前へ  次へ
     イズラルよ、さらば
     名残は尽きねどわたしは行かねばならぬ
     住み慣れたお前を離れ、はるか外つ国へ
     だがわたしは常に思い、忘れることはないだろう
     美しき青の都、わが恋人イズラルを
                         ――ギスルフ
                      「イズラルよさらば」




     第三楽章 青の都へ




 夕暮れの残照もすべて闇に消えた。
 明日までの休戦の報せと撤退命令を持たせた伝令を裏街道を押さえている第二軍にやり、第一軍、第三軍は逆茂木だけそのまま残して、撤兵を済ませていた。ヒダーバード市城を幾重にも囲む城壁の第一層の五十バールほどには、外から運び出した土嚢によってもう一つの壁とも言うべきものが築かれ、城壁の上には弓矢を手にした見張りが立てられて警備にあたっている。
 それは、あたかも籠城するかのようなこしらえであった。籠城はしないと聞いていた兵士たちは首を傾げることもあったが、いくさは生き物というアルカンドの言葉どおり、成り行きというものは予定通りにいかぬものであるし、何にせよアルドゥインの命令なのだから大丈夫と納得していた。
 休息をとってもよいがくれぐれも奇襲などには備えるよう厳しく言い渡して、アルドゥインはウジャス皇帝の居住区へ入っていった。本当はずっと三の丸近辺に詰めていたかったのだが、ウジャス皇帝の機嫌取りや老人たちの懐柔を怠るとのちのち面倒であるので、しかたがなかったのである。
 皇帝と側近たちは相変わらず、あの小広間にいると老侍従から告げられ、アルドゥインはもう案内なしで城内を進んでいった。老侍従は案内しようとも言わなかったが、どのみち老人たちの歩みではもたもたしすぎて精神衛生上よろしくなかった。
「おお、アルドゥイン。待ちかねておったぞ」
 ウジャス帝はすこぶる元気な様子であった。しかしヒダーバードに軍隊が押し寄せている、というのは確かに悲しむべきことであったし、お付きの老人たちにとっては死期がいよいよ迫ってきたという不安以外の何ものでもなかった。
 アルドゥインがウジャス皇帝のことのほかお気に入りであるからこそこうして迎え入れ、軍隊の駐留を許してはいたが、本当のところ彼らは一刻も早く出ていってもらいたがっていたし、アルドゥイン当人は彼らの破滅の運命をもたらしにきた不吉な黒い死の天使のようにしか見えていなかったのである。しかしウジャス老帝は嬉しそうにアルドゥインを迎え、椅子を勧めた。
「かたじけない」
 自分の体重で壊しはしないだろうかと心配しながら、アルドゥインはその古びた椅子に腰掛けた。ウジャスがすぐには彼に話しかけなかったので、周りにいた老人たち四、五人がごそごそと何やら相談をしてから、アルドゥインに詰め寄った。
「なにゆえに撤兵なされたのじゃ。籠城なさるおつもりか。これでは約束とは違うではないか」
 アルドゥインはこの実際的ではない老人たちを一瞥した。彼らはこんな時だというのにぞろぞろした長い着物を引きずっていた。愚痴っぽく、精神構造も実際的でなければ、行動から衣服まで実際的でない老人たちの一群れというのはなかなかにアルドゥインの気を滅入らせた。
「いくさは生き物と申します。あの時申し上げたことと食い違いましても、それはいくさの成り行きからそうなってしまったのであって、俺一人の力ではどうすることもできぬものですから」
「まさか、ヒダーバードを戦場となそうというのではあるまいな」
「主上に危険を及ぼすようなことはせぬと約束なされたのを忘れられたか」
「その可能性は低いとは思いますが、三の丸に出られては流れ矢などで思わぬ怪我をなさるやもしれぬ。皆々がたには今のように本丸にお集まりいただき、門扉を閉ざし、決して外に出ぬようにしていただくしかございません」
 心の中では盛大なため息をつきつつ、アルドゥインは言った。アルドゥインの気持ちを汲み取ったか、ウジャスが助け舟を出した。
「そのくらいにせぬか。わしが話したいのだ」
 その一言で、老人たちは口をつぐまざるを得なくなって引き下がった。
「で、どうじゃ。きゃつらの様子は」
「一応の休戦状態に。彼らもそうとう迷っているようです。ですから――言いながら、アルドゥインはさっき文句を言ってきた老人たちの方に目を向けた――今の状態は決して籠城ではありません。このままうまくゆけば、明日の向こうの出方次第でほとんど犠牲を出さずにイズラルに入れると思います。その折りには陛下にもイズラルへご同行を願うと思いますが、何とぞよしなにお頼み申し上げます」
「うむ、うむ。とにかく、そなたの思いどおりにいきそうなのだな。それなら何の悪いこともあるまい。安心したぞ。わしが何も心配要らんと言うておるのに、このハイラスなどはこの世の終わりのような顔をして、ほれ、そこの窓よりそなたらの戦いを見ておったのじゃ」
「ご心配なさるような戦いではなかったと存じますが」
 ウジャス皇帝をはじめ老人たちとの、言っては悪いが退屈で長々しい会話をなんとか切りぬけ、しきりに誘われた晩餐もどうにか丁重に断ると、アルドゥインは三の丸まで戻ってきた。
 彼が戻ってくるのをずっと待っていたらしい。あちこちに集まっている兵士たちの輪の中からヤシャルとセリュンジェがすぐに近づいてきた。どういうわけか、この二人はアルドゥインの副官に任ぜられて行動を共にするようになってから、急に仲が良くなったようであった。
 もともとヤシャルは傭兵上がりで気性も似ていれば、セリュンジェとは故郷が近いようであったから、今まではきっかけがなかったということなのだろう。二人の副官登用は思わぬところで友情を取り結んだようだった。
「閣下、ウジャス皇帝のご様子はいかがでしたか?」
「陛下はいいが、我々がヒダーバードに再び撤退したことを籠城と受け取って、周りの老人たちがうろたえている。説明するにはしたが、様子見などといって出てきやしないか、心配だな」
「――しかし、見張りを立てるというわけにも」
 ヤシャルが声を落とす。
「ああ。戦闘要員は一人でも多いほうがいいからな。まあ、彼らの身は彼ら自身で守ってもらう他あるまい」
 ひょこひょこ出てきて怪我でもされたら、自分たちのせいにされかねない。それを思うとアルドゥインの気分は重かった。じっさい戦闘後に三の丸まで出てきて、何故ヒダーバードに立てこもるのかと非難してくる者などもいたので、ヤシャルや他の隊長たちとてそう思っていたことだろう。
 まだしも救いであったのは、どんなにこの籠城に不平不満があったにしても、ヒダーバードの老人たちはぶつぶつ文句を言ってうるさがられる程度で、実力で抵抗する力は無いということであった。
「閣下、少しお休みになられたほうがよろしいのでは。今日一日、休む間もなく走り回っておいでだったのですから」
「いや、平気だ」
「仮に何かあったとして、お疲れのままでは素早い対処もできません。我々の頼りは閣下なのですから、お体は大切にしていただかなければ」
「ヤシャル百騎長の言うとおりだぜ、アル。休めるうちに休んでおけ」
 心配そうに言ったヤシャルにセリュンジェも同意を示した。だがまだ気になることも幾つかあったので、アルドゥインは生返事をして頷きながら歩き出した。
「判ったよ。でもその前に少し、ペルジア軍の様子を見てくる」
「全く、アルの奴。平気そうな顔しちゃいるが、ありゃだいぶ疲れてるはずだ」
 アルドゥインが行ってしまってから、セリュンジェはヤシャルに囁きかけた。ヤシャルも心配そうな目を向けながら頷く。
「まさか倒れるということはないだろうが、どう考えても無理をしているからな」
 休戦とはいえ奇襲の可能性も捨てきれぬので、城壁の上では絶えずかがり火が焚かれ、哨戒兵が頻々と動き回っている。当番が回ってこぬうちに兵士たちはミールの団子をかじり、少しでも休息をとっておこうと、風の避けられるような隅や壁の近くでマントに身をくるんで仮眠を取っている。
 その合間をぬって歩き、アルドゥインは物見の塔に登った。本丸のものよりは低いが、ヒダーバード近辺の森とイズラルまでを見張らせるだけの高さはある。兵士たちの前では決して見せぬもどかしさと焦慮に満ちた目を、アルドゥインはイズラルの方角に向けた。森閑とした闇の中に、ペルジア軍の焚くかがり火がちらちらと見える。その向こうには、遠くイズラルの街の灯。
(夜明けまで、あと四テルか)
 アルドゥインは詰めていた息を吐き出した。
(遠い、な)
 何を見てそう思ったものか。
「遅いな……」
 やがてアルドゥインは小さく呟いた。
 しかし彼にとって、明けることなどないように思われた焦慮に満ちた夜は、心配されていた奇襲も夜襲もないままに明けたのだった。まだ幾分疲れたような様子であったが、起きぬけに熱い茶を所望し、それを飲み干してしまうと、疲れもどこかに吹き飛ばしてしまったかに見えた。
 彼は城門の所まで下りてゆき、夜通しの見張りをねぎらい、新しい者と交代するように命じた。夜の間彼らを守ってくれていたかがり火は大半が消えかけ、紫煙を風にたなびかせている。
 何度も登っている城壁に再び駆け上がると、そこにいる兵士たちにも適宜交代、休憩を命じ、ヒダーバードの外を覗った。すぐそこに並べられている死者たちに目をやると彼は目を伏せ、何やら祈るようであった。
 東の空は曙色で、それも段々に空色が混じりはじめている。薔薇色に輝く雲が女神の薄物のように折り重なっているが、北西のイズラルはまだ夜の名残をとどめた濃青の薄闇の中にある。草原に陣を布いているペルジア軍も、まだ夜の深い安らぎに包まれているようである。
 だが、きわめて鋭い彼の目はイズラルの方角に朝未だきのもやと見紛う砂埃が舞い上がっているのを見つけた。
「伝令、伝令。各千騎長と百騎長は、至急集まれ」
 すぐに彼は城壁をほとんど飛び降りるようにして降り、伝令の叫びを繰り返していた。十分も経たぬうちに早朝にたたき起こされて、まだぼんやりしていたりする寝起きの頭をはっきりさせようと努めながら隊長たちが集まり、兵士たちはそれぞれの配置についていた。
 その頃には砂煙は誰の目にもはっきりと見て取れ、一人一人の様子までも見分けられるまでになっていた。真新しい鎧、兜をまだ血にも埃にも汚さぬ、新手のペルジア軍。街道沿いに陣を布いている分隊も、新手の軍を迎えるべく動きを見せはじめている。
 誇らしげに幾本も押し立てられた青い幟には百合の紋章が描かれている。そののぼりと並べられて靡いているいわくありげな三角旗は、水色と白の斜め格子である。
「あれはトティラ将軍の紋章――とうとう御大みずからが腰を上げたようです」
 エウスタス千騎長が呟く。他の隊長たちは黙って頷いた。
「数は、どの程度だ」
「……五千と言ったところでしょう」
 目を凝らし、マクロが言った。
「五千か」
 昨日まで五千の軍勢で一万を相手に、よく戦ってそれなりに勝ちをおさめている。しかし新手の軍は今まで相手にしてきたペルジア軍とは違う。中原にその名を響かせる武将トティラ自らが率いる精鋭と見て間違いないだろう。
 それに、トティラ将軍がペルジア軍に与える影響もばかにならないだろう。何といってもトティラ将軍は中原に長らくその名を馳せる猛将、勇将なのだ。おそらく昨日のようにはいかないはずである。
 五千を迎えて陣形を整えなおす動きも、心なしか昨日よりきびきびとしているように感じられ、草を踏み分ける音すら聞こえてきそうである。
「もうそろそろ来る頃だとは思っていたが、朝一番とはご苦労なことだな。今日がおそらくは我々の運命の分かれ目となるだろう」
 アルドゥインは苦笑にも似た微笑みを浮かべた。
「閣下、いかがなさいますので。これからの作戦は……」
 たまりかねたように、ネイクレードが心配そうに尋ねる。いくら一人一人はしっかりした大人だとしても、このような時の兵士の心理は子供と変わりない。上がうろたえや迷いを見せればそれはすぐに下へと増幅されて伝わり、統制の乱れとなる。それを知ってか知らずか、アルドゥインは落ち着き払っていた。
「しばらく籠城し、相手の出方を待つ」
 アルドゥインの答えは一瞬の迷いもなくきっぱりとしていた。
「どのみち、我々が手ごわいのは昨日で骨身にしみているはず。それにヒダーバードは守るに易く攻めるに難い昔の砦。だからまずは小手調べとくるだろう」
「ですが閣下、ヒダーバードには我々を一両日以上養えるほどの充分な蓄えはございませんが」
 レムエルが言う。
「判っている。心配するな。我々の目的はあくまでイズラル。どのみちヒダーバードはそのための一つの方便に過ぎない。こんなところに何時までも立てこもろうなどとは思っていない」
「では討って出るべきでは」
「それは駄目だ、レムエル。昨日は不意打ちであったからこそ勝利をおさめられたが、いくらペルジア軍でも二度は同じ手を食わないだろうし、態勢を整えてきているはずだ。戦いを仕掛けるのは、危険だ」
「しかし――」
 アルドゥインは厳しく差し止めた。なおも不安そうに言いかけたレムエルを、サドワがそっと袖を引いて止める。閣下には閣下の考えがあるのだから、と目顔でたしなめているかのようだった。
 その間にも、眼下では着々と新旧の二軍が合流し、新たな陣形を作り始めていた。

前へ  次へ
inserted by FC2 system