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「時が移るのを、おぬしが誰よりも切ながっておるのは判っておる。手っ取り早くすませることとしようか」
 クラメリウスの言葉にアルドゥインは頷いた。
「では少々目を閉じていてもらえぬか。開けていたいのなら構わぬが、あまり王にとって気持ちの良いものではないと思うのでな」
「《閉じた空間》か」
 アルドゥインは軽く頷いて目を閉じた。キャスバートの結界に入り込んだ時の感覚に似た、体がふわりと浮くような感じがした。その数瞬にも満たない短い間に、アルドゥインは目を開けてみたい衝動に何度か駆られたのだが、クラメリウスの控えめなだけに重い忠告を思ってそのたびにぐっと抑えた。
 浮遊感が唐突に失せ、体に重みが戻ってきた。まだ目を閉じていると、クラメリウスがもう目を開けてもよいと告げた。
「我が結界にようこそ、王よ。と言ってもまだ仮の居場所だが」
 そこはからりとした心地よい洞窟のような所だった。床は赤い煉瓦が敷き詰められており、壁はぴったりと組まれた石積みと漆喰でできていた。魔道の明かりがすみずみまで照らしている。空気は乾いており、かすかな薬草の香りが漂っていた。
「ここはイズラルなのか?」
 見回しながら尋ねると、クラメリウスは低く笑った。
「これは全て、頭の中に描かれた画像に過ぎぬ。実際には洞窟でもなければ、地上の何処でもない。わしの結界だと言うだけのことだ」
「ふうん……」
「イズラルのまじない師通りはごった返しておって空間があまりにも不安定なので、危険なのだ。とりあえずいちばん結界を張りやすい場所を選んで、わしの結界をくっつけさせてもらった。いずれもっと安全で良い落ち着き先を探してそこに移るが、当面のところはここでよいだろう。ともかく――ここは懐かしきメビウス、オルテアだよ。そうは思えなくともな」
「オルテア? 俺だけひょいと戻るわけにはいかないぞ。俺がいなくなったら皆がどれほど狼狽することか……」
「話が済みしだい、元のイズラルに戻して差し上げるよ。そう慌てることはない」
「……」
 《閉じた空間》なら数百バルを一瞬で移動できるとアルドゥインは知っていたし、クラメリウスの言葉にいつわりはないと判っていたので、口を閉ざした。クラメリウスはいつの間にか現れた椅子に体を伸ばし、アルドゥインにも勧めた。彼が座ると、次に手を一振りして青いガラスの杯を取り出した。
「さあ、飲み物を。あの電撃でかなり消耗したはずだ」
 アルドゥインはこわごわ杯に口をつけ、一口だけ舐めるように口に入れてみたが、次には一気に飲み干した。
「うまいな。それにさっぱりして、疲れが飛ぶ」
 クラメリウスは自分にもどこからか杯を出し、その中の飲み物をすすっていた。
「火酒に種々の薬草と、ちょっとした魔道の薬を混ぜたものだ。消耗にはそれが一番効く。それにおそらく、戻っても眠っているいとまはなさそうだからの。それに効きそうなものも混ぜてある」
「それはありがたい」
 アルドゥインは礼を言いながら、中身をすっかり干してしまった杯を卓の上に置いた。クラメリウスは心地よさそうに傾きのついた椅子の背もたれに体を預け、アルドゥインを満ち足りたような目で見つめていた。
「わしはべつだん、王の力を手に入れようだとか、それを使ってどうこうしようとは思わぬが、こうしておぬしの前にいるだけで、暖炉の前に温もっているようにわしの身体中に力が満たされていくのが判る。全く、素晴らしいエネルギーだ」
「俺にはそんなこと、ちっとも判らないんだがな」
 アルドゥインは怪訝そうに眉を寄せて呟いた。
「俺にも判らぬ理由で狙われるのは、判っているよりたちが悪いな」
「そうは言うてもな、王よ。その有り余る力によってコルネウスの術を破りもしたのだ。一概に要らぬものだとも言い切れぬだろう」
 クラメリウスが穏やかに言った。
「それは、そうだな。――ああ。忘れていた。どうして俺がコルネウスから逃げ出せたのか、それを教えてくれないか。判ればこれから後の対処も楽になるかもしれん」
「うむ。まずはコネルウスの使った術から説明しよう。あれは《思考の檻》という高等魔道の一つで、相手の心の裡、記憶を使って、相手を過去の《かくあれば》というような思いや自己の心の中に閉じ込めてしまうものだ。それゆえ、そこから抜け出すためには全く新しい自我を作りだすか、過去の絆を引きちぎるほどの強い現在への結びつきを必要とする。おぬしには何か過去と訣別し、現在に執着させるものがあったのだ。それを突破口として、おのれの心をおのれで克服したと言ってもよいだろう」
「よく……判らないが」
 光の爆発ともいうべきものの前に、いったい何があったのか、アルドゥインは考え込んでしまった。
「恐らく、何かのきっかけがあったのだろう。それと、おぬしの隠された力を引き出し、具現化するものが」
「うーん……」
 最後に見たのはキリアの花嫁姿だったと思い返しながら、アルドゥインは何気なく顎に手をやった。その時、腕に何か固いものが触れた。
「あ」
 慌ただしい手つきでアルドゥインは鎧下の胸元を探った。服の中から出した手には、何かが握られていた。クラメリウスにも見えるように手を広げると、そこには金と青紫のブローチがあった。
「もしかしたら、これかもしれない」
 クラメリウスが何か言う前に、アルドゥインは説明した。
「これはオルテアを出る前に、《星見》のキャスバートにもらったものだ。何かの役に立つかもしれない、と言われて」
 そしてたしかに役に立ったのであるから、さすが予言者と言わねばならないだろう。
「ほう、キャスバートか。あやつはわしの教え子の一人だ」
「閉じ込められていたのに?」
「先にも言うたが、肉体こそ閉じ込められても、幽体となればどこにでも行けるのだよ、わしは」
「ああ、それでか。……もしかして、これが何かの護符だったのか?」
「いや、これ自体にそのような力はない。王にとってこのブローチが、過去を断ち切る原動力となるほどの物――あるいはそのきっかけとなったものと一番共鳴しやすかったものだったと、それだけのことに過ぎぬ」
「原動力……」
 考えて、アルドゥインは急に赤面した。何がきっかけとなったのか、急に思い至ったのである。
 キリアの髪に飾られていたエウリアを見て、《ロザリアの君》が髪に飾っていたロザリアを思い出した――というのが、アルドゥインが思い至ったきっかけだった。それで、そこがおのれのいるべき場所ではないと気付いたのだ。
 しかしメビウス皇帝に剣を捧げ、この国を守ろうと心に誓ったのが、一目ぼれした《ロザリアの君》がいるからという単純極まりない理由であり、ブローチをもらうに至った経緯もまた、それが彼女の髪飾りに似ていたから買おうとしたという、他人にはあまり言えない理由だった。
 クラメリウスは無言だったが、アルドゥインの表情を面白そうに見ていた。彼にはおそらく何もかも判っていたのだろう。
「王よ、そう照れることもない。キャスバートも言っただろう。獅子の星とロザリアはヤナスの糸に結び付けられているのだ。おぬしがその絆を忘れぬかぎり、コルネウスに付け入る隙はない」
「前から気になっていたんだが」
 アルドゥインはまだ頬を赤らめたまま言った。
「あなたたちが言うロザリアというのは、誰なんだ? 俺の知っている――思っている女なのか?」
「おぬしはいずれロザリアによって王となるだろう。だがそれが誰であるのかはおぬし自身が見つけ出さねばならん答えだ」
「魔道師らしい答えだ」
 彼は嘆息した。それからこっそりと心の中で付け加えた。
(まあいいさ、誰か知ったって、どうせ俺があのひとに片思いしているという事実に変わりはないんだ)
「ほかに、わしにできる範囲で解きたい謎などはないか?」
 しばらく考えて、アルドゥインは首を振った。
「特には無いな」
「そうか。では王をイズラルに――碧玉宮の元の場所にお戻しして差し上げるとしようかのう」
「ああ、頼む。いろいろと世話になったようだ」
「救ってもらった礼に比べれば大したことではないがな」
 クラメリウスは笑った。その手が素早く動いて魔道の印を切った。《閉じた空間》が使われるのだと悟って、アルドゥインは目を閉じた。
「では王よ、いずれオルテアで」
 それが彼からの別れの言葉となった。
 ふと気付くと、さわやかな風が頬を撫ですぎていった。空気の中にはアラリアの甘い香りが夜明けを迎えて強く香っている。空を見上げれば夜の名残は西にうっすらと残るばかりで、東の空には最初の暁の光が射し初めようとしていた。もう、朝である。
 そこはイズラルの碧玉宮の、中庭であった。
 宮廷はそろそろ起きはじめたようで、ひそやかな気配が動きはじめているのが感じられた。アルドゥインはたった今悪夢から覚めた人のように周りを見回した。それから何とも言えない、苦笑のような笑みをふっと浮かべて、身を翻して歩きはじめた。
 すばらしい方向感覚でもって、碧玉宮の入り組んだ廊下を長いこと伺候している者のように大股に歩いていく。途中、すでに宮殿の中を行き来している侍女や下働きたちが、賓客の姿をそれと見知って、はっとしたように廊下の隅に寄り、礼をする。
 アルドゥインはまずウジャス帝の御座所の棟に入っていった。老人ばかりの帝の側近は周りにも増して朝が早いらしく、もう朝食の支度などもとっくに済んで、人々は一服しているようであった。
「あ、アルドゥイン!――いや、千騎長閣下!」
 小姓の知らせを聞くなり飛び出してきたセリュンジェは、ほとんど嬉し泣きしかねないようすでアルドゥインに飛びついた。
「俺あもうこの一晩、気が狂うかと思っちまった。こんなに長い一晩ってのは、一生に何度もあるもんじゃねえ。俺は結局、まんじりともしなかったよ。あんたがどこで何をしているのか、無事でいるのか、俺の助けを必要としちゃいねえかってのと、あんたに俺を見込んで頼まれた皇帝陛下にまかりまちがったって何かあっちゃあならねえってな! まったく何て夜だったか。ああ。――そうだ、あんたにとったって驚くような客が、夜遅くにあったんだぜ。それというのも――」
「エトルリア公使ガオ・スンがウジャス陛下に内密の謁見を願いに来たのだろう。お前が招じ入れると、彼はエトルリア大公サン・タオの名においてウジャス陛下をエトルリアに迎え、その護持を引き受けたいと申し出た」
「そうそう……ええっ?」
 気の毒なセリュンジェは目を白黒させ、しばらくぽかんと口を開けて、化け物を見たような目でアルドゥインを見た。それから自分を無理やり納得させたような不自然な笑みを張りつけて弱々しく言った。
「お前さんは、俺をおどかして面白がってるんだろ、大将。あんたがふつうの人間とちょっと違うってのは前からよく判ってることだが、それにしたってこれは行き過ぎってもんだ。第一あんただってなりは普通の人間なんだからな。あんたは、誰か――ガオ・スンのおっさんか、あの老いぼれ小姓の誰かからでも話を聞いたか、それともいつもの推測か、あてずっぽを言ってるんだろ」
「さて、どうだろうな」
「まさか俺もあの場に一緒にいた、なんて言わないでくれよ。言うんじゃないぞ」
「生憎だがそのとおりだ。俺はあの場にいて、一部始終を見ていた」
 アルドゥインはくすくすと笑った。セリュンジェは目が飛び出すのではないかと思われるくらい見開いた。
「ば――ば――ばか言うな。そんな事で俺をからかうのはよせよ。たしかにあそこにあんたは居やしなかった。そいつは俺の首を賭けたっていい。間諜がいやしないか調べ回ったが、あそこには人が隠れられるような場所は無かったし、入口は俺がずっと見張ってたんだから。そんな手で俺を驚かそうなんてのは、なしだぜ」
「そうか?」
 アルドゥインはまだ忍び笑いをとめなかった。このいたずらが楽しくてしょうがなかったのである。
「ガオ・スン公使は顔に覆面をして、黒いマント姿でたった一人現れた。セリュンジェが自分で帝の寝所まで案内し、そして帝は起き、萌葱色のガウンを肩からかけておられた。公使はベッド近くにある茶色の革張りの椅子に腰掛け、お前は入口で剣を抱いて番をしていた」
「おい――」
「ガオ・スン公使はこう言ったはずだ。――ペルジア大公はもはや信ずるに値せず、陛下には早々にペルジアに見切りをつけられ、いっそこのさい御座所を」
「うわあああ、ちょっと待て、アル!」
 セリュンジェは周りの老人たちが驚くほどの大声を上げてアルドゥインの言葉をぶち切った。ついでにアルドゥインが魔のものではないかと恐れるように、二、三歩じりじりとあとずさった。その精悍なおもてに、明らかな恐怖の色が浮かんでいた。
「お――お前、ほんとにあの場所にいたのかよ……いや、そうでなけりゃそんなことまで知ってるはずがねえ。じゃああん時、あんたは部屋にいたのか。俺には何も見えやしなかったが、あんたはどっかに隠れてたのか。でなけりゃ千里眼か、黒魔道か……」
 セリュンジェは唇をわななかせた。

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