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 あまりセリュンジェが狼狽するのがアルドゥインにはおかしくてたまらず、無理に笑いを堪えようとするので余計に痛い腹を押さえて、くっくっと笑い続けていた。むろんセリュンジェには彼が笑う理由が判らないし、馬鹿にされているとしか思えなかったので、驚き、怖がりながらも腹を立てた。
「お、おい、アルドゥイン。何がおかしいんだ。俺を笑いものにするんだったら、俺にも考えってもんがあるぞ……」
「いや、すまない、セリュンジェ」
 これ以上、気の毒なセリュンジェをからかっては礼を失すると考え、アルドゥインはようやっと笑いを引っ込めた。
「俺は幽体離脱をしたわけでもないし、ましてや千里眼、透視の術を使ったわけでもない。べつに魔道を使えるわけでもない。俺は一部始終をたしかにずっと見ていたが、しかしその場にいたのではなく、魔道師たちの言う異なる次元というものから、こちら側の世界を見ていたんだ」
「な……何だって」
「それは俺のしたことではなく、俺が捜し求めていた真の敵が俺の動揺を誘って付け入るべく、おのれの力をふるって俺に見せていたに過ぎなかった」
 セリュンジェはまた、今度はさっきよりもぽかんとした様子で目をぱちくりさせた。
「それじゃ、あんたは昨日その真の敵という奴――ペルジアを操っている当の本人ってやつを見つけ出したのか」
「そうだ」
「そしてそいつとぶつかり、戦った――と?」
「ああ。たしかに、敵の首魁を見つけ、戦った、と言えるだろう」
「そ、そんであんたは今ここにいる――」
 低い叫び声をあげていきなりセリュンジェは手を伸ばし、アルドゥインの腕をつかまえて、つねろうとした。
「くっそー、筋肉ばっかでつねれやしねえ。――だが、あんたはここにいる。幽霊じゃない。ということは、その戦いに勝ったのか。勝ったんだな?」
「いや、そうは言わない。といって負けたわけではないが、ある奇怪なできごとが起こって、奴は消え失せた。いわば一時休戦ということになったんだ。もっとも、相手が相手だから明日にも次のたくらみをのばしてこないとは言えないが――しかし大丈夫だ。やつが俺についてさまざまな情報を握っているのと同様に、俺もやつについていくらか知ることができたし、助けを得ることもできた。この次にはもっと巧みにやつの陰謀をかぎあて、叩き潰すことができる自信はある」
「で――で、アル。そのやつというのは誰なんだ?」
 焦れてセリュンジェは叫んだ。そして声を低めた。
「まさか、サライルその人だったとでも言うんじゃなかろうな。――教えてくれよ、教えろって!」
「サライル――ではないが、似たようなものかもしれない」
 アルドゥインは笑って認めた。
「何だって!」
「その相手の名はコルネウス――自ら名乗るところによれば《闇の導師》だった」
「コルネウス!」
 セリュンジェは驚きのあまり、声を低めることも忘れてしまった。
「《闇の導師》――とんでもねえな!」
「お前も知っているのか、コルネウスの名を」
「知らないわけがねえ! 《闇の導師》といやあ、伝説の魔道師、三大魔道師の一人、その中でもただ一人サライルに与し黒魔道をこととする、邪な力を振るう、サライルの祭司じゃないか。――もちろん俺たちみたいな普通の人間にとっちゃあ、大詩人オルフェだとかカシウス、アルカンドと同じく伝説上の人物、物語の人――かつては存在したかもしれないが今となっちゃあ伝説、神話にすぎぬものだけどな。その、コルネウスにあんたは会ったというのか」
「名乗るのが正しければ、な」
「俺が言いたいのは、コルネウスの弟子と言うやつで何代目かのコルネウスを詐称している輩がいるのだが、あんたが捕まったのはそういった手合いじゃなかったかと、そういうことだよ」
「いや、俺が会ったのは正真正銘、コルネウスその人であったようだ」
 クラメリウスの名を出すと、かわいそうなセリュンジェを驚かせすぎると思い、アルドゥインは黙っておくことにした。
「本当かい。信じられねえ。だがあんたが嘘をつくような人間じゃないっていうのは、俺がいちばんよく知ってる。あんたがそう言うからには、それは本当なんだな。――へええっ、コルネウスだと! そんな奴が、まだ生きてたのか。――何百歳という年だったんだろうな」
「その姿を見たわけではないから、さだかには判らんがな。もっとも、魔道というのは時と次元を操るすべであると俺は理解しているから、ことその奥義を究めた人間にとっては時間の長さというものも、我々のように時に縛られた人間とは、まったく異なる意味を持っているのだろうな」
「あんたが何を言ってるのやら、俺にはぜんぜんわからんよ」
 セリュンジェは尋ねたが、アルドゥインは笑って首を振っただけだったので、さらに考え込みながら尋ねた。
「そのコルネウスが本物のコルネウスだとするなら、まさしくそうだとすりゃ、あの恐ろしいアヴァールの森の怪異だって、まったく得心がいくってもんだ。しかし《闇の導師》が何だって、我がメビウスを陥れようとペルジアを動かしたりするってんだ。魔道十二ヶ条に反するじゃないか」
「黒魔道師にとっては十二ヶ条などあってなきものだからな。きゃつは実際のところ、この俺を傘下に加えようとして、この陰謀を企んだんだ」
 アルドゥインは言った。
「俺がお前たちを率いてイズラルに来ることまでを見越して。それゆえ、俺がメビウスに災いを招き寄せてしまったといっても過言ではないが……だが、もう心配はいらん。とりあえず脅威は去った。コルネウスはいったんとはいえその野望を捨てた。もうペルジアがメビウスを脅かすこともあるまい。その逆はあろうともな」
「ということはつまり――あんたは《闇の導師》コルネウスと戦い、やっつけ――その野望を打ち砕いた、と……」
「やっつけたというわけではないが、ともかく追い払ったことだけはたしかなようだ。俺にもそこのところはよく理解できていない。だが当分は出てこないだろう。その当分がいつまでになるかは神のみぞ知るところだが」
 アルドゥインはおだやかに言った。セリュンジェは何を言っていいものやら判らず、口をぱくぱくさせた。
「また、ばかに簡単そうにあんたは言うが――それじゃ、あんたは《闇の導師》コルネウスを見つけ出し――」
「向こうから出てきたんだが」
「そいつと戦い、打ち負かし……」
「というか、奴が勝手に逃げただけだぞ」
「メビウスの暗雲は払われた、と」
「皇帝に祝福あれ、だ」
「それをあんたはゆうべ、たった一人で、一夜のうちにあっさりやってのけたと、俺にそう言うんだな!」
「――そう言えるのだろうな」
「そう言えるのだろうな、だって!」
 セリュンジェは怒ったのか興奮したのか、顔を真っ赤にした。
「ともかく――俺に言えるのはだな、アルドゥイン! あんたは俺の知るかぎりもっとも大変な怪物か、もっともすごいほら吹きだってことだよ!」
 アルドゥインは笑っただけだった。セリュンジェはうろんそうにその様子を見た。
「あんたはまた、なんだか様子が違うな」
 またしても何かからかおうとしているのではないか、と言いたげに目を細める。アルドゥインは別に何も答えず、問い返すようにセリュンジェを見た。
「確かに違う。――もともとあんたはいざって時にはいくらも落ち着き払っていたし、はなから大人物だと俺は思っていたしそう言ったけどね。そういう所が何か変わったというわけじゃないが――見かけが変わったってわけでもないが――」
 セリュンジェは不思議そうに、アルドゥインの全身を上から下までじろじろと見た。それから、何かに思い至ったように頷いた。
「ものごとのうわべしか見ないやつには判らないかもしれないが――俺は、妙な言い方かもしれないが、あんたに惚れこんでいるんだよ、アルドゥイン。あんたのその外見や腕っぷしだけじゃなくて、その不思議な魂にね。だから俺にはわかる。あんたは変わったよ、アルドゥイン。悪い意味じゃなく、いい意味でね」
 セリュンジェはいったん言葉を切り、我が目の確信をもう一度確かめるように、じっとアルドゥインを見上げてから、また頷いた。
「何だか今朝のあんたは、何か吹っ切れたような、いい顔をしているよ。千騎長になってからこちら、いつだってあんたは大人で落ち着いていて、何でもできて、何でも知っていて、俺たちはそれについてきたわけだが、何かすると時折、暗い影みたいなものがあんたの上にあったんだ。だが今朝はそれがさっぱりと消えちまった。よっぽどいいことでもあったみたいだぜ」
 アルドゥインは何と答えたものかと一瞬迷った。それから大きく笑って言った。
「ゆうべのコルネウスとの戦いとも言えない戦いの中で、俺は捨ててきた過去と訣別できた――とでも言うのかな。アスキアでは、俺はもういない人間なのだと知った。気になっていた相手も幸せになっていたようだ。それで今こそ、俺は祖国に弓引くのではという心配も無く、晴れやかな心でメビウスを第二の故郷とし、イェライン陛下に剣を捧げることができる」
 セリュンジェは何か意外な事を聞いたように目をぱちぱちさせた。
「ちっとも気付かなかった。お前、そんな事で悩んでいたのか。ラストニアとメビウスが戦うことなんて、万が一にもあるまいに」
「それでも、向こうでの俺の立場というものがあったからな。だがそれも今では完全に過去のものとなったわけだ。俺は今朝まるで新しく生まれてきたような喜びを感じずにはいられない。セリュ、俺は――自由なんだ」
「アルドゥイン」
 セリュンジェは何とも言えぬ奇妙な調子で言った。
「――お前さんがそうして俺に打ち明けてくれるのは、ここ最近からだな」
 アルドゥインがまだ答えずにいると、セリュンジェは腰の大剣を抜き、柄をアルドゥインに向け、切っ先をおのれの胸に向け、彼の目を真っ直ぐに見ながら言った。
「セリュ?」
「俺は自由だ。あんたと同じように」
 セリュンジェは言った。
「俺はあんたに出会い、ディオン将軍の所に連れて行ったときからあんたが好きだし、すげえ奴だ、いい奴だと思ってた。今だって同じようなものだが、俺はまだあんたに剣を捧げてなかった。――今、俺は心の底から誓うよ、アスキアのアルドゥイン。あなたは俺の唯一にして無二の剣の主、我が主君だ。我が忠誠を試さんときにはいつなりともこの剣の柄を押し、わが命をとりたまえ。――今からあなたが我が王、我が剣と生命の所有者だ。あなたの剣がメビウスにあるゆえ、俺の剣もメビウスのために振るわれる。よろしければ我が王よ――剣を」
「セリュンジェ……」
 アルドゥインは驚いて、セリュンジェを見つめていた。だが彼の目に迷いがないのを見て取ると、剣を受け取ってその刃に重々しく口付け、向きを変えて彼の手に剣を返した。セリュンジェの目が輝いた。彼はその剣に同じように口づけると、神聖古代文字で忠誠の印を切って、音高く鞘に収めた。
「こ――これで、気儘な傭兵稼業ともおさらばってわけだ」
 いくぶん震える声を隠すように、セリュンジェはわざと陽気に言った。
「セリュ、またずいぶんと急に――」
「いいんだ」
 セリュンジェは照れ隠しのように、ずいぶん乱暴に遮った。
「タギナエ戦線から離脱したときから、あんたにいつか剣を捧げようと思ってたんだ。それが今日、あんたのさっきの告白を聞いたら、どうしても今だって気がしてしょうがなくってよ。――これもコルネウスの魔道かもしれないが」
「――そろそろ朝餐会の使者が来る頃だな」
「あったかい朝飯も悪くねえな。あの化け物どもさえいなけりゃね。あーああ、アルドゥイン、俺は何だか、一刻も早くメビウスに帰りたくなってきたよ!」
「実は、俺もなんだ」
「お前もか、アル。早くこんなけったくそ悪い所は切り上げて、なつかしのオルテアに戻ろうぜ。――しかし、あいつら……あのぞっとする連中さえいなけりゃ、イズラルだってそう悪くはないな。見ろよ、何だかやけに気持ちのいい朝じゃないか?」
 二人は黙り込んで、開け放たれた窓から明るい青紫に晴れ上がった空を見上げ、爽やかな朝の空気を吸った。小鳥のさえずりが小さく聞こえていた。

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