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     「そなたに生を与えたのはサライルの闇。そなたの
     身の内には闇が流れている。それゆえサライアは
     そなたを呪い、そなたは二度と再び(あした)を見るは能わぬだろう」
     はや夜も過ぎゆきて サライアが天を照らし始める。
     老婆らはいずこかに消え失せ、やがてミロエもまた
     未だ深き森の闇にその身を沈めたのであった。
                                    ――「ミロエの歌」
                                ティフィリス叙事詩集より




     第二楽章 闇に潜みて




 飾り彫りが細かくなされた柱が立ち並ぶ回廊を抜けて、アルドゥインは前庭に出た。月明かりに照らされたルテアの花が、白く輝いている。彼の影が花の上にくっきりと黒く落ちている。
 ルテアには香りがないから、ほのかに甘く香るのは、隣の庭に咲き乱れていたアラリアだろう。風に震えるルテアの白い花弁のたおやかな風情にも、月の美しさにも彼は目を向けず、探るような目を四方に向ける。
 しかしこの清かな夜に、どこかねっとりとしたような、まとわりつくような空気が忍び込みはじめていた。月光は明るくはあったが清冽さを失い、闇がじわじわとその領域を広げている。地面は歩くたびに名残を惜しむようにアルドゥインの足にまとわりつき、花は吸血蔦のように葉を伸ばす。
 何かが、こっそりとした忍び笑いを漏らすような雰囲気が大気に満ちた。風は動きを止め、ルテアはさわさわ言うのを止めた。アルドゥインはいったん立ち止まり、何気なく振り返った。
「――気のせいか」
 呟いて、また歩き出そうとする。すると再び、闇はねっとりと絡み付きはじめ、あやしい愛撫を加えようと忍び寄る。ルテアの上に落ちているアルドゥインの影――彼の姿をうつしてすらりと伸びた影――それはいまや、月の傾きを無視してぶるぶると震えながら伸び、やがて柱にたどり着いて上に伸びだした。
 影はアルドゥインの足元から離れ、彼から影は失われてしまった。だが彼は背後の異変に気づかず、何かを探して歩き続けている。アルドゥインから離れた影は地面から浮かび上がり、完全な姿となった。
 白いマントをまとったアルドゥインと、その背後の漆黒の影。気づかぬかと見えたが、アルドゥインは足を止めた。濡れた闇の色を宿す瞳が鋭い光を帯びて、背後にゆっくりと緯線を動かしていく。
「誰だ?」
 アルドゥインはやっと振り向いた。
 そこに立っていたのは、一人の騎士だった。
 かぼそくはないけれどもほっそりと引き締まった長身に、今にも戦闘に向かうかのように隙もなく鎧をまとっている。右の肩に金の肩章で留めた黒いマントはたっぷりと長く、左肩に軽くかけて背中に流してある。兜はかぶっていなかったので、騎士の顔は月光の下ではっきりと見て取ることができた。
 月をあざむく白い肌、深く透明な、神秘的ですらある緑の瞳。そして血のように赤く長い髪――。
「アインデッド……」
 アルドゥインは思わず呟いた。
 紛れもなく、そこに立っていたのはアインデッドだった。よく似た別の人間とは思えない。双子でもこうはいくまいと思われるほどに同じ姿であった。別人ということも考えられなかった。あの印象的な姿を、たった二、三ヶ月で忘れられようはずもない。
 だが彼が覚えている年若の陽気な友人の面影と、この突然現れた相手は奇妙なまでの違和感を覚えさせた。快活さの代わりに隠しても隠しきれぬ邪悪さが潜み、全身を小暗いオーラのように覆っているかのようであった。
「お前は、誰だ?」
 虚を突かれたような形となったが、相手をきっと睨みつけ、アルドゥインは強い調子で問うた。決して大きな声にはならなかったけれども、充分に相手を威圧するだろう響きを持っていた。
「俺を忘れたのか? アルドゥイン、それとも判っていて訊いているのか」
 笑うように、にせのアインデッドは言った。
「だとすれば随分とひどい言いぐさだな」
「ふざけるな。お前がアインデッドだと? そんなことがあってたまるか。もし本当にお前がアインだというのなら、どうしてこんなところにいる」
 アルドゥインはなおも表情を緩めぬまま、まっすぐに指を突き出してにせアインデッドに指しつけた。
「ペルジアに仕官した、ということを考えてみないのか?」
「その鎧はペルジアのものじゃない。それに、アインデッドがペルジアなんぞに仕官するものか。あいつはこの国程度でおさまる器じゃない」
 だがにせアインデッドは喉の奥で笑うような声を出しただけだった。
「俺はアインデッド以外の何者でもない。お前が疑うのだとすればそれは俺が未来の俺だから」
「未来だと?」
 アルドゥインは訝しげに眉を寄せた。
「そのとおり。俺は偉大な黒魔道師、闇の導師の助けによって、現世での大いなる力を手に入れた。そして闇の導師の助力を拒む愚挙からお前を救ってやろうと、導師自らの意向を受けてこうして過去へやってきたのだ」
 にせのアインデッドは大仰に両手を広げた。一瞬呆気に取られたような顔をしていたが、アルドゥインはすぐに調子を取り戻した。
「嘘をつけ。時間をさかのぼるなんて事ができるものか」
 まだわからぬのかと言いたげに、にせアインデッドは首を振った。
「神ならぬ人の身にはな。強大な魔道師には造作もないことだ」
「いいかげんに、そのふざけた変装をやめろ。あいつなら誰の力を借りずともおのれの望みを成し遂げられるだろうし、もし助けを求めるとしても、黒魔道師ごときに頼るはずがない」
 きっぱりと言い切ると、にせアインデッドは少々気分を害したように顔を歪めた。アインデッドではない相手が彼の姿と声で話しかけてくるというこの状況に、アルドゥインはそろそろ本気で腹を立てはじめていた。
「さあ、さっさと正体を現せ。俺にはもう判っている。お前こそが闇の導師、コルネウスとかいう魔道師だろう!」
「つくづく気に障る言い方をする小僧だな」
 にせアインデッドは舌打ちして言った。その声は聞きなれた友のものではなく、つい先日ヒダーバードで聞いたあの宇宙的な声と化していた。姿と声の奇妙なギャップに、アルドゥインは背中がむず痒くなった。
「そんなに気に障ると言うのなら、俺の目の前に現れなければいいだろう」
「言うほど簡単にはいかぬのがものごとというものでな」
 というのが相手の答えだった。
「わしの望みを成就させるためにはおぬしほどの大きな力を持つ人間がどうしても必要なのだよ」
 彼が何を言いたいのか判らなかったのでアルドゥインは無言のままでいた。にせアインデッドはちょっと肩をすくめて、続けた。
「まあ、よい。獅子の王にその気がないのなら、なるまで待つだけのこと」
「だったらさっさと自分の結界にでも帰るがいい。俺が何のためにペルジアくんだりまで来たか、貴様は知っているのだろう。だからこそこうして、貴様の罠だと判っていてわざわざ手に乗ってやったんだ。だが俺には貴様と悠長に遊んでいる暇はない。もっとも、貴様がまだペルジアを操り、メビウスに害を成そうというのならば話は別だがな。貴様を斬るなりして、二度とペルジアを牛耳り、我がメビウスを煩わせることのできぬように追い払ってやる」
 アルドゥインはかなり強い語気で断言した。にせアインデッド――コルネウスはまた肩をすくめた。
「どうも王は誤解しておられるようだ」
「何が、誤解だ」
「わしがおぬしをどうこうしようというのでペルジアを操り、そして哀れなペルジアを滅ぼそうとしている、というのだよ! どうせこの国はいずれ自ら滅ぶ運命にある。わしが介入するまでもなく、な。死期をほんの少々早めてやっただけのことで、めくじら立てるほどのことでもないわ。わしはきっかけを与えてやったに過ぎぬ」
「ものは言いようだな」
 感心したでもなく、アルドゥインは言った。
「まあ、王にわざわざ嫌われることもない。わしはもうこの腐れたろくでもない国からは撤退し、美しき魔道の都にでも新たな拠点を作ることとするよ。その前に、面白いものを見せてやろう」
「貴様と遊んでいる暇は――」
 にせアインデッドはアルドゥインの言うことなど聞いておらぬていで、何かの印を切る仕種を始めた。
「そう、つれなくすることもあるまい。きっと王にも楽しい見ものであることは保証しよう。この腐れきった宮廷の裏側など、わしは随分楽しませてもらったよ。王にも参考になることであろう」
「覗きか。趣味が悪いな」
 もう諦めて、アルドゥインはため息をついた。呪文らしきものを唱え終わったにせアインデッドは満足そうに頷いた。
「覗きではなく、人間観察と言ってもらいたいものだな。――さて、これで我々の姿は透き通り、空気や風のごときものとなった。もはや誰の目にも映らぬ」
「そんな馬鹿な」
 アルドゥインは言ったが、次の瞬間二人の体はふわりと浮き上がり、すうっと流れるように移動を始めて回廊の中に戻っていった。向こう側から燭台を持った侍女が歩いてくるのを見て、アルドゥインは思わず身を隠す場所を探したが、鎧姿の男が二人もいたらびっくりするはずなのに、彼女は彼らの真横を知らぬ顔で通り過ぎてしまった。
「ほれ、心配することなど無いだろう」
 にせアインデッドが自慢げに言った。アルドゥインはまだ首を傾げていた。
「今のはどういう手妻だ? コルネウス」
「手妻というほどのことでもない。説明したところで理解できるとは思えぬが、要するに《閉じた空間》と同じ原理じゃよ。我々の体だけをこの空間と並列する別次元に移し、精神だけをこの空間に重ねているのだ」
「魔道か」
 いくぶんほっとしたように、アルドゥインは呟いた。理論自体は判らなくても、とりあえず理論があるというなら安心できたのだ。今夜は解放してもらえそうにないと判断してから、アルドゥインはすっかり居直った気分になって、落ち着いてしまった。
「それはそうと貴様、いつまでアインの姿をしているんだ。はっきり言ってその顔でその声と話し方で喋られると気持ち悪いぞ。いい加減に正体を見せたらどうだ? そもそも何でアインデッドなんだ」
 作られたアインデッドの体を見下ろし、コルネウスは答えた。
「おぬしとこの少年の関係など知らぬよ。おぬし自身の心にいちばん強く刻み付けられていた姿をちと借りて細工しただけだ。しかしまあ、随分と美しい少年ではあるな。関係については後日にゆくりなく聞かせてもらいたいものだのう」
「た、だ、の、友、人、だ」
 一語一語をことさら強調して、アルドゥインは言った。
「ではそういうことにしておこう。まあ、これはわしの茶目っ気だと思っておればよかろうの」
「悪趣味だな」
 アルドゥインは嫌な顔をした。コルネウスは気にしたようではなかった。二人の体は再び宙に浮かび上がり、移動を始めた。壁にぶつかってしまう、とアルドゥインは目をとっさに閉じたが、体は本当に色のついた空気だとでもいうように壁をすり抜け、天井を通り抜けた。
 驚いて目を開けてみると、眼前にはアルドゥインたちにあてがわれている室よりは高級な、明らかにペルジア貴族の滞在用とおぼしき光景が広がっていた。そこは花柄の壁紙や調度品からして、一見して婦人室と判った。続いて入っていった部屋が寝室であることはすぐに知れた。部屋の真ん中にかなり大きな寝台が置かれている。
 アルドゥインは室内をちらりと見たなり、寝台から目をそらしてしまった。それも無理は無い。その豪華な金襴のカバーがかかった上で、一組の男女がせっせと夜の営みに励んでいる最中だったのだ。
 女は四十がらみでゆたかな肉付きをしており、年のわりには見事な体型を維持していた。男のほうはもう少し年上で五十になるならずと見え、あまりぱっとしない、特徴の無い男だった。
「あれは近衛長官のリースだ。女のほうはアヴィセン宰相の妻、アルチーナ夫人」
 親切にも、コルネウスは聞きもしないのに解説を始めた。
「アルチーナ夫人はアヴィセンの後妻だ。リース長官はアヴィセンの先妻の娘を妻にしている。アルチーナ夫人の前の夫だった男爵は実のところ、リース長官と図って毒殺したのだ。あの二人はそのころからの長い不倫関係を続けている。だがリースは凡人のくせに野望だけは大きくてな、アヴィセンの娘婿の地位をみすみす棒に振る気はない。あの夫人もそのことは良く判っているのだが、どうすることもできんでいる。それで復讐のためにアヴィセンをたらしこんで後妻におさまったというわけだ」
「だから何なんだよ」
 アルドゥインは不機嫌に言った。
「俺には関係ないだろう」
「まあ、そう言うな。寝取られ夫が何をしているか、ちと見てみぬか」
 くすくす笑いながらコルネウスは言い、ぱちりと指を鳴らすと二人はまた流されるように動き出し、次の部屋に移っていった。
 そこではアルチーナ夫人の夫、つまりはアヴィセン宰相がこれまた同じようにベッドで奮戦中だった。その相手というのは、彼の小姓なのだろうが、まだひげも生えそろわぬ十七、八の美少年であった。
「見てとおりアヴィセンはシルベウスの病もちで、実のところ娘というのも先妻が他の男の間に勝手に作った子供に過ぎん。皆そのことは知っているが何も言わない。他の男というのがアダブル大公だからな」
「どこにでもありそうな話だな」
 興味の無いことをはっきりと示して、アルドゥインは呟いた。二人はふわふわと漂いながら、廊下に出た。

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