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                                *



「アルドゥイン閣下」
 ウジャス帝の老小姓ジュードがつとかたわらに馬を寄せてきたとき、すでに一行は眼下にイズラルをのぞめる所まで来ていた。
「何の御用か」
「陛下が、アルドゥイン閣下にお越しをねがえと仰せです」
「判った。いま伺おう」
 アルドゥインはすぐに馬を返し、全軍にそのまま進むように合図して、つと隊列から離れた。
 すでにあたりはイズラル圏内である。ずっとあたりに広がっていたのどかな田園風景に代わって、小さな石造りの家がびっしりとひしめき合う、イズラル郊外の住宅地帯に景色は移っている。
 イズラルは古い街である。二千年の歴史を持つゼーア帝国のかつての首都であり、クラインの首都カーティスをのぞけば、世界でもっとも古い都市の一つに数えられてもよいぐらいだろう。
 その都市はゼーア時代にすでに成立していた都市の常として、市中を煉瓦あるいは石造りの壁で囲み、八方に市門を設けている。そこでイズラル市内に入ろうという旅人や商人から入市税をとることを市のかなりの収入源としている。
 しかしまた、そのように古い都市ではよくあるように、年月が進むにつれて人口も増え、今では限られた壁の中では納まりきらずに家も人も溢れ出して郊外に広がり、ゼーア時代の三倍以上の広がりを持つようになっている。
 そのイズラルの西辺にはナラ丘陵やシュム、アゼル、東にはゲネインをはじめとする田園地帯、そして南東のヒダーバード近辺の小都市や集落が広がり、イズラル市の境界線をさらに曖昧なものにしている。
 いったん北から市門にのぞんだイズラル市を、アルドゥインたちは今度はヒダーバード寄り、つまりは南東の市門から見渡していたのであった。ヒダーバード小市城へと続く街道はアルドゥインの軍勢によって埋め尽くされている。
 アルドゥインは馬を返し、隊列の真ん中あたりで、よぼよぼの親衛隊数十人に守られて輿に揺られているウジャスのもとに近づいた。
「陛下、お召しとは」
「おお。アルドゥイン」
 声をかけると、ウジャスは輿の窓を開けて皺ふかい顔を差し出した。心なしか、悲しみに満ちた哲学者めいていたその顔に赤みが差し、目も輝いていて、晴々としているようであった。
「ほどなくイズラルに入るのだな」
「はい。あと一テルもかからぬでしょう」
「イズラルに行くなど――まこと、ヒダーバードの外に出るなど、実に何十年ぶりのことだ。毎日毎日、あのちっぽけな壁の中でしょんぼり暮らしていたものだからな! わしがもしも子供のように度を外してはしゃいでいるとしても、大目に見てやってくれ、アルドゥイン」
「それは、むろん」
 アルドゥインは微笑み、低く笑った。ウジャスは輿の窓から身を乗り出すようにして、眼前に迫ってきたイズラルの市壁を見つめた。
 この長い一日もはや終わりに近づき、既に日は落ちかかっている。西日の燃えるような赤の中で、青都イズラルは建物の影だけが黒く浮かび上がる中に幻想的な青と赤が交じりあい、藤色の光に濃く薄く彩られている。
「ああ……」
 老帝は、ため息のように深く息を吸い込んだ。
「今夜、アダブルと会うのか」
「おそらくは」
「あれは抜け目のない男だ。くれぐれも気をつけるがよい」
「心得ました」
 ウジャスはくつろいだ笑みを見せた。
「――といったところで、あやつ程度の男にしてやられるようなそなたではないだろうが。おかしなことだな、アルドゥイン。父の代から長年の忠臣であり、わしの命を保証してくれているはずのアダブルよりも、昨日今日出会ったばかりのそなたのほうを頼りに思うのは」
「身に余るお言葉と」
「それも無理はないな。あやつめこそがわしをヒダーバードに終生閉じ込め、捨扶持をあてがってきた張本人なのだからな」
「………」
「それはさておき」
 ウジャスはもっと近くによるように、アルドゥインを手招きした。彼が馬を寄せていくと、ウジャスは声を低めた。とはいえそれは、老人のしゃがれ声でできるがきり、であったが。
「碧玉宮に入ったら、わしはこのとおりの老齢じゃから馬にはよう乗らぬが、できうるかぎり、そなたが今のようにわしの乗物近くに寄り添っていてくれるよう、頼んでも大事あるまいか」
「それは無論、陛下のご要望とあれば。しかしまた何故?」
「わしはアダブルがどんな男かよく知っておる」
 苦々しげに、ウジャスは言った。
「あれを信じることはわしにはできぬ。表立って大それたことはできぬくせに、小さな悪事は何かしらいつでもやっているような男だ。奴が碧玉宮にそなただけでなく、わしも伴うことをトティラに許したというのが、どうも引っかかるのだ。今度こそあやつに一服盛られるのではないか、とな。どうせ惜しい命でもないが、アダブルなどにいいように扱われては死にかねる。そこでだ、アルドゥイン。わしが無事にヒダーバードに帰り着くまで、わしを守ってくれぬか。そなたに頼むのは筋違いかも知れぬが、わしにはそなたしか頼めるものはおらぬ」
「しかと心得ましてございます。この身に代えてもお守りいたしましょう」
 アルドゥインは力強く言い、頷いた。
「そもそも事の全てはそれがしが陛下を巻き込んだゆえの出来事。陛下がただいま命じられたことは、俺にとって神聖な義務であると心得ます。必ずやご心配召されぬよう」
「そう言ってもらえると、わしも心が休まる」
 急にしょんぼりと、老帝は言った。
「所詮あと十年は永らえぬ命、女々しいことだとそなたは笑うだろうがの」
「そのようなことは決して。人の性というものでございましょう」
「その代わりといってはなんだが、むろん、わしにできるかぎりでの形でだが、礼はするつもりじゃよ」
 ウジャスは微笑んだ。
「トティラには気をつけることだ、アルドゥイン」
「トティラ将軍ですか」
「ああ。――たしかにアダブルは悪党だが、しかし言ってみればあやつは小悪党、並の悪いことしかできぬ、平凡な男だ。それを煽り立てて、けしからぬ挙に出させておるのはトティラだとみて間違いない。あの男は戦略家としても政治家としてもひとかどのものを持っておる。アダブルはトティラに操られておる。実際にペルジアを動かしているのはアダブルではなくトティラだ。くれぐれも覚えておいてくれ」
「いかにも、肝に銘じておきましょう」
「しかも、だ」
 ウジャスはさらに念を押すように続けた。
「アダブル本人はその事に気づいていないか、そのようなふりをしておる。実際にはあやつは軍務の指揮権を全てトティラに渡し、しだいに政務についてもトティラに丸投げになりつつあるので、その事に気づいて何とかしようとすれば、トティラとの対立を招きかねん。そしてトティラに反対されたとき、果してペルジア政府、また軍が自分についてくれるかいまいち奴には断言できぬのだ。どうやらわしとアダブルの縮図のようなものが、わしのほうが何の力も持っていないにしろ、アダブルとトティラとの間にできあがりかけていて、アダブルは内心では狼狽している。しかしどうすることもできぬし、トティラなしでは何一つできぬことも良く知っている。なかなか、ペルジアも微妙なところに来ているようだ、ということだよ」
「たしかに、その情報はとても有用です。この事は忘れぬようにいたしましょう」
「いや、なに。せめて何かしらそなたの助けになればと思うてな」
 ウジャスは満足そうであった。アルドゥインはていねいに礼を言ってそこを離れると、再び隊列に戻った。すでにイズラル市街を目前に控え、先頭は市門の手前で彼の支持を待って待機している。周りの街路や街道に面した家の窓からはイズラルの市民たちがそっと顔を覗かせて、この侵攻者の様子を見たり、囁きあったりしている。
 市門の内側にいた門衛から連絡がいったか、それともあらかじめ待ち受けていたのかどうかは定かではなかったが、アルドゥインが隊列の先頭に戻るのを待っていたかのように、重々しい音を立てながら市門が開いた。
 その内側には、一個大隊ほどの騎馬がペルジア大公の幟を立てて整列して彼らを待っていた。先頭には先に戻って準備を整えていたトティラ将軍と、エトルリア公使ガオ・スンの二騎がおり、馬上から降りてウジャスを迎えるべく臣下の礼を取った。
「我が君ウジャス三世陛下――ならびにアルドゥイン殿。主君ペルジア大公アダブル閣下は、碧玉宮にてお待ち申し上げております」
 トティラは胸に手を当てたまま、恭しく言った。礼をアルドゥインにも及ぼしてはいたが、彼はアルドゥインのほうを見ないようにして目を合わせなかった。
「ひとまず、碧玉宮へご案内申し上げます。――いざ」
「出迎え、大儀である」
 ウジャスは輿の中から言った。それは二千年の皇帝家の末裔らしい、威厳と落ち着きに満ちていた。

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