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 アルドゥインはのんびりと、能天気な答えをした。
「いとやんごとなき女性の手にかかるも、あるいは喜ばしき我が定命やもしれず――その節はなにぶん、異国の地に果てたるこの身をあわれと思し召し、一掬の手向けなど願わしい」
(何が、喋るのに難渋する、だよ。このひょうきん者め)
 セリュンジェは内心で毒づいた。せっかくこの頃心が通じてきた思いも新しいセリュンジェにとって、アルドゥインが実は色々とものごとを面白がり、相手にはそうとは判らないが、からかいもしているということが分かりかけてきたのである。
「言うたな、アルドゥイン殿」
 しかしリールは大まじめだった。
「あくまで真剣にて、全力の試合が所望だ。よいな」
「御意」
 アルドゥインは困ったふうを装った。
「なにゆえやんごとなき姫君の命に背きましょうや」
「よかろう」
 リールは喜びにしたたるように笑い出した。そして、こちらもとばかりにすさまじい秋波をくれた。
「もしもそなたがわらわを打ち負かせし時は、このリールはそなたの申すこと、何なりと思うままだぞ」
 さすがにアルドゥインが辟易して、かすかに顔をしかめたのを見て、セリュンジェは密かにいい気味だった。
「それを聞いては――あまりに武人の血が騒ぐ」
 いきなり立ち上がったのはトティラだった。
「アルドゥイン殿、それがしとも手合わせ願いたい」
「それはよい」
 人々がわあっと歓声を上げる中で、俄然勢いを取り戻したアダブル大公が叫んだ。
「御前試合とゆこうではないか。ウム、これは見ものだ、語り種になるぞ。歴史に残る名勝負二番だ。――これはよい、宮廷中にふれをまわせ」
「アル!」
 無礼も省みず、とうとうセリュンジェは席を立ってアルドゥインの後ろに駆け寄った。そしてその耳に囁いた。
「正気かよ、やめておけって! アル、判ってるだろう。面倒なことになるぞ。もしお前が断れないのなら俺が何とか言って……」
「大丈夫だ、セリュ」
 アルドゥインは言った。朝の光のためにかすかな淡い茶色を帯びたその目は、相変わらず悪戯っぽい光を浮かべていた。
「いいから任せておけ。――お歴々を立会いに申し上げる」
 アルドゥインは立ち上がり、声を張った。
「折角のお申し出ゆえ、いかにもアスキアのアルドゥイン、リール公女殿下並びにトティラ将軍との御前試合二番、承った」
「アルドゥイン!」
「おおっ!」
 人々はどよめきたった。アダブル大公は喜んで膝を叩いて飛び上がった。
「こりゃ楽しみだ! 試合は明日正午! 場所は大公閲兵場で、武器は自由!」
 かくして――たちまちのうちに碧玉宮、いやイズラル中に、メビウスの千騎長アルドゥイン対ペルジアの誇る勇将トティラ及びアルドゥイン対第三公女リールの御前試合、というニュースは野火のように駆けめぐったのである。
 さしも古い血のよどみきったペルジア宮廷の人々をさえ、このめったにないであろう大見物は熱狂させ、血を沸き立たせるようであった。宮廷中が御前試合の話でもちきりになり、彼らは寄ると触ると試合の噂に花を咲かせていた。女官たちは女部屋で、男たちは厩や庭を掃きながら、料理人は火加減を見たりスープの味見をしたりしながら、とにかく人が二人以上いれば試合の話をしているとみて間違いはなかった。
 男たちはもっぱら技量について、あちらはこうだ、こちらはどうだと口角泡を飛ばしあい、女たちはゴシップもまじえてきゃあきゃあと騒ぎ立てた。かなりの人々がどちらが勝つかで賭をはじめ、その金額はどんどんつり上がっていったので、破産しかねないものすらありそうだった。アルドゥインが二人ともに負ける方に賭けるものはほとんどなかったのだが、トティラに勝つか、リールに勝つか、二人とも下すかで票は三つに割れてしまった。
 御前試合という楽しみの上に賭という楽しみまで加わったもので、この騒ぎはほとんど狂熱の域にまで達してしまった。誰も彼もが上の空であった。召使たちは掃除もしないし命じられた仕事をこなすことも忘れており、といってその主たちも命じたことを忘れて賭に没頭しているという、そういう有り様であった。
 おそらく御前試合が終わった後は盛大な宴が開かれて、誰が勝つにせよ夜っぴてどんちゃん騒ぎが繰り広げられるだろうという見通しがいっそう人々をうきうきさせていた。アルドゥイン麾下五千騎はその試合が終わったのちにアダブル大公とウジャス帝に暇乞いをして、オルテアへの帰途につくという知らせも報じられた。
 アルドゥインと《闇の導師》コルネウスの間で演じられたひそかな一幕など人々が知るよしもなかったので、中にはあの将軍は一体何をしにはるばるイズラルまで訪れてきて、いかなる目的を遂げて帰っていくものなのかと首を傾げる者も少なくなかったのだが、しかし基本的にはそんなことは誰にとってもどうでもいい事で、ひたすらこの試合こそがアルドゥイン訪問の白眉であると考えていた。
 浮き立ち、ざわめき立っている人々の中で、いっそう浮き足立っているのは試合の準備を命じられた連中たちだった。とにかく日は一日しかなく、ほとんど全宮廷の、老いも若きも、身分の高きも低きも、試合場にどっと押し寄せてくるのは目に見えていた。
 怪我人を出さず、何か要らざる騒ぎも起こさせず、身分の高いものもそうでないものも同じように楽しめるよう、席次や準備、もてなしについて心を配らなければならなかった。一個大隊が丸ごとこの警備係にふりあてられ、警備係であることを示す色を身につけられるよう整えられた。
 試合場に定められた閲兵場の客席には何バールおきかにロープが張られ、色違いの布がつけられ、看板が立てられた。さらにわがままなお偉方を満足させるために、飲み物やちよっとした食べ物を給仕する準備も必要であるし、もちろん混雑に紛れて王侯の暗殺をたくらむ不心得者があってはならない。
 運悪くこの七面倒な準備に割り当てられてしまった連中は、我が身の不幸をぼやきつつも、たむろする人々を押し退けて駆けずり回っていた。それはそれで、晴れがましくもないことではなかったのである。
 そうして、てんやわんやの一日は過ぎていった。人々は一日中噂をして、それ以外ほとんど何もしなかったが、当の明日の主人公たちはと言うと、いたってひっそりと身を隠していて、おそらくはそれぞれに閉じこもって最後の調整に余念がないようであった。少なくとも、リールとトティラはそうらしかった。リールの部屋近くに作られた、公女専用の鍛錬場からは、夜までずっと掛け声や木剣の打ち合う音、「参りました」という叫びなどが響いていた。
 一方のアルドゥインの方は、こちらは何事も変わったことなどないかのようだった。わが騎士団を軽く閲兵し、ウジャス帝のもとにご機嫌伺いに立ち寄り、昼食をともにし、午後はアダブル大公のところに伺候して帰国の挨拶をするといった、いたって外交的な一日を過ごしていた。
「本当に、何もしなくていいのか? なんだったら俺が相手をするが……」
 セリュンジェは心配して申し出たが、アルドゥインは笑っただけだった。たった一つアルドゥインが日頃と違う行動に出たのは、夕方にエトルリア公使ガオ・スンとの会見をもうけさせたことであった。
 もっともこれも、公使をして在ペルジアのエトルリア代表として考えれば、たいへんに礼を尽くしたやり方であったから、ガオ・スン公使はむろん喜んで出向いてきた。彼も例に漏れず噂に心を奪われ、賭仲間にも首を突っ込んでいたものだから、自分一人が一方の戦士の様子を見られるのを喜んでいたのである。
「いかがです、アルドゥイン殿。自信のほどは」
 入ってくるなり、ガオ・スンは子供のように尋ねた。
「私は貴殿に五千レアルも賭けてしまいましたぞ。ぜひともトティラの髯をむしってくださらねば、私は破産だ」
 アルドゥインは笑った。
「勝負は時の運。剣を交えてみるまではわからぬことです。あまり高額を賭けるのは、ヤナスを試すことかと」
「いや、私は貴殿を信じているのだ」
「あまり無茶はなされぬことだ。――ところで」
 アルドゥインは様子を改めた。
「すでにお聞き及びのことかと思うが、それがしは明日の試合を済ませ、その翌朝イズラルを発ってメビウスへの帰途につくつもりであります」
「いかにも伺いました」
「ガオ公使、それがしよりの頼み、お聞き届け願わしい」
「勇士よりのお頼みとは、そもどの様な」
「お聞き届け願えようか?」
「むろん。私の力のかなうこと、信義忠節にもとらぬことなれば、いくらでも」
「よくぞ申された、ガオ公使」
 アルドゥインはゆったりと頷いた。
「実は、ウジャス皇帝陛下のおんことだが」
「な、何と?」
 予想外の言葉は、ガオ公使の顔を一瞬引きつらせたが、さすが老獪な公使はすぐにさりげない様子に戻っていた。
「ウジャス陛下のこととは」
「むろん、ゼーアにはゼーア、エトルリアにはエトルリアの神聖なる君主のご意志があろうことは重々承知している。ゆめ一介の、それがし如きが内政干渉がましい差し出口をしよう所存などはござらぬ。――その点はまずはっきりと申し上げておく」
「……で?」
 エトルリア公使は、いったいこの話がどこに飛んでいくのかと、真意を計りはかるようにまじまじとアルドゥインを見つめた。
「されど万一中原に戦火の起こらば、ひとりメビウスのみが圏外に平和を楽しむはあえてわが英明の主君の望むところにあらず、一朝事あらば我が君は立ちて中原の平和を守るべく戦矛をとるにやぶさかでなきところ、この度のペルジア対策に見られたとおりだ。――それがしはこれよりオルテアに馳せ戻って、再びイェライン陛下のご馬前に侍すものとなるが、あるいは陛下には、それがしにご下命くださり、中原の平和を守れと命ぜられることも大いにありえようかと」
「それはさようでございましょう。貴殿はもはやメビウスの誇る最大の勇将ゆえ」
「かどうかは知りませんが、ガオ公使」
 アルドゥインはゆっくりと、それこそ大王の貫禄を見せて一語一語区切るようにしてはっきりと言った。
「それがしは明後日イズラルを出立いたします。それにあたり、さきほどアダブル大公閣下に正式に暇乞いと、数々の無礼のお詫びを申し上げてご挨拶申し上げて参った。その折りにまた、アダブル大公より、我が君主イェライン陛下への書簡をたまわった。すなわち、両国の誤解は今やすべて氷解し、不幸なるわだかまりもとけたとなれば、ここに新たにペルジア‐メビウス友好条約を結び、さらに相互不可侵条約と今後の友誼をかためてゆくことを申し出られる、丁重かつ友情厚きご書簡を」
「なんと……」
 ガオ・スンはためらうように口を開いた。
「なんと申された」
「我が主イェライン陛下は、中原諸国相互の友誼を深めるにいかなるご躊躇もなかろうかと。――またペルジア大公にはご親切にも、単なる友好条約ではなく、この不幸なるできごとを幸いに転ずるべく、万一わがメビウスに事起こり、他国と戦端ひらくその時には、ペルジアは総力を挙げて友邦メビウスのために戦うであろうという、ヤナスの誓約をくださった」
「な……」
 ガオ・スンの絶句をよそに、アルドゥインは淡々と話しつづけた。その口調はいかにも事務的であったが、有無を言わせない勢いを持っていた。
「もしも我が主君がこのご厚情あふれる申し出を受けたまわば、メビウスももとより、ペルジアの敵を我が敵となし、共にあいたずさえて戦うナカーリアの誓いを交わすことになるでしょう。また、もとよりゼーア両大公国はそれがしも知るごとく深く厚き絆をかためた兄弟国、これはメビウスとペルジアのみのものと申すよりは、ゼーアとメビウスの友好条約と申してもよかろうかと」
「……」
 エトルリア公使は目を白黒させて、アルドゥインを見つめるばかりであった。

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