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     人はヤナスたろうとしてはならない
     運命を我が物とすることはできぬ
     それは神のみに許された聖なるわざである
     しかし神の道具たることは人のつとめ
     すべては神の御心のままに
             ――ヤナス祭司ウィンフリート




     第二楽章 朝の即興曲




 ヴェルザーのセリュンジェがいかに、「あのぞっとしない連中」さえいなければ、ペルジアも悪くないと言ったところで、ペルジアという国を支配し、そのかたちと性格を与え、形作っているのは他でもないその「ぞっとしない連中」であるのはいかんともしがたかった。
 アルドゥインがウジャス帝のところに伺候してから、与えられた宿坊に戻り、さっぱりと水浴して衣服を改め、熱い茶を飲んで生き返ったような気分を味わっていた所へ、セリュンジェをがっかりさせたことには、アダブル一家からの、朝餐会への招待の使者がうやうやしくやってきたのであった。
 朝餐会のほうが、昨日の夜会よりもずっとリラックスしたものであったので、場所ももっとこぢんまりした小広間であったし、メンバーの方も、例の大公夫妻と例の美しい三姉妹、アヴィセン宰相とトティラ将軍のほかには、ぱっとしない貴族が数人の、それだけであった。
 こちらからも、アルドゥインとセリュンジェ、ヤシャルだけが出席した。セリュンジェは、こんなことなら朝食が済んでから剣を捧げるのだったとぶつぶつこぼしていたが、観念して、石像のように黙りこくり、ヤシャルとときおり絶望的に目を見交わすだけで、黙黙とおかゆを平らげていた。
 今朝はペルジアの誇る美しくしとやかな三姉妹はいっそう晴れやかで――少なくともリールだけは念入りに化粧をし、髪を結い上げ、たいへんめかしこんでいた。今朝のリールのドレスときては、肩紐が肩の筋肉にめり込み、一方では鍛えすぎて撫で肩になってしまった肩から紐が絶えずずり落ちかけているという結果になってしまっている藤色の薄いドレスの上に、同じ色のケープをまとっていて、目も当てられなかった。
 ごわごわした髪には青紫のロザリアがたんねんに編みこまれていたが、これには当然アルドゥインはいい気がしなかった。彼の《ロザリアの君》の印象を汚されるような思いであったからである。しかしまあ、それがリールでさえなければアルドゥインだってもう少しは寛大だったかもしれない。
 彼女は当然のようにアルドゥインの右隣に席を占め、スープのお代わりを尋ねるやら、茶やアーフェル水を取り替えさせるやら、何くれとなく要りもしないし頼みもしない世話を焼いていた。
 しかし基本的にはリールの着ているドレスの色が変わったぐらいで、この一座の雰囲気とか人々の様子というのは変化のしようがなかった。この人々はアルドゥインたちが来ようが来まいがこれまで何十年と同じように過ごしてきたのだろうし、これからも過ごすのだろう。誰も止めなければ世の終わりまでそうしているに違いなかった。
 出された料理は朝食ということもあって夜よりは軽いものだったが、量は似たり寄ったりだったし、人々の異様な食べっぷりも健在だった。セリージャはがつがつと両手に余る大きなパンに卵の焼いたのだとかケラシフォルだとかを山のように乗せて食べていた。そして時折、肉類を例の袋にそっとさらいこむのを忘れなかった。
 姉娘のメーミアは相変わらず甘いものばかり食べていて、今はジャムの壺を片手にしっかり抱えて、指でべろべろと舐めていた。大公は愛想良くふるまいつづけ、大公妃は何か別のことに心奪われているように、機械的にものを噛みこんでいた。
 トティラとリールの視線はときおりちらっと絡み合っては、何事もないようにすぐに離れた。アヴィセン宰相は食欲がないと嘆きながら、甘く煮たミールの粥を何度もお代わりしていた。
 ついその昨夜、はからずも彼らのおのおのの隠された、うんざりするような私生活を覗き見る羽目になったアルドゥインとしては――むろん幼いときからそんなものは飽きるほど見てきたわけだが――人間性とその演じるグロテスクな喜劇について思いを巡らせる好機であった。しかし彼は見事なまでの無表情を保って、肉と野菜と、甘くない粥を食べ、リールのうっとりした流し目にじっと耐えていた。
 しかし当人たちの方ではそんなふうに、闇夜のとばりの中に隠しおおせたと思い込んでいる薄汚れた肌着が、全てあからさまになっているなどとは思いもしないので、優雅で典雅な宮廷の、雲上人の社交界を演じているつもりであっただろう。
「のう、アルドゥイン殿。わらわは昨夜、あることを考えて眠れなんだ」
 リール公女がものすごい、というか凄まじい横目でアルドゥインを見ながら言い出したのは、その陰気な食事が一段落して、デザートの果物や菓子が運び込まれ始めたときだった。リールはまだ充分食べた気がしなかったらしく、肉を山のように自分の皿に取っておいていて、さっきもそれをうっかり片付けようとした給仕がものも言わず殴られたばかりであった。
「女性が、それも妙齢の女性がよく眠れぬとはいけませぬな。美容のためにもよろしからぬ」
 寡黙のふりを決め込んで黙っているアルドゥインに代わって、しゃあしゃあと言ってのけたのはトティラだった。
「してそれは、どのようなお悩みで?」
「将軍はあのようにお尋ねくださるが」
 リールは精一杯可愛らしく見せようと瞬きした。
「アルドゥイン殿は、わらわの悩みには関心を持ってくださらぬのかえ?」
「誓って、さような」
 アルドゥインはべつだんもともとは寡黙でもなければ、落ち着いているというわけでもなかったので、おもてを伏せて隠しながら、セリュンジェが見ていて可哀相になるぐらい笑い出したいのを我慢し、ぶっきらぼうに答えた。
「それがしはご覧のとおり、開けぬ沿海州の、傭兵の出。やんごとなき方々のように喋るには難渋いたします。不調法の段は何とぞご寛恕いただきたい」
 下座の方で、むせるような音がした。セリュンジェはあわや吹き出しかけた食べ物を何とかその手前で抑え、水でむりやり飲み下し、その不始末をごまかそうと、何度も大げさな咳をした。
「なんの、おぬしの弁舌にはなかなかさわやかなものがあるぞ、アルドゥイン殿」
 どういうものか、アダブル大公はけさはことさら上機嫌、ないしはそれを装っていた。ときどき盗むようにちらりとアヴィセンを見るが、老宰相は主君の方を見ようともせず、あろうことかヤシャル百騎長に視線を送っていた。
「しかしまこと、イェライン帝もお心強いかぎりであろうな。カシウスの武勇、ラダマントスの英知、しかしてオルフェの弁舌をまで兼ね備えた勇士が御座近く警護するとあっては。いやまったく、同じ一国の君主としてうらやましいかぎり。いっそイェライン殿に強い乞うて、おぬしを譲り受けられぬものかと思うほどだよ。はっはっはっ」
 アダブル大公のわざとらしい笑い声に和するものは誰もいなかったので、それはいやおうなしに、しーんとした広間に広がり、しょぼんと消えてしまった。セリージャもアヴィセンも、何も聞こえなかったふりをしてデザート選びに目の色を変え、メーミアはうなり声を上げてべとべとの指を乾しカディスを甘く煮たものの中に突っ込んでは掴み取り、もりもりと口に押し込んでいた。
 リールはひどくいらいらして上体を乗り出し、アルドゥインに、その胸の谷間――というより逞しい筋肉の境目――を見せようとした。
「アルドゥイン殿、アルドゥイン殿! のう、聞いてくれりゃ、アルドゥイン殿は、お判りであろうのう。わらわがなにゆえに心地よき春の眠りを妨げられ、かくもいねがてに過ごしたか」
「おおかた食べすぎでしょ」
 セリージャが口の中で呟いた。リールは凄い目で姉を睨んだが、すぐにアルドゥインに見られてしまうと気付いて、強いて心を落ち着かせ、彼ににったりと笑みを向けた。
「のう」
「それがし、不調法ものにて、なかなか」
「して、それはどのような? リール姫」
 再び下座で妙な音がした。今度はヤシャルもだったが、理由はセリュンジェとは違っていた。セリュンジェの方はこの着飾った山猪が姫と呼ばれたことにむせかえりそうになったのだが、対するヤシャルの方は、テーブルの下で老宰相の足先で膝をつつかれたことに仰天したのである。
 背徳の都クラインやエトルリア、あるいは奔放な沿海州では知らず、武辺の国であるメビウスでも、職業的な男娼はもちろんいたし、個人のプライバシーに関して寛容ではあったものの、このような公式の場で、宮廷の高位の人々が自分の嗜好をあからさまにするようなしきたりは存在していなかったので、気の毒なヤシャルの驚きは察するに余りあるものがあった。もっとも、まだ何のことかよく判っていなかったので、突然膝をつつかれたことへの驚きのほうが先だった。
「こなたじゃ、アルドゥイン。こなたのことを思うと、一夜ついに眠るを得なんだのじゃ。おお、恥ずかし」
 リールは身をくねらせ、ごつい両手に顔を埋めて、再び目も当てられぬ媚態を披露した。今度は一同はちゃんと注意深く目をそらしていた。――もちろん、アルドゥインもである。
「これはなかなかに聞き捨てのならぬこと」
 トティラは薄ら笑いを浮かべながら言った。
「姫様には、アルドゥイン殿を思うて一夜お寝いになれなかったとか――これはなかなか、捨て置けませぬな」
「置きゃれ、トティラどの」
 リールはそのごつい体が許すかぎり、くねくねと身をよじらせた。
「わらわはそのような、妄りがましいことで申しているのではない。――わらわはこう見えても、きわめて身持ちのかたいおなご、そう申したからとて、色めいたことではないぞよ。そうではなく、のう、アルドゥイン殿」
「は……」
 アルドゥインはこの発言に思わず吹き出しそうになり、それをおさえようとしてほとんど怒ったような顔をしていた。
「わらわはの、昨夜ずっと、眠れなんだのじゃ。初めから――こなたを一目見たときから実は思うていたことだが、のう、アルドゥイン殿。こなたの得意の――もっとも得手とする得物は何であろう?」
「ことに得手というものも、ありませぬが――」
 アルドゥインはゆっくりと言った。いくぶんほっとしてもいた。
「師匠について習いましたのはレイピアですが、実際にはどちらかといえば、大剣、長剣を用いることが多いかと」
「大剣!――さもあろうな。まことの大将軍、大丈夫、大豪傑とし、刀子、弓矢、鎖鎌のごとき小細工はいたさぬもの。大上段、正面切って大剣と楯のみでわたりあう――それこそ、勇者の中の勇者、戦士の中の戦士というものじゃ。いみじくも申されたり、申されたり――さてこそ」
 リールはひどく芝居がかって手を叩いた後、髪に編みこんだ花とはひどくそぐわないけれども、実際の当人にはそのおぞましい媚態よりは似合う、武人らしいきりりとした表情になり、アルドゥインの腕をとらえた。
「このリール、女ながらいささか腕に覚えのある身の上と、かねてより多少なりともご存じであろう。一手、手合わせを所望したい。どのような形式にても構わぬ。一手、手合わせせよ。せっかくのペルジア訪問の置き土産――よいではないか」
 せっかくきりっとしていたのに、さいごに鼻息を吹いてしなだれかかった。セリュンジェははらはらして、しきりにアルドゥインに目配せした。面倒なことになったら困るから、適当に話をごまかして逃げてしまえ、と言いたかったのである。
 アルドゥインはそれへ、安心しろというように軽く頷いた。
「のう、いかがじゃ、アルドゥイン殿」
「それがしも、拝見いたしとうございますな」
 突然アヴィセン宰相がのそりと首をもたげた。
「それはよい。またとない好敵手、好機会だ」
 アダブル大公も手を叩いた。
「どうだ、アルドゥイン殿。娘のわがまま、聞いてやってはくれぬか」
「あなた、およしなさいまし。リールもお止しなさい。嫁入り前の女子の身に傷でもついたらどうするのです。それに娘の身で、殿方に戦いを挑もうとは、なんとはしたない、あらけない――」
 大公妃の言葉など、誰も聞いていなかった。
「どうじゃ、アルドゥイン殿」
「アルドゥイン殿、それがしからも、是非」
 さまざまに声が飛び交う中、アルドゥインは重々しい様子で頷いた。
「もとより、俺はあつかましくもお許しも得ずペルジア領内を侵犯し、あえてイズラルに押し入り、碧玉宮を汚したてまつりし不埒者、厳しきお咎めあってしかるべきところを大公閣下のご仁慈によってかくも厚きもてなしに与り、恐縮千万のところ――もしもさようの座興にて、このご厚情に幾分報いうると、閣下に思し召しであれば、むろん我にいかなる異論のあるべきかと」
「おお、では承知というのだな」
「こりゃ楽しみだ」
 再び声が飛び交う中で、リールが憤然として身を起こした。
「座興とは聞き捨てならぬ。わらわにはさらに座興のつもりはなし。アルドゥイン、真剣にてつとめよ。さもなくばそなたの一命、試合場にて申し受けるやも知れぬぞ」

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