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 アインデッドの姿で喋りつづけるコルネウスへの違和感とどうしようもない嫌悪感は、そっちの方を見ないことでなんとか折り合いがつけられるようになっていたので、アルドゥインは先程よりも幾分かまともな受け答えをしていた。
「――にしても、夫を毒殺するとはおだやかでないな」
「安心するがいい、獅子王よ。因果は巡ると申すもの、あの不倫者たちもいずれ、二十年にもおよぶ邪な関係に、自らの命で終止符を打つときがやってくる。リースはやがてアルチーナよりももっと若くて美しいある女官との恋にうつつを抜かすようになり、捨てられた夫人は彼と心中を図るがかなしいかな、自分だけが死ぬ。しかしリースも立場と面目を失い、一人寂しく巡礼の旅に出る。とまあ、こういうことになっている」
「ふうん」
「疑うのなら、未来に時を進めて見せてやってもよいのだぞ」
 気のないアルドゥインに、むっとしたようにコルネウスが言った。アルドゥインは否定の意思を込めて首を横に振った。
「見てどうすると言うんだ。くだらん」
 アルドゥインは吐き捨てた。
「くだらんだと? 恋や執着こそが、人が最も多くのエネルギーを注ぎ込み、全てをなげうつほどにのめり込むものなのだぞ。そういうおぬしは恋情の恐ろしさの何を、男女の何を知っているというのだ? どうせまともに女と付き合ったこともないくせに」
「俺だって恋くらいしたことはあるぞ」
 アルドゥインはむっつりと言った。
「ほっほ、それは麗しのキリア姫が相手か。おぬしに去られてから彼女がどうなったのか、知りたくはないか?」
「俺にはもう関係のないことだ」
 しかし彼の声の調子が揺れたことに、コルネウスは気づいていた。
「何とまあ、情の薄い男だ。キリア姫はおぬしの身を案ずるあまり、長き病の床に就いたというのにな」
「えっ?」
 初めて、アルドゥインは動揺をあらわにした。
「やはり気になるのだろう。彼女の顛末が聞きたければ、もう少しわしの気晴らしに付き合ってもらおう」
「……」
 まんまと乗せられたと気づいて、アルドゥインは苦い顔をした。コルネウスはますます愉快そうに、アインデッドの顔で笑った。
「そう怒らずとも、おぬしの家族についてもわしの知るかぎり教えてやろうからに」
「結構だ!」
 アルドゥインが声を荒げたのを無視してコルネウスが呪文を唱えると、彼らの体はまた漂いだして、碧玉宮のさらに奥部へと進んでいった。今度はアルドゥインも慣れてきていたので、騒ぎ立てはしなかった。それにしても、もし彼らを見ることができたら、床から人間の上半身が生えているか、天井から下半身がぶら下がっている不気味な図となっていたことだろう。
 次に入り込んだのは、今まで見てきた部屋よりももっと豪華で広かった。調度や内装はともかく、二つの控えの間にそれぞれ分かれてすでに眠っているのが全て女官であることから、ここが位の高い女性の居室、それも寝室に近い場所であることが窺い知れた。
 部屋はきわめて広く、控えの間に続く扉を除く三方にそれぞれまた扉があり、その前は一種独特の空気というか、雰囲気の違いで区切られた領域のようなものが漠然と形成されていた。
「うるわしの公女たちの夜というのも、なかなかに肝を冷やすものだて」
 コルネウスが言う前から、この空間に満ちている異常な雰囲気で、確認する前からアルドゥインにはあるじが誰であるのか判った。どうやらこの部屋は、三公女が共同で使っている居間のようなものであるらしかった。
 部屋の左端はやたらに女らしく化粧品やら装飾品やらが所狭しと散らかされていた。そこに、はでやかなピンクで、白いリボンとフリルに埋もれ、スカートには細かなレースのテープを縫いつけ、ギャザーを寄せた室内着をまとったリール公女が入ってきた。それでも晩餐の時のドレスよりはよほどおとなしかった。リールの領域になっている場所には怯えた様子の侍女たちが控え、用事が言いつけられるのを待っていた。
「お前たち、髪をお結い! 流行のリボンを編みこんだ形にだよ!」
 あたふたと侍女たちが立ち上がって、リボンの入った箱やブラシを取りに行き、すぐに作業にかかりはじめた。髪を侍女たちに任せて、リールは手鏡を片手に、顔に白粉を入念に塗りたくり始めた。
 真ん中はこれもリールとは違った意味で散らかっていた。そこに散らかされているのは一見してがらくたと判る代物ばかりで、ひびが入りかけた壺だとか、役に立つのかも定かではない壊れかけた箱だのが主な品目であった。がらくたの真ん中には古ぼけた机が置いてあり、上には今夜の戦利品の残飯が並べられていた。
 机の前で残飯の品目と量を調べているのはセリージャ公女だった。彼女は化粧に夢中になっている妹をちらりと見て、わざとらしい嘆息をこぼしてみせた。
「もう寝るだけだってのに、お前ったらまだこの上塗りたてようって言うの? お白粉の無駄だし、シーツの洗い賃だって無駄じゃないのさ。だいたい、するだけでも無駄ってものよ」
「姉さんと違って、あたしは女らしいもんでね」
 ふん、と鼻息荒くリールは言い返した。
「姉さんこそあれだけ食べておいて、まだ足りないの? 仮にも貴いペルジア公女なんだから、夜食が欲しけりゃそんな食べ残しの残飯なんかさらってこなくたって、手を叩けばいくらだって新しいものを持ってこさせられるじゃないのさ」
「そんなもったいないこと、できるもんですか」
 セリージャは目を剥いた。しかし彼女が残飯をためこむのは経済観念が理由ではなく、出来立ての料理よりも腐りかけたような食べ物、残飯のほうが好ましいからであるのは明らかだった。
 私的空間では反目を隠そうともしない二人と、それに戦々恐々としている侍女たちを隣にして、メーミアの侍女たちは己の運命を諦めきったような顔つきで黙々と自分の仕事をこなしているようであった。
 メーミアの陣取っている範囲にはキャンディーのかけらとかチョコレートの屑、菓子の粉だとかが撒き散らされていて、床はべとべとに汚れていた。どうやら主人が去るまでは掃除も無駄だと諦められているらしかった。
「メーミア様、お水ですよ」
「こちらのお菓子を片付けて下さいましね」
 侍女のどんな言葉にもメーミアは反応せず、ただ時々うーとかあーとか、意味不可解な唸り声をあげるだけだった。その意味では、メーミアに仕えるということほど非生産的なことはなかった。リールは粗暴だったしセリージャはけちだったが、少なくともそういう意味では人間らしかったし、誠実に仕えておればそれなりに目をかけられることもあるだろうが、メーミアときてはそもそも、そんな人間的感情が残されているかどうかもあやしいところだったのである。
 ともあれこのようにして、公女達の居間はそれぞれの個性にしっかりと彩られた独自の空間となっていた。
「そろそろおやすみになりましょうか」
 侍女の頭だったものが仲間たちと目を見交わして合図した。巨大なメーミアが侍女四人がかりで抱え上げられてよちよちと自室の方へ消えていくと、部屋は急に広くなったように感じられた。
「まったく、あんなのが姉だなんて思いたくもない。あいつは赤子の時分に飽食の悪魔に取りつかれたか、入れ代わったに違いない」
 セリージャがぶつぶつと言った。
「よく言うよ。あんただってヘルの申し子のくせに。あああ、どうしてあたしが末娘なんだろう。メーミアが世継ぎの公女だなんて、ペルジアはおしまいだ。父上の代で潰れちまうに違いない。せめてセリージャさえいなけりゃどうとでもなるのに」
「何かお言いかえ? 可愛い妹や」
 セリージャは耳の遠いふりをした。
「いいえ何も、我が親愛なる姉上」
 それに、リールは厭味たっぷりに馬鹿丁寧な礼をして答えた。
「ああもう遅いね! もういいよ!」
 それから彼女は苛立ちの先を侍女に向けたようで、リボンの最後の仕上げにもたついていた一人を振り向きざま乱暴に突き飛ばした。侍女はリールとは違ってごく普通の体格だったので、倒れて後ろのキャビネットに背中をぶつけ、うずくまってしまった。
「邪魔だ! こののろま!」
「申し訳ございません、リール様。ただいままかり出ますゆえ」
 リールは気の毒な侍女を蹴りつけ、侍女はたいそう同情した眼差しを向ける仲間たちに抱えられるようにして控えの間に連れていかれた。雄牛のように立ち上がったリールに、セリージャは興味津々のくせにそっけない風を装って尋ねた。
「おや、どこへ行くの?」
「姉さんには関係ないことでしょ」
「嫁入り前の娘が、しかもペルジア公女ともあろうものが深夜に男漁りかい。嘆かわしいったらありゃしない」
 セリージャは痛烈な皮肉を浴びせた。
「はん、そういう自分はどうなのさ。この前のあの小姓は何だったのさ」
「あんたには関係ないことよ。とにかく、あたしは処女なんですからね。あんたと違ってあたしは嫁入り前に身を汚すなんてことはしてないわ。それに、恋愛なんて面倒くさいこと、やってられないわ」
「ああそう。姉さんと結婚する男はさぞ幸せだろうね。金をたっぷり持ってて、処女で、おまけに夜のつとめは嫌がるときた。あんたなんか、金袋を抱いて寝てるのがいっとうお似合いよ」
「ふん。そういうあんたは雄牛と寝てるがいいわ。どうせメビウスの将軍の所に夜這いに行くんだろう」
 このセリージャの言葉にアルドゥインはぞっとした。もし本当ならこのままコルネウスに連れまわされるままのほうがよかった。だがリールは図星を指されたようでもなく、ちょっと首を――ほとんど筋肉に埋もれてはいたが――すくめただけだった。
「男なら昨日まで敵だった男でも何でもいいのね。あんたはキュティアの矢さえついてりゃ、相手が悪魔だってかまわないんだろう」
「これであたしは結構、男を喜ばせるのは得意なのよ。よく褒められるんだから」
 リールは獰猛に歯を剥いて笑った。いかにも野獣めいた笑いだった。しかしセリージャの逆襲も手厳しかった。
「見え透いた世辞にうぬぼれてんじゃないよ。あんたのベッドに引き入れられて、男が泣いて喜ぶとでも思ってるの? 若い()ならあまりの恐ろしさに失禁しちまうでしょうよ。もっともそういうのを無理やりっていうのが趣味なら話は別だけど。でもお生憎さまね。あの将軍とあんたとじゃ、どっちが女だかわかりゃしないわ。そりゃ背はあんたより高かったけど、顔は比べ物にならないくらい綺麗だったからね!」
「うるさいね!」
 リールは言いざまに、手近にあったエウリアがいっぱいに活けられた花瓶を姉目掛けて投げつけた。幸いにして――脅かしのつもりか、本当に狙っていたのか判らなかったが――狙いは外れ、華奢な壺は机の上にぶつかって粉々に砕けてしまった。だがそれこそがリールの目的だったのか、セリージャの大事な残飯は水と花をかぶって台無しになってしまった。
「何てことするのよ!」
 セリージャは絞め殺される前の鶏みたいな甲高い声を上げた。それからよくもこれほど、と感心するくらいの、きわめて雄弁かつ豊かな語彙と形容で飾られた悪口雑言をありったけ、妹に向かって投げつけた。それはいかにこの末娘が醜悪でろくでなしの血に飢えた男好きかということと、そんな妹は妹として認めることすら耐えがたく、悪魔の《牛男》の所にでも嫁に行ってしまえと罵るものであった。
 アルドゥインはもうろくに聞く気もなかったのだが、先ほどからの会話と同じく、言葉があまりお上品ではなかったことだけは間違いなかった。しかしリールはすっきりしたように、さっさと部屋を出ていってしまった。
「あいつが威張っていられるのも今のうちよ。あたしが父さんに幾ら貸しつけているかを知ったらどうなることやら。あたしは今すぐにだってペルジアを差し押さえることができるんですからね。……ちっ、せっかくのご馳走が台無しじゃないの」
 相手がいなくなったと見るや、怒りのエネルギーすらけちったようでセリージャはたちまち怒りを納めた。そして水害を免れた肉詰めパイを一心不乱にむさぼり始めた。この勢いでは、水浸しになっていようがいまいがお構い無しに彼女が食べつづけることは容易に想像できた。
「まったく、うんざりするほど美しい姉妹愛だ。ペルジア大公はサライルに祝福を受けたとしか思えぬ」
 さしものコルネウスもげんなりしたようだった。それ以上にアルドゥインは、リールが自分のところに忍んでくるのではなかろうかという新たな恐怖に少々顔を引きつらせていた。来られても面倒だが、彼がいないことに気づかれたらもっと面倒だった。

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