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「また――」
 ガオ・スンの狼狽を尻目に、アルドゥインは続けた。
「ペルジアとエトルリアとがかくも深く、見事に盟邦の契りを守っておられるからには、よしメビウスとペルジアが友好条約を結ぼうとも、それによってペルジアとエトルリアの関係が悪化する謂われはどこにもあるまい。――むしろ友の同胞は我が同胞も同じこと、ペルジアと結ぶ絆はすなわちエトルリアと結ぶ絆となろうというもの。――ガオ公使、それがしはさよう理解させていただいているが、もしもどこかに我が誤解があればよろしからず、ただいま訂正していただきたく思い、このようにお呼びだて申し上げたしだいであります」
「う……」
 ガオ・スンの方は、神でも魔でもない身によもや、昨日の陰謀――ウジャス皇帝をエトルリアへ脱出させ、それを口実にウジャス帝の名のもとにペルジアとの戦端を開くも辞さぬたくらみを、アルドゥインに全て聞かれているとは夢想だにしていない。
 いま彼の目の前にいるのは神なのか悪魔なのか、と我が眼を疑いつつ、まじまじとアルドゥインを見つめ、どう反応したものかと内心狼狽している様子だったが、やがて意を決した。
「むろん、ペルジアはわがエトルリアにとっては先達ともいうべき上位の盟邦」
 ガオ・スンは言った。
「かつ、またゼーア皇帝の意思こそわがエトルリアの意思にほかならず、そういうことなればいずれ、国おもてにも使者を立てた上、我があるじサン・タオの意向に従い、おそらくは同様の友好条約をエトルリアも貴国にお求めすることでありましょう」
「むろん」
 アルドゥインは軽く頭を下げた。
 ガオ・スンがいささか打ちのめされ、混乱したようすで帰っていくなり、それまでずっと何もかも心得ているような顔でアルドゥインの後ろに立っていたセリュンジェは、今のは一体どういう一幕であったのか知りたがった。
「なあに。ちょっと軽く釘を刺しておいただけだ」
 アルドゥインはにっと笑みを浮かべて言った。
「それにしちゃ公使のおっさん、えらくしょぼくれてたようだが。――ははあ、これは昨日のウジャスじいさんとのひそひそ話と係わっているんだな」
「当たりだ。もしもエトルリアがウジャス皇帝を拉致し、ためにエトルリアとペルジアの間に戦争が始まるようなことがあれば、わがメビウスはペルジアにつくかもしれない、と少々脅してやった」
「しかし、何で」
「――ペルジアがメビウスに侵攻してきたのはコルネウスに操られてのことだったし、クラインは今のところ国外の出来事に首を突っ込む様子はない。ひとりエトルリアだけがラトキアを手中にし、着々とゼーア全域をエトルリアの版図にする工作を進めているかのように、俺の目には映るからな。要りもしない戦いを起こさせたくない」
「うん――?」
「――今の老いて勢いを無くしたペルジアこそ叩きつぶす好機とエトルリアには読めているだろう。あえてペルジアを怒らせて戦争に引きずり出すために、老陛下をこれまで省みもしなかったのに突然四の五の言いだしたんだ、セリュンジェ。しかしエトルリアとてメビウスの敵に回ることは避けたかろうさ」
 セリュンジェは不思議そうに言った。
「思うんだがね、アル。ゼーアの中で食い合いをおっぱじめたいっていうんなら、勝手にやらせておけばいいんじゃあないのかい? メビウスにゼーア出身の皇后がいたのは百年以上も昔の話だし、だから今頃ゼーアがどうなろうと知ったこっちゃない。ペルジアに何の義理もない。――ましてアル、あんたにとってはさ。それにここでペルジアの肩を持つほど、ペルジアに美しい女がいたってわけでもないし」
「別段、ペルジアの肩を持ったつもりはない」
「じゃあ何で、ヤナスのかわりなんか努めようとするのさ?」
「そういうつもりもないが――」
 アルドゥインは呟いた。
「ただ俺は、ウジャス皇帝が、エトルリアの野心やペルジアの面子の間に巻き込まれるのが、気の毒でならないんだ、セリュ。あの方は老人だ。とても年老いている。帝の唯一にして最大の望みはただ、そっと静かにヒダーバードで安楽な余生を送ることだけだ。これまでひっそりと、廃帝同然の屈辱に耐え、何も望まずああして生きてきた薄幸の老帝の、最後の望みだ。せめてサーライナの御手に抱かれるまで、あの年で戦火に焼かれ、首を切られ、或いは暗殺されることもなく、自分のベッドの上で安らかに死にたいという、それくらいは、叶えてさしあげたい。そのために俺ができることならばいくらでもしてさしあげたいんだよ」
「うーん……」
 セリュンジェはうなった。アルドゥインの過去の事情など彼が知っているわけもなかったので、アルドゥインがなぜそこまでウジャスに同情的になるのか、はかりはねたのである。
「あんたは心底腹黒い奴なのか、それとも悪魔もびっくりなぐらいの単純な人間なのか、或いはとんでもないお人よしなのか、俺には判らねえな! たかがじいさん一人の余生を静かに暮らさせてやりたいという、それだけで、中原全体の外交政策を左右しちまおうと言うんだから! 頭がおかしいと思われるぜ、アル」
「そうかもしれないな。――だがまあ、いいじゃないか、セリュ。平和は誰しも望むことなのだから。それに、じっさい俺はあの老人が妙に好きなんだよ。七十の齢を重ねてはいるが、あの方の心は子供よりも素直で、澄んで清らかだ」
「たしかにね」
 セリュンジェは認めた。
「あのじいさんの時間――心は、七歳でヒダーバード城に閉じ込められた時から、止まっちまったまんまなんだろうよ、可哀相に! しかしそれも一生、あれも一生だ。ヤナスは定め、織りたまう。そうだろう、アルドゥイン」
「ああ」
 アルドゥインは深く頷いた。
 それからアルドゥインは帰国の支度などをして、残る半日を静かに、平静に過ごしたのであった。その夜も碧玉宮ではセリュンジェの言うところの「ぞっとしない連中」による夜会が催されていたが、アルドゥインはこのところ伝令が滞っているから、と称して辞退し、騎士宿舎の一棟を与えられているメビウス騎兵たちの所に赴いた。
 むろん彼らも明日の試合を見せてもらえることになっており、久々に自分たちの元に戻ってきた総大将を迎えるなり大きな歓声を上げた。
 セリュンジェもヤシャルもほっとする思いで、久方ぶりの、仲間たちだけの一夜を満喫したのであった。たしかに宮廷の宴と比べてこちらのほうが数段料理も酒も粗末であったが、しかしそれは彼らがイズラルに来てから初めての、心から寛げる、ほっとする一夜であったかもしれない。
 彼らは中庭に出て火を起こし、串に刺した肉を炙り、そのままかじった。酒を酌み交わし、大声で冗談を言い、取っ組み合ったり腕くらべに興じたりした。彼らは飾り気のない、尚武の気性に満ちた剛毅な北の国の民、一騎当千の騎士たちであった。
 彼らにとってはこのようなおおらかで素朴な雰囲気こそがもっとも慕わしく、馴染んできたものであった。そして、燃える火に赤々とその半身を照らし出されて、焚き火の傍らには、彼らの敬愛するアルドゥインの神話めいた姿がある。
 それこそははるかなメビウス、タギナエ国境から彼らを自由国境地帯、そしてこのイズラルまでもいざない連れ去った彼らの運命――指導者であった。彼らは国を捨て、家族、妻子を置き去りにして、あえてアルドゥインに従ってここまで来たのである。
「なあ――コラス」
 四番隊第一百騎長のヤシャルは、そんなアルドゥインの姿を見やりながらそっと友達に囁いた。
「俺たちの大将は、なんて――神話から抜け出してきたような奴なんだろうな!」
「ああ、まったくだ」
 コラスは頷いた。
「俺もそう思っていたんだ。なんと不思議なことだろう――今あの大将と俺たちが、こうして古都イズラルの夜を共にしているなんてな」
「俺は、決して忘れないだろうよ」
 ヤシャルは瞑想的に呟いた。
「アルドゥイン将軍とともにイズラルまで長征したこの日のことを。いつか年を取っちまって体がきかなくなって、居酒屋でも始めるようになったら、孫や近所のガキどもを集めてこの日の話をしてやるんだ」
「俺もそうするだろうな。――だとしたら、メビウスじゅうに、おんなじ話しかしねえじじいがわんさと増えることになるんだ」
「違いない」
 コラスとヤシャルは目を見交わしてくすくすと笑った。それからコラスはふっと物思うような、遠い目つきをした。
「――あの人には何か、共にいるものを全く異なる運命に導いていくような、そんな恐ろしいような力がある。俺たちはみんな、その魔力につかまっちまったんだろうな。――見ろよ、ヤシャル。ああしてかがり火に照らされたあの人ときたら、まるでナカーリアそのひとのようだぜ」
「戦ってるときなんて、まさにな。すげえ使い手だってのもあるが、迫力からして俺たちとはてんで違うんだ」
「こう言ったらおかしいかもしれないけど、綺麗だよな――! 顔かたちだけじゃない、なんというのか――あの人の持っている魂の色、運命の力みたいなものがさ」
「お前の言いたいことは判るよ、コラス」
 ヤシャルは同意を込めて深々と頷いた。
「……たとえこの先何かあったとしても、アルドゥインが助けを必要としていたり、窮地に陥ったりすることがあれば、俺はこの体の動くかぎりアルドゥインのために馳せ参じるだろうよ」
「俺だって」
 挑むようにコラスは言った。だが少し考えてから続けた。
「しかしもしもそれが――アルドゥインがメビウスに反旗を翻すことだったら――どうする、ヤシャル」
「俺は、アルドゥインに剣を捧げるよ」
 ヤシャルは、ほとんど迷わずに答えた。
「――俺も、だ」
 暗がりで、ひっそりと低いいらえが隣から返った時、ぱっとかがり火から華やかな火の粉が散った。
「信じられるか? 去年の春には、まだあいつはこの紅玉騎士団にはいなかったんだぜ」
 二人はそう考えながら、黙っていた。周りでは宴もたけなわである。焚き火に照らされた顔はどれも明るい。まもなくメビウスに、故郷に帰ることができるのだ。あるいは、二度とその日はないものと覚悟を決めはじめていた者もいたかもしれない。
 だが、あさってにはメビウスへの帰途につくのだ――口にこそ出さないが、その思いが彼らの心を躍らせている。
「頑張れよ、大将!」
「トティラなんかに負けるなよ!」
 兵士たちの底抜けに明るい声が方々から響く。
「メビウス勇士の強さを見せてやれ」
「アスキア勇士の間違いだろ」
 どこかから野次が飛ぶと、それにすかさず言い返す者がいる。
「ばあか、どこの勇士だってかまやしねえ。勇士は勇士、アルドゥインは、俺たちの大将なんだからよ」
「まったくだ、違いねえ」
「なあに、みんな、俺たちのアルドゥインが、トティラごときに本気を出すまでもねえ。奴なんぞは、指先一本でチョイってもんだ。何てったって、メビウス一強いのは俺たち紅玉騎士団、アルドゥインはその俺たちの中で一番強いんだからよ! ペルジア一がどうしたってんだ」
 どっと起こる笑い声――。陽気な顔、顔――。
 陽気な宴はさながらイズラルに、メビウスのさわやかな緑の風を運ぶかに思われ、アルドゥインが引き取っていったのちも深更まで尽きることはなかった。
 古都イズラルはイズラルで、明日の楽しい見ものにわくわくと期待で胸を躍らせ、夜っぴて寝もやらず、この北のかがり火に比べればいくぶんか退廃的ではあったものの、街の灯はいつまでも消えることはなかった。

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