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                                 *



 張り詰めた緊張が両軍の間に流れていた。
 トティラが今やペルジア軍の指揮を取っているのは明らかであった。トティラは昨日の戦いで疲れた旧軍を後衛に下げ、新たに加わった隊を前方に出した。
 さらに下げた後衛を横に張り出させ、アルカンドのいわゆる「飛燕の陣」を取らせた。中央には本陣を構え、見せ付けるようにペルジア大公の旗とゼーア皇帝旗を押し立てさせている。それだけでも、昨日の烏合の衆とは違うのだぞ、ということを強調しているかのようである。
 対するアルドゥイン軍の方は旗指物なども一切立てさせず、城門もぴったり閉ざして城壁の間にはずらりと弓兵を配し、完全な守りの姿勢を見せている。そもそもペルジア軍の取っている「飛燕の陣」はどちらかといえば攻めてきた相手を取り込めるための陣形であるから、出てくる気のないことを見せ付けたのである。
 それはある意味では、いわば流血沙汰のない小競り合い、拮抗であった。最初に手を出したほうが負けるいくさとでも言いたげな、そんな無言の対立だったのである。
 兵士たちにとっては解けることのない緊張の連続であり、実際に戦っているよりも辛い神経戦であった。そのように張り詰めている方が、ずっと疲れるものである。おそらくはどちらの陣の者であっても、早くどちらかが討って出てくれば助かると思っていたに違いない。
 寄せ手であるペルジア軍のほうがまだしも出てゆける希望があったが、護りの態勢に入っているアルドゥイン軍ではそれはとうてい望めそうになかった。このような朝は風までもその動きを止めてしまったかのようである。沈黙の中で対峙を続ける両軍を、ただ冬の日だけが照りつける。
「アルドゥイン閣下」
 五番隊長のディウスがあたりを憚るように声を低めてアルドゥインを呼んだ。彼は張り詰めている兵士たちの支えとなるべく城壁の後ろに控え、じっと耳目を傾けて何かを待つようである。
「兵士たちの緊張が持ちません。このままではみな、神経が参ってしまいます。もしも夜までもたせるのなら――」
「ディウス」
 低い声で、アルドゥインは遮った。静かにしろ、と言外に言われたようで、ディウスは口をつぐんだ。だが今度は、傍らに控えていたセリュンジェが口を開いた。
「このままじゃ士気に影響する。討って出よう」
「駄目だ」
 またきっぱりと、アルドゥインは制止した。
「今回に限っては、こちらからは出ない。それより、セリュンジェ、ユスターシュ」
 改めて呼ばれて、セリュンジェはどきりとした。ユスターシュもアルドゥインのもとに近づいてくる。
「何のご用でしょうか」
「これを持ってウジャス陛下の所へ赴き、陛下をここまでお伴い申し上げろ。周りの連中がとやかく言うだろうが、構うな。力ずくになってもかまわん」
「……」
 突然の命令がそんなものだったのでセリュンジェはぽかんとしていると、アルドゥインは珍しくも焦ったように促した。
「そろそろ潮時だ。できるだけ早く」
「はっ。ただいますぐ」
 二度とは聞き返さず、命令書を受け取ったユスターシュが馬へと駆けていく。セリュンジェは呆気に取られたような顔をしていたが、すぐに気を取り直してユスターシュの後を追い、十騎ほどについてくるように命じて馬に飛び乗った。
 そのような小さな動きはあったにしろ――
 依然として両軍の間には重苦しい緊張と沈黙が横たわっていた。今やアルドゥインが何かを待っているのだ、ということが兵士たちの間にも何となく伝わりはじめている。絶え間なく続く戦場の緊張とは別に、その「何か」を待ち受ける緊張が新たに混じりはじめている。
 風は相変わらずそよとも吹かずに凪いでいる。草原はあまりにも静かで、打ち捨てられ、積み上げられた屍がかすかな臭気を放ちはじめている他には、時すらもその流れを留めたかに思われた。
「アルドゥイン閣下」
 ユスターシュとセリュンジェがさっと跪いた。
「ウジャス陛下をお伴い申し上げました」
「ご苦労」
 軽くねぎらいの言葉をかけると、セリュンジェはぶつぶつと呟いた。
「じじいどもめ、ごちゃごちゃうるせえ事言って騒ぎやがるから、いらねえ汗をかいちまったぜ」
 連れてこられたウジャス皇帝は、一体何が起こったのやらあまり理解しておらず、少々怯えていたようだったが、アルドゥインの姿を見るとほっとしたようで、肩から目に見えて力が抜けていた。
「ご足労願い、まことに申し訳ない」
 ウジャス皇帝に一通りの侘びの言葉を述べている最中であった。
「あ――あれは、何だ?」
 城壁に立っていた見張りの兵士が最初にそれに気づいた。
 イズラルの方角から新たな砂塵が舞い上がり、それがイズラル街道にそってだんだんにこちらに向かって近づいてきている。同じことにペルジア軍の側も気づいたらしく、にわかに動きが慌ただしくなった。
「来たか」
 アルドゥインだけは騒ぎ立てることもなく、そのおもてに現れていた全ての焦燥や困惑をかなぐり捨て、兵士たちに見慣れたものとなりつつある落ち着いた、堂々たる将軍のおもてに戻っている。彼はそのまま城壁へと向かった。セリュンジェたちは当然のことながら、ウジャスもその後に従って手前まで来た。
「陛下はここでお待ち下さい。あるいは彼らの前に姿をお見せいただくこともあるゆえ」
 言い置いて、アルドゥインは階段を上っていった。
 すでに対峙の緊張などどこかに忘れ去られてしまい、兵士たちの目は近づいてくるにつれてその全容が明らかにされてゆく人影に吸い寄せられていた。矢のように馬を駆る数騎は旗指物を斜めに掲げてまっすぐにペルジア軍の陣中を通り抜け、草もそよがぬヒダーバードの草原、両軍の相対するちょうど真ん中あたりに止まった。
 今では立てられている旗指物の色や形、人数やその服装までもはっきりと見て取れるほどになっている。高々と掲げられているのは白と赤で斜めに塗られた旗と、半月刀の紋章を染め抜いた白い旗。二色旗は言わずと知れた軍使の旗である。
「エトルリアの旗だ!」
 誰かが叫ぶまでもなく、すでに一団のまとっている特徴的なエトルリアの鎧や、兜の下から覗く黄色みを帯びた肌色の顔、黒い髪などもはっきりと見分けられる。その中に一人だけいるメビウス兵は、伝令に出たカトライだろう。恐れげもなく、数騎は草原を突っ切ると、両軍の陣の間に二色旗とエトルリアの旗を立てた。
「両軍――しばし待たれよ!」
 彼らの中でもっとも位の高そうなものが声を張り上げた。エトルリアなまりの言葉に、ウジャスは狼狽を隠そうともしなかった。
「あれは……、アルドゥイン」
「エトルリア公使です」
 賭には勝ったのだ。アルドゥインの目元がわずかにほころんだ。
「この戦いはエトルリア預かりになるでしょう。お約束どおり、ヒダーバードを戦場にはいたしません」
「しかし、トティラは」
「トティラ将軍はエトルリア公使と同じくイズラルから発ったはず。もとよりエトルリアの動きを知っておりましょう」
「だが、大丈夫か」
 なおも心配そうにとりすがるウジャスの手に、アルドゥインは力づけるようにそっと自分の手を重ねた。
「陛下を巻き込めばエトルリアに責を問われるのは必定。エトルリアはペルジアに倍する国力を持っています。ペルジアはエトルリアには逆らえぬはず。だからこそエトルリア公使の動静が我らの運命の賭となったわけですが――。それゆえにこちらから密使を送りました。どうやら賭は成功したらしい」
「これは在イズラル公使にしてエトルリア大公サン・タオ閣下の忠実なる代理、ガオ・スン伯爵である。わが責任においてこれより我が申すことどもは全てエトルリア大公サン・タオ閣下の言であるとお考えいただきたい」
 ガオ・スン公使の張り上げる大声が草原に響き渡る。
「聞くところによれば、トティラ将軍率いる二万騎が昨夜ヒダーバードを大軍を以て取り囲み、我らが君主と仕え仰ぎたてまつるゼーア皇帝ウジャス三世陛下に畏れ多くも弓引きたてまつるとか。いかにも不忠、無礼、言語道断の仕打ちである。そもそもペルジア大公閣下はエトルリア大公と同じくゼーアの臣、臣民としてウジャス三世陛下を君主と仰ぎたてまつるべきところであれば、なにゆえの反逆なるか、疾く返答されたし。事と次第によっては在イズラル外交官団は早々にイズラルを引き払い、あらためて国元に報告の上ウジャス陛下奪還ならびにペルジアの不忠を糺すべく兵を挙げざるをえず。――トティラ将軍、いかに?」
「それは――違う」
 本陣の旗指物が慌てふためいたようにゆらゆらと揺れて移動を始め、やがてトティラ将軍の旗印を掲げた数騎が陣から出てきた。
「トティラ将軍が出てきたぞ」
 セリュンジェがアルドゥインの隣で囁いた。トティラとその供まわりと思われる五騎はエトルリア公使たちと十バールほど離れたところでとどまった。
「トティラである。ガオ公使に申し上げる。我らはゼーア皇帝に忠誠を誓うものである。ウジャス陛下に弓引くなどとは畏れ多く、考えも至らぬ。我々が出兵したる理由はただ一つ、ウジャス陛下の御身をお助け参らせるためなり」
「救い参らせるとは?」
 ガオ・スンは大声で叫び返した。
「すなわち何者から救い参らせるというのだ」
「すなわちウジャス陛下の玉体を人質にとり、ペルジアの政を私せんとする無法の一味からである」
「これは、驚いた」
 エトルリア公使は皮肉っぽく笑った。
「ペルジア国政はさような無法の一味ていどに私せしめられんとするほどたやすきものであったとは知らなんだ。それはさておくとして、このように軍勢を以てヒダーバードを取り囲むことこそ相手を追いつめ、陛下のお命を縮め参らせようことはトティラ将軍ともあろう方ならば容易に考えつこう。さてはこの機に乗じて陛下を亡き者にし、ゼーア皇帝家を滅ぼさんとするたくらみと疑うも致し方なきもの」
 ガオ・スン公使の言葉に、トティラも焦ったようである。
「何を証拠に」
「証拠ならば、それがしがお目にかけよう!」
 ふいに、びんと張った大声が公使たちの上に降ってきた。
「ア……アルドゥイン!」
 両軍、そしてエトルリアの一行はさっとヒダーバードの城壁を仰ぎ見た。城門のはるか下からでもすぐにそれと知れる二バール近い長身の、いかにも伝説の英雄めいてすらりとした姿が日の光を受けて立っている。
「そのほうは?」
 ガオ・スン公使がいくぶん不安そうな声で尋ねた。
「アルドゥイン」
 きっぱりとした彼のいらえは進軍ラッパのような響きを帯びていた。
「それがしはアスキアのアルドゥイン。メビウスの紅玉騎士団千騎長にしてアルドゥイン騎士団の将軍。――エトルリア公使ガオ・スン伯爵に申し上げる。我らは決してゼーア皇帝陛下のお身柄を拘束し、玉体に危害を加え参らせんとしてヒダーバード市城を占領せしものではない。どころか、陛下をお助けするべく、陛下のお許しを得て滞在しているものであるとご了解いただきたい」
「ウジャス陛下、ご自身に?」
 その声は怪訝そうであった。
「では、ウジャス陛下はいずくにおられる?」
「ここに」
 アルドゥインが頷きかけると、それを合図にウジャスは数人の兵士に左右を支えられ、押し上げられてきた。アルドゥインはその手を乱暴にならぬように気をつけながら引っ張り上げて、自らの傍らに立たせた。
「ウジャス帝はいつなりと、我らに何を命じられたのか、そしてお命じになったいきさつをご自身の口から説明して下さろう。すなわちゼーアからメビウス、中原にまでおよぶペルジアの陰謀を」
「なに――ペルジアの陰謀だと」
 その言葉はトティラではなく、ガオ・スンの口から出てきたものだった。
「が、このような所でそのようなことを怒鳴りあっていても埒が明かぬ」
 ウジャス帝をそっと下ろすように部下に命じておいて、アルドゥインは再び公使たちの方に向き直った。
「宜しければエトルリア公使、またウジャス帝にも立ち会っていただき、我らが陰謀の張本と名指すペルジア、アダブル大公とそれがしとの会談をさせていただきたい。ただそのためにのみ、我らアルドゥイン騎士団は雪深きグレインズよりはるばるヒダーバードまでやってきたのだ。イズラルなり、いずくなりとも出向こう。ウジャス陛下もご同道いただけよう。我ら五千の騎士が求めるのはただ真実と平和のみ」
「アダブル大公と会談だと?」
 突然の申し入れに、ガオ・スンはいくぶん困惑したようであった。そこに、トティラの大音声がかぶさった。
「いかにもガオ公使の立会いのもとに、アルドゥイン将軍をイズラルに同道し、アダブル閣下と引き合わせよう。それにつき、このトティラ、責任を持ってお引き受けする」
「よかろう」
 トティラがそう言ってくれたのでガオ・スンはほっとしたようであった。アルドゥインは頷き、城門からひらりと飛び下りた。
「ヒダーバード、開門!」
 その声が空のもとに響いた。

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