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 ようやく全ての明かりが消えて、碧玉宮も眠りに入ったと思われたのは、とっくにヤナスの刻を過ぎた頃だった。
 宴が果てたといってもこれで一日が終わりというわけではなく、またすべての人が本当に寝静まったというわけでもなかっただろう。裏方ではこれから片付けや掃除などに追われて忙しかったであろうし、公の夜が終わって、ひそやかな恋の時間、陰謀、許されぬ密会やあやしい儀式に精を出す人々にとってはいまこれからという時間であった。それは碧玉宮でも、仮にクラインのカーティスでも、どこの宮廷であろうと同じこと、人の世の常だといえた。
 そんなことを漠然と考えながら、セリュンジェはあてがわれた部屋でアルドゥインの帰りを待っていた。
 捜索に出る前に一度戻ってくるから、もしも誰か来たらあざむいて追い返してくれ、と言い置いて、アルドゥインは部下たちに内密の命令などを下すために出ていってしまったのである。
 誰も特に来なかったので、セリュンジェはすることもなく、寝椅子にごろごろしながら最近剃っていないので伸びてきたひげを引っ張っては抜きながら、先程まで開かれていた気の滅入るような宴のことを思い返していた。
 その前の謁見で一応、両者の不幸な誤解は解けて一件落着ということになったので、アダブル大公が歓迎の宴を開いてくれる運びとなったのである。「急のことなのでたいしたもてなしはできぬが」というわりには、それは豪華な宴であった。しかしながらそれ以上に憂鬱でうんざりくるような宴であったのだ。
「二度とあんなのはごめんだな」
 呟いて、セリュンジェは頭をぶるぶると振った。
 セリュンジェはアルドゥインの副官として、主賓のテーブルの末席につくことを許されたのであったが、そこには大公夫妻、三公女、トティラ将軍とアヴィセン宰相、ガオ・スン公使といった主だった面々が揃っており、一方では、建前上同じテーブルでは畏れ多いからと言う理由で、ウジャス皇帝と老人たちが別のテーブルについていた。
 豪華な料理があとからあとから運ばれてきたし、酒もたっぷりあったのだが、宴の雰囲気はまったくといっていいほど盛り上がらなかった。全員が黙々と、何日も食べなかった人のように料理にがっついていたのである。
 ペルジアの人々というのは全体として、何か食べ物や飲み物に対して異常なまでの執着を持っているかのようであった。決してマナーが悪かったとか、人を押し退けて食べ物を引っ掴んでは口に押し込む、というようなことでもなかったのだが、どういうわけか妙に浅ましい、汚い印象を与えるのがセリュンジェには不思議だった。
 食物はいくらでも追加されてたっぷりとあったのだが、人々は片っ端から皿の上の料理を山盛りに取り分け、口に詰め込んでそれをもぐもぐしながらまた追加の料理に手を出すという有り様だった。その合間に甘ったるい酒に手を伸ばす。
 そうやってひっきりなしに何かが口の中に入っているせいか、食べている間中誰も喋ろうとはせず、カチャカチャと皿や食器が触れ合う音、酒が注がれる音、クチャクチャと物を噛む音、咳払い、舌を鳴らす音など、あまり気持ちの良くない音ばかりが広間いっぱいに流れていた。
 彼らはこの機を逃したらいつまた食べられるのかわからぬ飢えた人のように、とにかくすべての料理を食べきらなければならぬという信念にとりつかれているかの如くひっきりなしに食べつづけていた。その広間には百人からの陪席者がいたが、不思議なことに誰一人として社交や主賓に目を向けるものはいなかった。料理人にしてみれば名誉なことであったかもしれないが、どこか異常で狂った感じがするのは否めなかった。
 セリュンジェはこっそりとウジャス帝たちのテーブルを見てみたのだが、そこでも同じような光景が展開されていた。――というより、彼らこそががっついてご馳走にむしゃぶりついていた。
 ヒダーバードでは彼らは菜っ葉のスープだとか塩漬け肉、ぱさぱさしたパンなどの粗食に甘んじていたが、それは決して彼らが言うように、老人だから肉っけを必要としていないというのではなく、経済上の困窮によるものだということがその様子でいっぺんにばれてしまっていた。
 老人たちは顔や服にソースや肉汁が垂れるのにも気づかずに、ほとんど必死の形相で香草焼きの肉だとか肋骨にいつまでもかぶりつき、肉をむしり、歯をせせって酒を流し込んでいた。もっとも、だからといって、彼らが一番がっついていたのかというとそうでもなかった。
 誰もが腹を満たすのに精一杯になっており、食に没入していた。まるで過食に熱中することで何かを忘れようとでもしているかのようであった。その耽溺ぶりは薄気味悪さすら感じさせるほどだった。
 アルドゥインは例によって何もかも見ていながら、何一つ気づかないふりをして、出されたものを適当に食べ、話しかけられれば頷いて答えを返し、落ち着いて普段と変わらぬような様子を見せていた。主賓のテーブルの中で――というよりは、広間の中でいちばん上品だったのは彼らメビウスの面々だったと言っても良かったかもしれない。
 しかし、たとえ他の客がどれだけ食べたとしても、《ペルジア三醜女》に比べるべくもなかった。メーミア、セリージャ、リールの三公女たちは飢えさせられていた狼がひさびさに餌を与えられた時のように食べていた。
 彼女たちのテーブルの前には他の倍くらいの料理が置かれていたが、それも倍くらいのスピードでなくなっていくのはなかなか見事な眺めであった。巨大なメーミアやたくましいリールはともかくも、枯れ木のようなセリージャも、その体のどこに入るのかと目を疑うほど、姉妹に負けず食べていた。
 彼女たちはひっきりなしに食べていたが、その食べ方は三者三様であった。長女メーミアは相変わらず袋のようなものをひっかぶり、周りのできごとには関心を払わず、ボンボンやチョコレート、糖蜜入りの菓子、砂糖まぶしの焼き菓子、果物などの甘いものばかりを太く短い指でつまんでは口に入れつづけていた。
 時々彼女は顔をしかめてうーっと呻いていたが、それは機嫌が悪かったというよりは、日がな一日甘いものばかり食べているために全ての歯を虫歯でやられてしまい、そこでキャンデーを噛んでしまって激痛が走ったためのようであった。それでもひるむことなく、彼女は甘いものを食べつづけていた。
 次女のセリージャも倦まずたゆまず食べ、最後には時々気持ち悪そうに口を押さえながら、それでも食べていた。この際だから食べだめをして、何日か分の食費を浮かせてやろうという魂胆が手に取るように見えた。そして時折臆面もなく、足元に置いた大きな皮袋に骨付き肉や肉饅頭、詰め物をしたパイだとかをさらいこんで、袋をまん丸くふくらませていた。
 セリージャは折角の宴なので一張羅に着替えてきたらしく、さっきの謁見のときよりはまだ金のかかった黒っぽい絹のドレスを着ていたが、それも何年も着古したようにてかてかと光っていて、もとは白い模様が織り込んであったのだろうがそれも周りの色がにじんだのと色あせたのでほとんど見えず、あげく繕いを隠すための飾りがあちこちにくっつけてあるという代物であった。
 さすがにペルジア公女である彼女の衣服を、国庫が面倒を見ないわけがなかったので、セリュンジェが考察したところ、どうやらこの格好は彼女が趣味で好んでやっていることのようであった。その方が心地よいというか好きだったというのもあるだろうが、一つには小汚い格好をして、自分が金など持っていないのだ、ということを人々の目に強調してみせようとしていたのだろう。
 三女のリールは肉食こそが逞しい体を作るのだという理論を信奉しているらしく、野菜や菓子などには目もくれず、ひたすら肉ばかりをむさぼり食っていた。彼女が逞しい手に骨付きの肉を鷲掴みにし、かぶりついているのは女食人鬼のようであった。
 リールは他のものには一切目をくれず、がつがつと肉ばかり皿にとっては食べていた。しかし二人の姉たちに比べれば彼女はまだましだと言えたかもしれない。少なくとも、客や同席者に話しかけようとか、そういう気力のあるのも彼女一人だけのようであった。しかし彼女ときてはさきのビラビラしたドレスを着替え、目ざましいばかりの七段切り替えのギャザーとフリル、レースとリボンに埋まった真紅のドレスを着ていたもので、皆は目のやり場に困った。
 だが、リールの方としては、明らかにアルドゥインの気を引きたかったのである。彼女はしきりにアルドゥインに話しかけ、それは大抵武術の話であり、アルドゥイン自身に関する質問であったが、その合間に自分ではうっとりするほど悩ましいと信じているらしい恐るべき流し目でアルドゥインを眺め、ウインクを散りばめ、分厚い舌で意味ありげに油でてかった唇をなめ回し、そうしながらばりばりと骨を噛み砕いているのは、セリュンジェがアルドゥインの立場であったら失神しかねないほど恐ろしかった。
 おまけにリールのドレスときては、背中は腰の所まで大きく開いて汚い肌が丸見えになり、胸の方は下を向いたらほとんど全部見えてしまうような、すさまじい代物だったのである。
 三公女の目ざましさに圧されたのか、メインテーブルの客は反動で陰鬱になりがちであった。アダブル大公はそれでも場を盛り上げるのが自分の義務だと思っていたのか、十年前だったら面白かったのかもしれないジョークをとばしてみたり、闊達に振る舞おうとしていた。
 アヴィセン宰相は立場上それに虚ろな笑いで応え、エトルリア公使は何年かこの国に駐在している間になりゆきを飲み込んでしまっているのか、皿に顔を伏せるようにして料理に没入し、見ざる、言わざる、聞かざるを決め込んでいた。トティラ将軍はリールとアルドゥインにばかり話しかけてきて、わざとか、それとも無視しているのか、アダブルのせっかくのジョークをぶち切ってしまっていた。
(ううっ、悪夢を見ちまいそうだ)
 一テル半ばかりの忍耐を思い返して、セリュンジェはげっそりしてしまった。何ともいえぬ重苦しい陰鬱さ、うっとうしさ、不気味さ――といったものが酒と料理にけっこうな味付けをしていたもので、セリュンジェは何を自分が食べていたのかもわからなかったのだ。
 これは無理からぬところであったと言わねばならないが、セリュンジェはアルドゥインの副官などになっていなければその時間は気の合った仲間たちと楽しく食事をして、運がよければ酒の一つでもくすねてきて楽しく過ごせたのにと思い、またこれも無理からぬところと思いつつも、はるかなメビウス宮廷の華やかで明るく、賑々しい宴を思い出し、ホームシックにとらわれていた。
 メビウスはクラインやエトルリアとは違ってべつだん美人の産地といわれているわけでもなく、オルテアは別としてあかぬけているというわけでもなかったが、そのぶん人々は尚武の気性と飾り気のない若々しさに満ち溢れ、何よりも活気がある。
(それに比べてペルジアって国は、まるで死霊とグールの国みてえだ)
 セリュンジェが熱くて甘いはちみつ酒や、強くて辛い火酒、情に厚いメビウス娘、離れている仲間たちのことを思って涙ぐみそうになっていた時であった。
「セリュ、寝てしまったのか?」
 声をひそめて言いながら、静かにアルドゥインが部屋に入ってきた。
「いや、起きてる。起きてるよ」
 セリュンジェはたちまち飛び起きた。
「そうか」
「どうだった?」
「見張りとはつかないがあちこちに人がいたから意外に手間取ったが、だいたい宮廷は寝入ったようだ」
「一人で行くのか」
「ああ」
「俺はどうする」
「ウジャス陛下の所に行って、護衛の小姓にわけを話して寝所にいれてもらい、すまないが一晩、不寝番をしていてくれ。何かあるとすれば今夜か、あるいはヒダーバードに戻る前の晩だろうからな。帝にはその旨を宴の後で説明し、帝の小姓を一人、次の間に待たせて帝のいらっしゃるあたりまで案内してくれるように頼んである」
「わかった。安心してくれ。俺がいるかぎりウジャス帝には誰一人として、指一本だって触れさせやしねえ」
「暗殺者を送り込むほど見え透いた手は使わないだろうが、心配なのは毒を飼われることだ」
 セリュンジェはぴしりと気をつけをして、敬礼した。
「了解しました、アルドゥイン千騎長閣下。このヴェルザーのセリュンジェ、不肖ながら一命に代えましてもウジャス陛下をご守護いたします」
「頼んだぞ、セリュンジェ」
「で、やっぱり行くのか?」
 アルドゥインが頷くと、セリュンジェは心配そうに言った。
「くれぐれも気をつけてくれよ。俺からも祈っておくからさ」
 ヤナスの印を切ると、セリュンジェはすばやく部屋を出ていった。彼が次の間に去っていくと、アルドゥインはベッドに腰掛けてしばらく待った。それからそっと窓を開けて周りを見回し、戸を開けて次の間を確認した。
 誰もいないことを確かめてから、アルドゥインはマントを取ってしっかりと留めた。腰にはいつもの大剣ではなく、振り回しやすい短剣を吊るした。扉には眠っているので妨げぬようにという合図になる札を下げ、それから次の間を抜けてそっと足音を忍ばせ、廊下に出た。
 それがこの宮廷のしきたりなのか、それとも油断させるための罠なのか、廊下には点々と常夜灯がついているばかりで、宿直の小姓も侍女もおらず、人影はまったくなかった。だがアルドゥインはそれをべつだん不思議とは思わなかった。彼には彼なりに理解しているところがあったのだ。
「何処にいる――」
 独り言のように呟き、じっと耳を澄ませ、目を凝らす。何の気配も感じられぬことを知ると、アルドゥインは静かに廊下を進みはじめた。廊下の角に来ると壁に身を寄せ、人がおらぬかどうかを伺ってから、注意深く曲がる。
 だが、どれだけ進もうとも、この宮殿の棟を出るまでだれの姿も見ることはなかった。まるでこの宮殿には最初から人などおらず、打ち捨てられた廃墟であるかと錯覚させるほどであった。
 どこにも、生きているものの気配はない。
 蝋燭の明かりばかりがジジ……と芯をくすぶらせ、揺らめくおぼろな光を柱やカーテンに投げかけているばかりである。
 それにしても静かすぎた。たとえ寝静まっていても、そのような気配、雰囲気、息づかいなどは感じられようものである。
 あの陰惨な宴を最後に全ての人々は消え失せ、あとはその生活のぬけがらだけが残り、花は枯れ、石は朽ちていくのかと、そうも思われる。
 その中で生きて動き回っているのは、アルドゥイン一人であった。

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