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     みそかごとは世にあらず、四知あり。
     君の知る、我の知る、天知る、地知る。
     すなわちヤナスは全てを知れり。
               ――中原の格言




     第三楽章 ペルジア御前試合




 そしてはや、御前試合の夜が明けたのである。
 ラッパがりょうりょうと鳴り響くずっと以前から、人々は昨夜さんざん夜更かししただろうに、らんらんと目を輝かせて、会場となる閲兵場に集まってきはじめていた。賭と興奮とで一夜を眠らずに過ごしたものも多かったのである。
 入口ではどうやら何とか間に合った警備兵たちが人々に色付きの札を配り、彼らはその色の小布がくっつけてあるロープでの仕切りの中で自分たちの席を確保し、さっそく持ってきたアーフェル水を飲んだり、乾果をかじったり、弁当をつまんだりしながら、声高に話を続けていた。
 やがてもう少し日が昇ってくると、もっと身分の高い観客がやってきた。ある程度以上の観客に対しては貴賓席が設けられていたが、これは全ての公式行事で同様にされる事であったので、名だたる紳士淑女たちは席次を争って押し合いへしあいすることもなく、まことにお行儀よく決められた席に着いた。
 最後にやってきたのは軍人たち、それからもっとも高位の人々と外交官、そしてロイヤル・ファミリーの登場は、ほとんど開始の五分前のことであった。その頃にはもう会場は立錐の余地もないほど込み合い、声と期待ははちきれんばかりに膨れ上がっていた。
 華やかなファンファーレの先触れに大公一家が姿を現すと、人々は一斉に立ち上がってペルジア万歳を唱えた。その中を、悠長迫らざる威厳を見せて、準正装に身を包んだアダブル大公と、ぱっとしないファレン大公妃、そして大変に目立つ二人の公女がご出座になった。
 セリージャはきちんと公女らしいドレスを身に着けており、醜いのを別とすれば、遠くから見ればそのドレスが古ぼけているのや、アクセサリーがガラス球だということも分かりはしなかったので一応は見られたものであった。メーミアに関しては、周りも本人もそんなことは気にしていないという様子であった。
 彼女は相変わらずキャンデーやボンボンをつまんでおり、なぜ自分がこんな所に引きずり出されているのか、何が起こるのかまったく興味がないようだった。おそらく、会場を埋め尽くす何万もの人々の中で、この場のなりゆきに全く関心を示していないのは彼女一人であったに違いない。
 ロイヤル・ファミリーがまだ立っているところへ、もう一度ファンファーレが吹き鳴らされ、ゼーア皇帝ウジャス陛下のご出座を告げた。人々はいくぶん気の抜けたゼーア万歳を叫んだが、紫衣に身を包んだウジャス帝は一世一代の晴れがましさに顔を輝かせて、最高権力者の席に着いたのだった。
 来賓は全て揃った。あとに残るのは試合を戦う主役たちの登場だけであった。しんと息詰まるように静まり返った閲兵場に、三たびファンファーレが鳴り響いた。うわあっと、碧玉宮が揺らぐほどの鯨波が空をどよもした。閲兵場の二方の登場門の一方からはトティラとリール、反対側の門からはアルドゥインが現れたのである。
 アルドゥインはむろんのこと、いつものようにメビウスの紋章をむしりとった紅玉騎士団の鎧に長々と白いマントをひいていた。トティラ将軍は礼装ではなく戦闘用の鎧を身につけ、将軍のマントをひき、兜を胸に抱えていた。リール公女も同じようにがっしりとした黒光りする鎧に身を固め、今まででいちばん見栄えもすれば、なかなかの女丈夫ぶりを見せていた。
「トティラ! トティラ!」
「リール殿下、ばんざい!」
「アルドゥイン!」
「トティラ将軍!」
 場内ははやくも破れんばかりの歓声を熱狂のるつぼと化した。人々は口々に戦士たちの名を呼びたて、制止も聞かず総立ちになってしまった。警備兵たちがやっきになって声を嗄らすが、ほとんど効果はなかった。だが三人の戦士がロイヤルボックスの前に並び、三者三様に戦士の礼をすると、ようやく人々は静かになった。
 ついで三人が四方の客たちに礼をすると、人々はまたどっと歓声をあげた。こうして並んでみると、三人の中では上背がアルドゥインが細いせいで一番高く見えたが、横幅はトティラのほうが明らかにあり、リールもひけをとらない体格を持っていたので、さながら閲兵場の砂の上に三巨人が並ぶ、伝説めいた雰囲気がかもしだされた。
 三人の礼に答えてウジャス皇帝が立ち上がり、手を差し延べて祝福を与えた。次にアダブル大公からの祝福。しだいに人々は静まり返った。今度は叫び声を上げたものが周りからシッと制止されるありさまであった。
「第一試合」
 触れ係にとっても、一世一代の晴れ舞台であったことだろう。ありったけの大きさで、朗々たる美声が響き渡る。
「戦士、アスキアのアルドゥイン対リール公女殿下!」
 うわああっ――人々は再び爆発し、椅子のへりや背を叩いて二人の名前を絶叫した。実のところ、これも有力な賭の対象となってたもので、アルドゥインがトティラと先に戦うえば、女性――といってもよければ――リール公女のハンディとなるだろう、と言う者もあれば、リール公女を先に片付けて気勢の上がった方がアルドゥインには良いだろうと言う者と、様々だったのである。
 その中でリールはすでに真っ赤になった顔で、両手を天に突き上げて歓呼に応え、アルドゥインは静かに立っていた。改めて案内係が二つの門から出てきて、三人を元の門からいったん下がらせた。これから試合の支度が行われるまで、しばらく待たねばならないのだ。人々はちょっと息をついて、アーフェル水が配られ、キャンディーの袋が手から手へと回された。
 しかしこの休止は数テルジンしか続かなかった。ふたたび二つの門が開くなり、さっきまでの歓声では生ぬるかったと思わせるばかりのすさまじい歓声が爆発した。
「アルドゥイン!」
「リール様! リール殿下!」
 二人はマントを外し、かぶとを被り、面頬を下ろして現れた。リールは男よりも大股に歩き、ふたたび辺りはしんと静まり返っていたので、ざく、ざく、と砂を踏む音までが聞き取れるほどだった。
「無制限、三本勝負」
 触れ係の美声が告げた。審判の代わりに一人の騎士が出てきて、二人をあらかじめ線を引いた競技場の中央で向かい合わせた。重々しくヤナスとナカーリアの印を切り、それから二人の剣を受け取って、毒やしかけなどが用いられていないかを調べ、それを返すと、構えを取るように合図した。二人は剣を触れ合わせてじっと待っている。
「始め!」
 叫びざま、騎士は自らの剣で二人の剣を左右に跳ね上げ、同時にものすご勢いでとびすさって門の中に飛び込んだ。次の瞬間、二人の剣が発止と打ち合わされていた。火花が散るのが、観客席からも見えた。二人は飛び離れ、おどりかかった。
 が、正直なところ、勝負はあっけないものだった。
 というよりは、人々が思っていたよりももっと、二人の力の差は大きかったのである。リールの大剣は二合と持たずに撥ね飛ばされ、ざくりと砂に突き刺さり、アルドゥインの剣がぴたりとリールの喉元に突きつけられた。
「一本!」
 騎士がアルドゥインを示す白い旗をさっと一本揚げた。
「お……のれ……!」
 リールの目がくわっと火を噴くかと思われた。憤怒に狂わんばかりになって剣に駆け寄り、引き抜くなりアルドゥイン目掛けて猛牛さながらに突進していった。アルドゥインは軽いステップで避ける。振り返りざま切りかかるリールの剣が二度三度と空気をむなしく切り裂く。
「卑怯!」
 リールは絶叫し、大上段から振りかぶった。今度はアルドゥインは逃げず、両手で上に一文字に構えた剣で受け止めた。再び火花が散る。
「ウオオオッ!」
 リールは吠えた。下から突き上げるのを払いのけられて、たたらを踏む。アルドゥインは息も乱していない。その闇のような目は暗く、おもても平静と変わらぬ。だが、もしこの競技場に、この朝アルドゥインのもとに誰が訪れ、何を言ったかを知っている者がいたら、試合はなかなかに含蓄の深いものであったに違いない。
「アルドゥイン殿――まだおやすみか?」
 朝の光がようやくカーテン越しに透けてこようかというころ、アルドゥインの寝所にするりと忍び込んできたのは、今火花を散らして戦っているリールその人であったのだが、その格好は随分と異なっていた。
 リールは薄桃色の、羽のように透ける寝巻きを身にまとい、筋肉のみっしりとついた固太りの肩や脚もあらわな姿でアルドゥインのもとにすべりこんで来たのである。
「こ……こ……これは、リール殿下」
 アルドゥインは起きていて、ベッドに腰掛けていたのだが、さしもの彼もうっと言いたげな様子になった。
「いよいよ今昼、そなたと剣を交えるな」
 うっとりとした目つきでささやき、にじり寄りながらさらに囁いたのだった。
「のう、アルドゥイン。もはや隠すまでもない。わらわはこなたをまたとなき男の中の男と惚れ込んだ。のう、世のものどもが、我らの試合をたねに口さがのう賭をいたしよる。我らも一つ、賭をしようではないか」
「して……それは、どのような」
 アルドゥインはしどろもどろになった。セリュンジェあたりが入ってきてはくれないかと密かに扉に助けの目を向けたのだが、不幸なことに誰も来なかった。そしてリールは言い放ったのである。
「こなたがもしも敗れ、わらわがこなたを打ち負かしたなら、アルドゥイン、ペルジアにとどまってこのリールの婿となりゃ。さすれば行く末はペルジア大公、またなき婿がねと父も母も、いかほどに喜ぼうぞ。またもし、わらわが敗れることがあれば――」
「は……はあ……」
「わらわを、アルドゥイン、その方の思いどおりにしてかまわぬぞ。――おお恥ずかしい、おなごの身にあられもなく、ここまで言わせるわらわの執心、聞いたからには否とは言わせぬぞ」
「うぇ……」
 アルドゥインが目を白黒させている間に、リールは擦り寄ってきて、そのかちかちの胸を彼の腕にすりよせ、大きな口をアルドゥインの頬に押し付け、猪の痙攣さながらに、当人にとっては悩ましい身悶えのつもりらしく身震いした。
「おお、恥ずかし」
 目一杯の媚声でうなってから、リールは秘密の抜け穴らしき所から、たちまちするりと姿を消したのである。アルドゥインはしばらく、自分は疲れていてとんでもない悪夢を見たのではないかと疑って、ベッドにへたり込んでいたのであった。
 ――というようなわけで、この試合については、試合よりももっと恐るべき影の一幕というべきものがあったのである。
 しかし、勝てば婿にする、負ければ好きにしてくれというのは、あまりといえばあまりな賭であったが、アルドゥインはその縁起でもない記憶をふりはらうかのようにぱっと飛びすさり、剣を構えなおした。
「アルドゥイン! アルドゥイン!」
 いっせいに声が掛かる。
「リール殿下!」
 ここぞとリールが飛び込むのを受け止め、やにわに攻めに出る。リールがアルドゥインがしたように剣を水平に構えた時である。アルドゥインの大剣が振り下ろされた。すさまじい金属音もろともに、リールの剣が真っ二つに叩き折られ、撥ね飛んでいた。
「二本!」
 すかさず旗が揚がる。アルドゥインの勝ちであった。わあっと観衆はわめきたてたが、実際のところ本人がどのように自惚れていたにしろ、リールの華々しい勝利の歴史の中には、かなり後ろ暗い方法や、暗殺を恐れてのおべっか使いで得たものが含まれていることはきちんと承知していたわけで、つまりは本当にアルドゥインがリールに後れを取るだろうと思っている者はほとんどなかったので、これは意外でも何でもなかった。
 人々はどっと拍手をしたが、それはもっぱらアルドゥインの、鋼鉄の剣を叩き折った強力や、剣技への賞賛であった。だがリールの方は青ざめて、兜を砂地に叩きつけるなり、アルドゥインをすさまじい目で睨み付けた。何か激しい罵声を叩きつけようとして、ふいに、この敗北の利点――少なくとも彼女にとっては――に心至ったようであった。
 突然その顔からすさまじい怒りの色がぬぐい去られ、リールはぎこちなく淑女の礼を取った。
「わらわの負けじゃ、アルドゥイン。やはりこなたはわらわの見たとおり、まことの狂戦士、ナカーリアの申し子じゃ」
 取り繕って、競技場の下の方に座っている者には充分聞こえるような声で言ったかと思うと、つと傍に寄って声をひそめた。
「嬉しや、アルドゥイン殿。これでわらわはこなたのもの――そなたは、わらわを好きにしてよいのじゃぞえ」
「これはいたみいる」
 空っとぼけて、アルドゥインは言った。そしてふいに、同じ低い声で、しかし調子をがらりと変えた。
「我が思いのままにしてよいとの仰せならば、このアルドゥイン、一つだけ公女殿下にお願い申し上げる」
「何なりと申せ、アルドゥイン」
 リールは媚をみなぎらせた顔でにったりと笑い、厚い唇をべろりと舐めた。それへ、アルドゥインは鋭く言った。
「トティラ将軍と手を組み、母国を裏切り、あまつさえ父母同胞を弑せんとは、まこと正気のお沙汰とは思われぬ。何とぞ我が願いを聞き入れ、まことの道に立ち返られたまえ。エトルリアがペルジアに事あらばつけいらんとて虎視眈々と狙っていることを、ご存じなきか」
 ぽかんとリールの口が開いた。余りの驚きに、口も利けぬようであった。そのまま、どす黒いいやな血の色が顔に昇ってくる。
「ア、ア、アルドゥイン、そなた、そなた……」
「いかにみそかごとと思えども、四知と申すとおりヤナスは何もかもをご照覧あるのが世のことわり。以後みそかごとをたくらまれる折りには、この我の言を思い出されよ。これすなわち、このアルドゥインがリール殿下へのお願い」
 言い捨てて、彼はもう後も見ずに北の門に向かって入っていった。息も乱しておらぬ。彼にとってはリールとの立ち合いなどほんの足慣らし程度にしか過ぎなかったことを、その後ろ姿が物語っていた。
「ア、アルドゥイン……」
 リールは息を詰まらせ、異常に気付いた近習が慌てて駆け寄り、連れ出すまで、自分の幽霊を見てしまった人のように、競技場の砂地に根が生えてしまったかのように動かなかった。

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