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     彼はオルテアで運命に結ばれた友と別れた。
     しかしいまや彼はペルジアで
     《北の賢者》を友に得たのである。
               ――メビウス年代記




     第一楽章 北の賢者




 コルネウスの仕組んだ罠によって、アルドゥインは自分自身の心――追憶という名の亡霊に、あと一歩で押しつぶされるところであった。何がきっかけとなって闇を破ることができたのか、それは彼自身にも判らなかった。
 気がついた時、アルドゥインはふたたび暗闇の中にいた。
 しかしその闇はあのコルネウスのおそるべき暗黒世界ではなかった。それというのも、かすかな湿っぽい、かびくさいようなにおいがして、そこが地下であることがすぐに判ったのである。だがどうして自分が、中庭でも泊まっている部屋でもなく、こんな所に移ってきているのかまでは判らなかった。
 すでにコルネウスの気配はきれいさっぱりと消え失せており、彼自身が引き起こした光の爆発の名残も消え去っていた。
 ともかくも自分の居所を確かめなければならないと思い、アルドゥインは闇の中に目を凝らした。その時であった。
「危ないところであったな、王よ」
 低く、嗄れた――それでいて聞き取りやすい、快い声が足元から聞こえた。
(足元?)
 何気なく下を見やり、一瞬、彼の全ての動きが止まった。
「うわああっ!」
 その空白の後、アルドゥインは驚きの余り飛び上がりかけた。しかし飛び上がらなかったかわりに変に足をもつらせて、後ろにしりもちを突いてしまった。
「な……なんだ、これは」
 アルドゥインの恐慌がその程度で済んだのは、彼にとっても相手にとっても幸いであった。もうコルネウスにさんざん奇妙な体験をさせられていたもので、少しばかり妙なことには動じない程度にはなっていたのである。それにしても、彼の目の前にあるものは少々どころでなく奇妙な光景であった。
 石の床に、老人の頭だけがぽつりと置かれている。
 いや、置かれているのではない。まるで石の中に沈んでいるか、石から生え出したかのように、老人の首は自然に石へとつながり、そこで途切れているのである。暗い地下ではっきりとそれを見ることができたのは、老人の周りだけが青白くぼんやりと光っていたからであった。
 それは、心弱いものであれば悲鳴をあげ、狂うのではないかと思われるほどぞっとする光景であった。この老人の顔が理知的で、気高くさえなかったならばおそらくそうなっていたことだろう。アルドゥインはあまりの驚きにしばらく言葉も忘れて、老人の首と対峙していた。
「誰だ、お前は」
 ようやっと、アルドゥインは身を起こした。立ち上がるとあまりに身長差がありすぎるので、床に跪くようにして首と向かい合った。首だけの老人は何か満足そうな笑みを目に浮かべ、ちょっと首を動かした。
「お目にかかれて光栄に存ずる。運命の愛し子の一人――獅子の王よ。もっとも、わしはこのようなざまで礼をすることもかなわぬが、その無礼は平にご容赦」
「減らず口を叩くところからすると、お前は魔道師だろう」
「そのとおり。しかし安心めされよ。コルネウスはもうおらぬ」
 アルドゥインは頷いた。
「ああ――お前はコルネウスではないな。魂の色合いからしてすべてが違うから、それと知れる。コルネウスは行ってしまったのか」
「コルネウスはもはや碧玉宮にも、ペルジアにもおらぬ。王よ、おぬしが発した力によって術を破られ、撤退せざるをえなくなったのだ。しかしおぬしも危ういところであった。というのもおぬし自身もその力によって異次元にとばされかけるところであったのだ。わしがつかまえ、ここに引き止めねばどうなっていたことやら」
「どういうことだ?」
「あの馬鹿者のコルネウスも言っていたように、おぬしの精神の力というものは非常に大きいわけでな。それがさっきの瞬間おぬしの無意識下で魔道的な力に変換され、コルネウスの術を破ったのだ。だがおぬしは魔道師ではない。それゆえ、コルネウスの作り出した結界のある異次元からは出られなかったのだよ。どころか、そのあまりのエネルギーゆえに別の次元にまで飛ばされかねないところであった」
「それで、おま――いや、あなたが助けてくれたと、そういうわけか」
 まだ何か納得いかぬように、アルドゥインは首を傾げながら言った。
「話は変わるが、どうしてこんなところに埋まっているんだ?」
「別にわしとて趣味でこうしておるのではないよ」
 首の老人はかさついた笑いを上げた。
「閉じ込められたのだ。コルネウスにな」
「コルネウスにか」
「ここから出してはもらえぬか」
「魔道師なのだろう。自分で出てこられないのか」
「封印されているのだ。本来ならばコルネウス如きに一歩もひけをとるようなわしではないのだがな」
 残念そうに、老人は言った。
「俺に封印がはがせるのか?」
「おぬしでなければできぬのだよ」
「助けてもらったようだし、見捨てていくのも気分が悪いな」
 口の中でアルドゥインは呟いた。そしてふと、眉を寄せた。
「助け……」
 彼の答えを待っているらしい、老人の首に目をやる。彼の内なる考えを読み取ったように、老人は言った。
「王はわしをこの幽閉から救い、わしはそれを非常な恩義に感じ、そののち数十年にわたってその助けとなろう。そのように、星にあらかじめ決められており、星のとおりに導かれてきた。そしてその時は今なのだよ」
 その言葉を聞いて、アルドゥインの中でわだかまっていた不信と疑惑はいっぺんに解け去った。
「俺がペルジアで力強き助けを得るだろう、という予言を受けていたが……。それはあなただというわけか」
「そのように信じてもらえれば嬉しいが」
「今まで当たってきたことだ、信じるさ。では、まずはあなたを助けるとしよう。俺は何をすればいい?」
「わしの言う石を探してくれ。わしのいるこの石からおぬしのほうに三つ分たどったその右の石だ」
「一、二、三……これか」
「それが封印の石だ。引き抜いてくれ」
「うわっ! びりっときやがった」
 石に触れてみて、アルドゥインは思わず毒づいた。
「うむ。電撃が走るのが、封印の証だ」
 アルドゥインは言われたとおり、石の隙間に短剣を突き刺し、土を掘り起こした。それからびりびりと電気のようなものが腕から体の中心めがけて走るのに耐えながら石に指をかけ、力を込めた。
 たえず電撃が襲ってくるというのもあったが、これはなかなかに重労働であった。アルドゥインは短剣を梃子代わりに使って、顔を真っ赤にして力を入れた。一分か二分ほど格闘を続けた末、やっと石はごろりと引き抜かれて転がった。老魔道師がおもわずといったていで歓声をあげた。
「なんと! 本当に封印を力任せにひきちぎってしまうとは」
「褒めなくたってやってやる。それより、このびりびりくるのはどうにかならんのか」
「すまぬがあともう四つ、同じことをしてもらわなければならぬ。封印の石で作られた五芒星を崩さねばならぬのでな。慰めにはならんかもしれぬが、わしはもう長いこと、この電撃に漬けられておるのだ。それを思えば大したことではないと思ってくれ」
「たしかに。次は?」
 アルドゥインはもういっさい余計なことを言わず、彼の指示する石を掘り起こし、抜く作業に入った。
「それで――あなたの名前は何という?」
「我が名はクラメリウス」
 その名乗りは昂然としていた。
「世に知られる三大魔道師の一人、《北の賢者》クラメリウスとはわしのこと」
「それが、捕まったのか。どれくらい長く?」
「ここは碧玉宮の地下牢の最奥部だ。そしてわしは、この城ができたときからずっと捕らわれていたのだよ。コルネウスと、その部下の今はもう死んだであろう数百人の木っ端魔道師どもが、わしを捕らえて閉じ込めたのだ。油断しておったよ。そうでなければわしはみすみす捕まりはせんだったろう」
 クラメリウスが言っているあいだに、二つ目の石が抜き出され、彼は三つ目の石の位置を伝えた。
「どうしてまた捕まえられたんだ。敵対でもしていたのか」
「というより、わしが奴の仲間にならなかった腹いせだ。おぬしと同じように、奴の力にならぬと言うたら、このようにな。まあ退屈はせんかったよ。本体はこのように五百年も閉じ込められておったが、幽体は抜け出してどこにでもゆけたからな。おかげで人々にも忘れられずにおられた」
「気になっていたことがあるのだが」
 アルドゥインはびりびりくるのに閉口しながら石に指をかけた。
「俺がなぜあやつの術から逃げ出すことができたのか、それがどうしても判らん。あなたが助けてくれたのは、俺が術を破ったその後なのだろう?」
「お答えすることはできるが、その話はこの嫌らしい石の獄舎を抜け出て、結界を張ってからゆるりとしよう」
「そうか……三つ目! 次は」
 アルドゥインは汗を拭った。
「あと二つだ。頼むぞ」
 四つ目の石はこつを覚えてきたこともあって、比較的すぐに抜くことができた。すると不意に、ぐらぐらと空間全体が動き出すような揺れがあった。驚いて周りを見回すと、クラメリウスが言った。
「早くしないとコルネウスに見つかってしまう。そうすれば今度こそわしは奴の望むよう永劫の地獄に閉じ込められ、おぬしは奴の術中に落ちてしまう」
「判った。最後の石は……これか」
 五つ目の石は先の四つよりも重く感じられた。しかしこれが最後と指が白くなるほど力を込め、何とか持ち上げた。そして塔が倒れるのではないかと思われるほど鳴動するのも構わず、えいと掛け声もろとも石を引き抜いて投げ捨てた。
「これでいいのだろう」
「なんとまあ、凄い力だ」
 クラメリウスは驚きを禁じえない様子であった。その首がにゅーっと伸び、体が石から抜け出てきた。そこに現れたのは、白い道服を身につけ、腰には祈り紐を巻きつけたいでたちの、背の高い、痩せた、年老いた男の姿であった。首だけだったときと同じように、瞳には炯々たる光を浮かべ、この老人がただ者ではないことをうかがわせた。
「かたじけない。クラメリウス一生の窮地より救い出していただき、この恩義はクラメリウス終生忘れぬことでしょう。これより後わが忠誠と友情は獅子王のもの、この言葉を違えしとき、我が全ての魔道の力はとけ、この身は地獄に落ちることでありましょう」
 クラメリウスは限りなく優雅な動作で膝をつき、礼をした。彼が封印を解かれて現れたときから、地下牢の中は彼の首だけが放っていたときと同じような淡い光に満たされていた。しかしその光に浮かび上がったものは、あまり気持ちのいい光景ではなかった。拷問で死んだ人間の死体や、引き裂かれた手足を次々放り込んでいたのだろう。二人の足元には白骨化した髑髏や折れた手足の骨が散乱していた。
「俺こそ、助けてもらった礼をしたまでのこと」
 アルドゥインは陰惨たる光景にあまり心を動かされたようでもなく言った。
「ではここから抜け出すこととしよう。とりあえず安全な所に結界を張るのでな」
「待ってくれ。あまり長いこと碧玉宮を空けるわけにはいかないのだが」
 アルドゥインが慌てたように言うと、クラメリウスは笑った。
「それほど時はとらぬつもりだ。わしとて、抜け出したばかり。隠れ家を用意する時間も欲しいのでな。いずれオルテアでゆるりと話をいたそう。が、うつつの時はサライアの刻がそろそろ告げられようかという頃。安心召されい」
「そうなのか」
「ともあれ、先程王が口にされた疑問にお答えするだけの時間をとらせてもらえぬか?」
「それは、無論。俺が尋ねたことだからな」
 アルドゥインは頷いた。

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