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                                 *



 トティラは吠えた。
「素手で来い! アルドゥイン!」
「よかろう」
 心得たりとアルドゥインががらりと大剣を投げ捨てる。
「アルドゥイン!」
「アルドゥイン!」
 耳を聾さんばかりの歓声が、ほとんど全ての観客の口からほとばしった。それはアルドゥインの潔さと度量、そして戦士としての友誼を褒め称える大歓声であった。
 が、それも二人の耳には入らない。
 アルドゥインが剣を投げ捨て、素手と素手になった次の瞬間、二人はどちらからともなく突進し、激しく腕をつかんで組み合っていた。互いに手首をとらえようとして手を伸ばし、払いのけ、払いのけられ、それを瞬時のうちに繰り返した。
 背も、横幅も、それにともなう筋肉や重量もトティラの方がずっと大きく、どっしりとしている。素手で立ち向かえば、むろん若さやそれにともなう瞬発力、しなやかさはアルドゥインの方が上だろうが、といってアルドゥインに圧倒的な分がある、とはとうてい言いがたい。
 トティラがついにアルドゥインの手首を捕らえ、両脇に広げようとした。アルドゥインは力を込めて、肘を張ってトティラの手を受け止め、二の腕でトティラの腕を払いのけようとする。
 そうはさせじとし、トティラはアルドゥインの両手首を掴んだまま、相手を砂地にねじり伏せようとする。アルドゥインは隙を見てトティラの体を担ぎ上げ、叩きつけようと狙う。
 力と力がぴたりとつけあい、今にも痙攣しそうに筋肉を張り詰めさせたまま、両雄は一瞬も動くことができない。
 しかし遠目からは二つの巨大な立像と化したかに見える両者の全身は、ありったけの力をしぼりだしての対峙に細かくぶるぶると震え、汗が顎からも、髯からも、手足のむき出しの部分からもとめどなく滴り落ちた。汗でつるりと手が滑り、二人の組んだ手が離れ、二人とも膝をつきかけた時、観衆はあっと詰めていた息を吐き出して絶叫した。
 だが二人ともすばやく立ち直り、飛びすさった。トティラは汗を押し拭い、罵声もろとも身に着けていた鎧の革紐を恐ろしい力で引きちぎって、鎧を投げ捨てた。
 逞しい、カシウスかネプティアの彫像さながらの鍛えぬいた毛深い上体が、白日のもとに露になった。その体の筋肉は極限まで酷使してぶるぶると小刻みに震え、湯気が立ち上っていた。
 アルドゥインもまた、熱気に耐えかねたように鎧を投げ捨てた。また、これほどに力を入れるときには、鎧はむしろ筋肉の緊張を制限し、力を出すのを妨げる役にしか立たなかったのだ。
 彼は手甲を外し、膊当を外し、肘当、肩当と順番に留め金をぱちりと外し、砂地に落としていった。メビウスの鎧はペルジアの鎧よりも数段厚手で重かったし、装備も多かったので、トティラのように豪快にむしりとるというわけにはいかなかった。
 鎧を投げ捨て、さっぱりとした二人の戦士は、一息入れるなり、さらに戦うべく両手を広げ、なるべく相手よりも低くなろうとしながらまたしても組みかかった。今度は汗に濡れた肌が滑るので、最初のようにがっぷりと組むわけにはいかなかった。だがアルドゥインの方はどういうわけか鎧下を脱がなかったので、トティラにとっては掴みやすいといえた。
 彼らはぐるぐる回りながら相手の隙を窺い、何とか回り込んで羽交い絞めにするか、頭上高く担ぎ上げるか、どうにかして押さえ込んでやろうと付け狙っていた。またしても緊張した膠着状態が訪れたかに見え、人々は拳を振り回して叫んだ。
「組め! 組め!」
 しかし二人の戦士はもはや、そのような周囲の声に惑わされるどころではなかった。しだいにさすがの両雄たちも疲れの色を露にし、さしものアルドゥインもついに肩で息をするようになっていた。それほどに彼らはあっと言う間に、持てる力の全てを振り絞って、力と力の極限で戦っていたのだ。
 ふいに人々がわーっと絶叫した。アルドゥインが、汗に濡れた砂に足を滑らせたか、片膝を地についたのだ。
 何条もってこの機を逃すものかと、トティラの赤銅色の巨腕がアルドゥイン目掛けて襲い掛かる。
 が、それはアルドゥインの巧妙な誘い、罠に他ならなかった。人々の口からああっという、悲鳴とも絶叫ともつかぬものがほとばしったとき、アルドゥインの体がばね仕掛けのように跳ね上がり、トティラの腿と腰を捕らえて太い胴に頭を付け、その巨体を抱え上げていたのである。
 トティラの口から獣じみたわめき声がもれ、何とかして大地を取り戻そうと宙で狂ったようにもがいた。トティラの顔が醜くどす黒く染まった。トティラはなんとかしてアルドゥインの腕をもぎはなそうともがく――が、もはや高々と持ち上げられては力の入れようがなかった。
 次の瞬間、アルドゥインの体が素晴らしいしなやかさで後ろに反り、人々の絶叫の嵐の中で、トティラは頭から力任せに砂地に叩きつけられていた。トティラの巨体が不気味な音を立てて砂にめり込むのを、人々は今度は一転して水を浴びたような恐怖に、凍り付いて見つめていた。
 アルドゥインは瞬時のためらいも見せず、身を起こして自ら投げ飛ばした敵手におどりかかった。さながら最初の一噛みで獲物の巨牛の動きを止めた獅子が、とどめをさすべく勇躍する様を思わせた。
 アルドゥインの体がトティラの上からのしかかり、その両腕がトティラの猪首を後ろざまに締め上げる。トティラはもろに叩きつけられ、脳天を打ちつけられた衝撃からまだ回復していなかった。辛うじて身を起こそうともがくのを、しっかりと鋼鉄のような腕が捕らえた。
 トティラはもがいた。だがその四肢の動きはさきに比べて緩慢だった。何とか体を反転させ、アルドゥインの体を下敷きにしたが、腕は緩まなかった。アルドゥインの長い脚がもがいて暴れるトティラの足を捕らえて押さえ込む。
「ウ――グ……ッ」
 トティラの口のはたから、細かい泡が吹き出している。アルドゥインの腕は容赦ないすさまじさで彼の喉輪に食い込んでいる。
 わあっ――うわあっ――観衆の声は、今や明白な恐怖を帯びていた。
 あの英雄、ペルジアの誇る勇将トティラの伝説に満ちた素晴らしい、栄光の生涯の、もしかしたら最期の瞬間に自分たちは立ち会うことになったのでは、という、それは恐怖だったのである。
 人々の凍りつくような恐怖の声の中で、ただアルドゥインだけが、ますます腕に力を込めて、相手の首をへし折りにかかると見える。
「ア――アルドゥイン!」
 飛び上がったのはアダブル大公だった。
「それまで――それまで! 勝負あった!」
「トティラ、降参せよ!」
 衣服をとんでもない薔薇色のドレスに改め、ロイヤルボックスに戻ってきていたリール公女も立ち上がった。
「もはやあい分かったぞ! アルドゥインはただ人にあらず、神話にもひとしきカシウスなり、たとい敗れようともこなたの恥辱にはあらず!――トティラ、聞こえているのか、トティラ!」
 聞こえていないのではない。トティラにも、聞こえているのだ。
 そのどす黒い、いやな血の色に染まったおもてにわずかな生色が動き、辛うじてその手が動いて、万国共通の降伏のしるし――弱々しくアルドゥインの腕を叩いた。
 が、アルドゥインは気付かぬのか、その腕を緩めない。
 人々の間に、恐怖が突き抜けていった。
(殺す気か)
(いずれメビウスに害なすやもしれぬ、ペルジアの猛将を)
(御前試合の名を借りて、葬るつもりか――)
 すでにアルドゥインと共にあること久しい、メビウス紅玉騎士団の面々ですら――そう思った。
「ア――アル――ドゥイン」
 トティラの喉が弱々しくぐっと鳴った。かろうじて血走った目を開き、うめきながら、間近に迫った浅黒いおもてをにらみ付けた。
「き……さま……俺を……」
「誓っていただけるか」
 耳に囁かれたのは、思いもかけぬ言葉だった。
「え――」
「誓いを」
「誓う――だと……な……にを……」
 最も競技場に近い観客でも、ささやくように交わされた言葉を聞き取ることはできなかっただろう。
 トティラの形相は迫り来る死を目前にして変わっていたし、苦悶に顔をすさまじく歪めていた。アルドゥインは彼の下にあり、ほとんど口を動かさずに囁いていた。
「メビウスは、中原の平和を望む。ペルジアの内乱は、望まぬ」
「な、ん、だ……と」
 トティラの目が見開かれた。信じがたいものを見たように、血走った目が氷のように冷たい青年のおもてを横目で見据える。
「メビウスはペルジア大公家の内紛を望まぬ。――再度のペルジア出兵も、望まぬ」
 アルドゥインは低く繰り返した。
「もし将軍とリール公女があえて父殺し、主君殺しの大罪を辞さぬというならば、この手は緩めぬ。――将軍の定命これにて尽き、お命は俺が頂戴する。が、お聞き届けあって、邪なるお望みを捨てられれば――」
「ア――ア――アルドゥイン……」
 食いしばった歯の間から、トティラは呻いた。
「き――さま……何者だ……」
「俺は一介のメビウスの傭兵、縁ありてメビウス皇帝に剣を捧げしもの」
 アルドゥインは同じように低く答えた。
「将軍、お答えを。ここでの落命をお望みか。あるいは中原の平和をもって、そが命をあがなわれるか。――お答えあれ」
「ま、待て……」
 すでに朦朧となりながら、トティラは喘いだ。
「お……俺の負けだ……」
「お聞き届けあろうか」
「……いかにも……」
「かたじけない」
 すっ、と手が緩んだ。もはや二度と逃れることはあたわぬかと思われていた死のあぎとは、唐突にトティラを解放していた。アルドゥインの体の上からトティラの巨体が転がり落ち、アルドゥインはゆっくり立ち上がった。
 人々はしんと静まり返っていた。まだ、トティラがアルドゥインに絞め殺されたのか、という恐怖から、解放されていなかったのである。
 やがてトティラの手足が苦しげに動いて、ようやく人々を恐怖から解き放った。
「ア――」
 とたんに、人々は爆発した。
「アルドゥイン!」
「アルドゥイン――」
「凄いぞ!」
「なんて戦いぶりだ!」
「あのトティラを、ああもやすやすと――」
 全ての叫びは、やがて一つに収斂されていった。
「アルドゥイン――」
「アルドゥイン!」
「アルドゥイン!」
 という。
 アルドゥインは、イズラルの空を埋め尽くすその名を呼ぶ叫びの真っ只中に、揺るぎもせず、しっかりと大地を踏まえ、足元にトティラ将軍の敗北を見下ろしたまま、無表情に立ち尽くしていたのであった。

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