の絶叫が、死闘の開始を告げた刹那
――
 さきの対決の時にはたちまち恐ろしい勢いで激突した両者だったが、今度はどちらもたやすくは動かなかった。
 ぱっと飛びすさって離れ、アルドゥインは剣を下に構え、トティラは大上段の構えのまま、どちらも動こうとしない。
 互いの目は互いを見、じっと機をうかがう。
 まるで、相手の技量を知り、先にしかけたほうがやられるのではという懸念に駆られてでもいるかのように二人は動かない。
 そのうちに
――どちらが先であったか、二人は円を描くように動きはじめた。じりっ、と、トティラが右に足を動かすと、アルドゥインも右に動く。ほとんど目に付かぬほどの動きで、向かい合ったまま回る。
 互いをひたと見据えたまま、じりじりと移動する。
 競技場を埋めた何万という観客たちは、しわぶきの音一つさせず息苦しい沈黙に耐えながらそれを見守っている。
 その中でペルジアの猛牛とアスキアの獅子は、じわじわと円を描き続ける。
 彼らの足元の砂が少しずつ掘られ、ブーツの足先が探りながら、その砂の山を崩していく。
 一瞬でもどちらかが隙を見せれば、たちまち相手がおどりかかる――火花を散らす戦いに飛び込んでゆく。
 人々も目を離せぬまま、じっと見守る。それは五分であったか、それ以上であったか。実際よりもずっと長い時間に感じられた。そのままいつまでもそうやっているのだろうかとさえ思わせる惑いが、人々の心に生まれる。
「ト
――ティ――ラ!」
「アルドゥイン!」
 いったんは途絶えていた叫びが、今度は何かしらもどかしげな響きを帯びて沸き起こった。
「アルドゥイン――アルドゥイン」
「トティラ!」
「戦え!」
「戦え――」
 再び、叫びが高まっていこうとしていた。
 トティラの、これ以上は考えられぬほど朱に染まった顔が――彼もかぶとを被っていなかった――さらに引き歪んだ。彼は観衆のその叫びを、二人の戦士の闘志不足をなじり、戦意を促すものと受け取ったらしかった。
「アルドゥイン!」
 やにわに喚くなり、トティラは大剣を振りかぶり、両者の間の十バールばかりの間を自ら一気に詰めた。
 人々の絶叫が怒号に高まる。
 その中でもう一度、トティラは相手の名を叫んだ。
「アルドゥイン!」
 トティラの剣先が、アルドゥインに襲い掛かった。すかさずアルドゥインも反応した。だらりとただ下げていただけかと見えていた大剣を目にも留まらぬ速さで跳ね上げ、上から振り下ろされるトティラの剣をがっきと受け止める。
 たちまち一合、二合と打ち合う。
 トティラは俊敏にすかさず剣を弾いては何度となく襲いかかる。対するアルドゥインは防戦一方、受け太刀一方に思われたが、一歩も後ろへは退かず、却って剣を打ち合うたびにじりじりとトティラの位置が後退していく。
 傍目にはしかし、両雄の力は伯仲して、勝り劣りないように見える。
 三合、四合、五合――
 人々は今や総立ちとなっている。
 わあっ――わあっ――という文字通りの鯨波が二人の上に押し寄せ、それすらも耳に入らぬように二人は激しくぶつかり合い、飛び離れ、打ち合う。
 が、ようやく、トティラの方に焦りに似たものが生まれかけていた。
 同じだけ打ち合い、飛びのき、またぶつかり合っていても、剣を振りかぶって襲いかかるトティラと、それを冷静に受け止めてすかさず反撃する、最小限の動きしか見せていないアルドゥインとでは、体力の消耗の仕方がやはり違うのか。
 それとも、トティラとアルドゥインの間に、肉体の若さ、持久力の拭いがたい差があるものか。
 同じ数を打ち合い、戦っていながら、しだいに両者の力量の差というよりは、疲労の度合いの違いが人々の目にも明らかになりつつある。
 トティラは飛びのくたびに、大きく肩を上下させ、呼吸を整え、荒い息をつきはじめていた。対してアルドゥインの方もむろん大きく呼吸をしてはいたけれども、まだ喘ぐには程遠かった。
「トティラ!」
「トティラ!」
 ペルジアの誇る無敗の将軍に、金を賭けた人々からだろう。やや気掛かりで心配そうな響きを帯びた、激励とも叱咤ともつかぬ叫びが上がる。
「アルドゥイン!」
「アル!」
 一方メビウス騎士たち、及びアルドゥインに金を賭けている連中の叫びは、もっと威勢がよかった。ますます意気上がって、「トティラ!」の叫びをしだいに圧倒しようとしている。
「トティラ――トティラ!」
「アル――アルドゥイン!」
 その潮のような鯨波の中で――
 トティラは右手を上げ、ぐいと額の汗をぬぐった。その唇が獰猛にめくれ上がり、歯茎まで見せて彼は唸った。
「アルドゥイン――!」
 これ以上長引くのはおのれに不利――アルドゥインの方が若いこともあって、体力はどうやら自分に分なし――と見て取ったものか、彼は一気にかたをつけようと、すさまじい気迫をほとばしらせた。
「ウオオーッ!」
 物凄い一声もろとも、体の中央に剣を構え、体ごと猛牛さながらアルドゥイン目掛けて突っ込んでくる。
 わあっと人々が金切り声まがいの絶叫を上げた。
 アルドゥインはあえてぎりぎりの瀬戸際まで、動きもせずその突進を睨み付けたまま受け止めた。
 その体を剣が貫くと見えた刹那、彼はすばらしいばねの効いた一飛びで入れ代わり、右に飛んだ。トティラは勢いづいたまま止まることもならず、たたらを踏んで砂地に剣を突き刺して突っ込み、倒れた。
 剣の先がほとんど半ばまで地に突き刺さり、その上から巨躯が横転した。トティラは電光石火、体勢を立て直して跳ね起きたが、剣の方はその突進のすさまじさを物語るように深々と地に突き立ったままだった。
 あえていったん剣から手を放して立ち上がったトティラは、アルドゥインがこの機に乗じて攻撃してくることを九分九厘まで確信して、それを迎え撃とうと振り向いた。が、アルドゥインが飛びのき、体を低く保ったまま、彼が剣を拾うのを待っているのを見ると、ぺっと砂に唾を吐き捨て、荒々しく剣を引き抜こうとした。
 大剣は、トティラの重い体重全てと突進の時の勢いを受けて砂地に突き刺さり、深々と大地に入っていた。トティラは髯面を真っ赤にして、何回かその太い腕にありったけの力を込めて引き抜こうと試みたが、抜くことができなかった。
 これまでか――と人々が固唾を呑んだとき。
 トティラはまた砂に唾を吐いて、口に入った砂を吐き捨て、大手を広げた。

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