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     月の照らせし死の都
     いざや蘇れ、いにしえの亡霊たちよ
     今宵我が前に姿を現せ
     汝らがおくつきに集いて踊るがいい
     されば今宵は影となりて
     美し酒酌み交わし酔いしれぬ
                   ――ティトゥス
                      「死の都」




     第四楽章 悲愴奏鳴曲




 ヒダーバードは古い様式に則って建てられた城砦都市――幾層かの壁と城楼に囲まれた街である。もしも彼らが周りに目をくれる余裕を持っていたら、およそこのような情景を見ることとなっただろう。
 一層目は武器庫や蔵らしきものが建っているだけのがらんとした空間で、石畳の道路の脇は耕されてもいなければ整えられてもいない赤茶けた土がむき出しになっている。二つ目の市壁を抜けると、立ち並ぶ建物はこまごまとした住居になる。そして最後の三層目が、ウジャス皇帝の住まいする城館であった。
 戞々と蹄を鳴らしつつ、騎士たちの馬が本丸に入ってゆく。広大な前庭があり、そこには彫刻や噴水、井戸がもうけられているが、やはり人の気配はなく、城の奥深くまで入ってきたというのに侵入者を防ぎに来る衛兵すら出てこない。
 だいぶ傾いた月が投げかける影だけが、青白いトーンに染められた石の上にわだかまっている。
「まるで死の都みたいだな」
 この様子に、セリュンジェは呆れたようであった。何しろヒダーバードに入ってから見た住民といえば、門のところでかわいそうな思いをさせてしまった老人の衛兵二人だけであったのだからそれも無理はない。
「それとも、アルドゥイン。おまえにはここに巣食ってる亡霊のすがたが見えるとでもいうのかい」
「ある意味では、そうかもしれないな」
「気味の悪いことを言うなよ」
 心底気味悪そうに、セリュンジェは顔をしかめた。
「全軍、停止!」
 ふいに――
 アルドゥインの采配が振られた。むろん、セリュンジェは馬を並べるとすぐに彼に渡したのである。ややしばらくのざわめきのあと、止まる。本丸前の、おそらくは練兵場に使われていたであろう石畳の広場だった。その石も磨り減り、ひび割れている。
 その前に、幅十バール、高さ二バールほどの高さの石の階段があった。端と真ん中にかなりの幅の手すりがあり、そこにぎっしりと彫刻がほどこされている。その左右はまた石垣――そして壇上は広い石舞台ののようになっていて、その向こうが城館の門であった。
 その広い敷台の上に人がいた。
 一人を少し前に立て、その後ろに七、八人が立っている。彼らは身じろぎ一つせず、それこそ広間の彫刻のように、立ち尽くしていたのだ。
 アルドゥインがひらりと馬から飛び降りた。全軍待機、と合図すると石段を登りはじめた。誰一人として口を開くものもいない沈黙の中、鎧人形の動き出したようなものものしい音が響き渡る。
「ゼーア皇帝、ウジャス三世陛下はいずこに?」
 石段の上から四、五段目で足を止め、やわらかな声で聞いた。
 すぐには答えはなかった。やがて石段の上で、真ん中の一人が進み出た。真っ白いガウンに重たげなビロードの、白貂の毛皮で縁取りをしたマントを重ね、杖にすがってようやく立っている、といった風情の老人である。まばらな白髭が顎を覆い、丸い縁なし帽をかぶっていたのでよくわからなかったが、頭は禿げているのだろう。年は周りの老人たちよりも幾分若かろうと思われたが、それも七十よりは八十に近いようだ。
 彼の後ろにいるのはどうやら彼の廷臣のようで、こちらは八十がらみと見えた。やはり杖に頼っていたり、おぼつかなげに立っていたりしている。その様子から見ても腰にいちおうぶら下がっている剣をおよそ振り回すことはできまい。
 彼の口から、意外な言葉が漏れた。
「殺せ」
「何と、言われた?」
「殺せ。手向かいはせぬ」
 いくぶん、耳を疑う様子のアルドゥインに、重ねて力ない――そして、あきらめに満ちたしゃがれ声が言った。
「わしはとっくに覚悟ができておる……早く、その剣でわしの首を切るがいい。わし一人殺すに、なぜそのような大人数で来ることがあろう。まあ、用心といえばそれまでだろうがな」
「ウジャス三世陛下にあらせられるか?」
 訳が判らなくなりそうになりながら、アルドゥインは尋ねた。老皇帝はすっかりおのれの悲しみに浸りこんでしまったようで彼の言葉を無視して独白を続けた。
「いつかこの日が来るとは思っておった。アダブルの新しい将軍をとてそちに目通りを許したときからな。ずいぶん物騒な、精気を放ちすぎる男だと思ったものだよ。そして臣としての礼など名ばかり、こやつはわしを殺す機会をうかがい、いつかそうするだろうともな。アダブルがわしほどの洞察力を持たなかったことを後悔する日が来ぬようにせめて祈ってやろう」
「……」
「さあ、早う殺せ。一刺しすれば枯れ木を払うように死ぬであろう。トティラよ、兜を取らぬのか。……いや、ならばそれはそれでよい。そちでもこのような老人を殺すには気が引けるということだろう」
 そう言ってウジャスはガウンのえりをくつろげた。すると見るも哀れな、痩せ枯れた胸があらわになった。後ろの方ではどこに潜んで見守っていたやら、百人は下らないと思える人々の群れが現れて、てんでに短刀を振りかざしたり、薬の瓶を差し上げたりして、陛下一人を死なせはしない、みあとを追ってまいります、と嘆き悲しみだした。
 それもみな男は八十か七十といった老人ばかりで、三分の二は女官らしき女性たちであったがそれも六十がらみ、いいところ四十過ぎで、本当に若いといえそうなのは二、三人しかいなかった。彼女たちは老人たちとは違って大げさに嘆くことはしなかったが、石の床に身を投げて、いたってしとやかにしくしく、めそめそと泣き出した。
(な、何だ、これは……)
 階段の下で待機しているセリュンジェたちも目を真ん丸くしてこの古代の亡霊がわき出てきたとしか見えない情景を見ていた。一つには彼らが揃いもそろって悲哀に満ちた老人たちであったことと、その身に付けている衣装がどれも素材は豪華であったがデザインときては皇帝家代々伝えてきたものではなかろうかと思われるほど古めかしく、またそれ自体古びてしまっていることが一見明白だったからである。
 しばらくの混乱の後、アルドゥインはこの老人が自分をトティラ将軍と間違えているらしい、ということにやっと気づいた。それに唖然としていていつまでも時間を無駄に過ごしている場合ではないのだ。
「陛下は……陛下は、お間違いのようだ。俺はトティラ将軍ではない」
「何を言うか」
 ウジャスは目を剥いた。
「そちほどの体格の男がこの世に二人といるまい。わしの目をごまかせると思うな。わしを誰だと心得ておる。老いたりといえどゼーア百二十九代皇帝、ウジャス・セオフラステュス・カエリウス・アン・ゼーアなるぞ!」
「やれやれ……」
 アルドゥインは驚きと混乱で、この物分りの悪い老人たちに怒りを感じる暇もなくなっていた。何を言ったとしても言葉では信じないだろうということが分かったので、手っ取り早く彼は兜をとった。月明かりの下に、闇のように黒々とした髪と、わずかに月光の青白さをうつす浅黒い、若く精悍な顔が照らし出される。
「これで、俺はトティラ将軍ではないと分かっていただけようか?」
 ウジャスはぽかんと口を開けた。いったん信じてしまったものを正すには相当な時間がかかるのか、彼は何度も瞬きをしてアルドゥインを見つめていた。だが彼が自分を殺しに来たという認識までは覆らなかった。
「トティラではないとすれば、そちはきゃつめが使わした暗殺者、わがスルーシ――いやさ、おぬし自身は黒いからアズリールということか」
「どうあっても信じていただくよりほかないが、俺はトティラ将軍でもなければその部下でもない。俺はアスキアのアルドゥイン。メビウス皇帝イェライン陛下に去る豹の年の冬まで剣を捧げていた者。現在はゆえあって国を離れているが、いまだメビウス皇帝に忠を尽くすものであることに変わりはない。このたびはゼーア皇帝陛下にお尋ね申し上げたきことと、お願いしたき段があって参った。だがどうであれ、陛下の身辺を脅かすために来たのではない」
「メビウス……? なぜ、メビウスが出てくるのだ」
 老帝は狐につままれたような顔をした。
「現在メビウスとペルジアはアヴァールにおいて交戦状態にある。豹の年の冬にペルジアがメビウス国境を侵犯したことはご存知あられるか」
「なぜそちは、このヒダーバードに鬱々と閉じ込められておるこのわしに、はるか何百バルもかなたの事が知れると言うのだ」
「……それは、ごもっとも」
 ウジャスはむっとしたように返し、アルドゥインは何だか気疲れしてしまったように答えた。
「まあよい。そちがわしをたばかろうとしているのであればそれは偽りなのだし、まことだとすればまこと。どちらにせよわしにとって大した違いではない」
 いかにも物分りのよいところを見せて、ウジャスは一人で頷いた。が、しかしこの老人が結局何を言いたかったのか、何が「よい」のか、アルドゥインにもよくわかったとは言いがたかった。
 それから気を取り直したアルドゥインが、このような場合の正式な、一国の君主に対する膝折礼をして、尊きお方を寒空の下いつまでも立たせておくのは非常に無礼であるし、また多数の部下を外に待たせたままにするのもかわいそうなので、どこか宮殿の一室において改めて拝顔の光栄を賜りたい、と恭しく申し出ると、その恭しさにウジャス皇帝はすっかり満足してしまったようで、むしろ悦ばしげに許可を与え、自分は老臣たちとともによたよたと城館の奥に戻っていった。
 それは暗殺者かもしれぬという疑いをぬぐい去りきれていなかったので、ごきげんを取っておこうという考えだったかもしれないが、ともかく警戒心を解くことには成功したようなので、アルドゥインはほっとため息をついて階段の下に戻ってきた。
 そこに駐留するように指定された宮殿の一角に向かいながら、セリュンジェは口を開いた。本当はさっきから喋りたくてしょうがなかったのだ。
「なあアルドゥイン、じいさまたちを行かせちまっていいのか? 逃げられたり、もしかして討って出てくるなんてことがあったらどうする」
「あのご老体たちが馬で逃げ出して、俺たちから逃げ切れると思うか? それに攻撃してくる可能性については……」
「ああもう、俺が悪かったよ。言ってみただけだっつーの」
 セリュンジェは不貞腐れたように遮った。
「――にしてもここはとんでもねえ所だな。俺ぁヒダーバードが、寂れた場所だとは知ってたが、こんな爺さまと婆さまばかりの城だったなんて知らなかった。人っこ一人いねえと思ってたら、あれだぜ」
 セリュンジェが呆れや驚きを通り越してしみじみと言うと、アルドゥインはかすかに頷いた。
「ペルジアの前大公はよほど狡猾な人間だったようだな。たぶん徴兵制とでも言って若い人手をイズラルに集めて、ヒダーバードには使い道のない退役後の老人ばかりを送り込むようにしてきたんだ。それにウジャス皇帝は何もいえぬまま、ここまで来てしまったんだろう」
「だとすれば、俺たちみたいな平民ってのも捨てたもんじゃねえな。由緒ある古い家柄に生まれるってのも、そう羨ましがる運命ってわけでもないらしい」
「……だな」
 アルドゥインは長嘆息して、言った。その心に去来していたのが王女であるがゆえに自由な恋すらままならぬ事を知りつつそれに甘んじてゆくジャニュアの王女ユーリであったのか、それともおのれもそのような生まれつきの貴族、王族であることを知らぬがゆえにそれを求めてやまない友の面影であったのか、あるいはもっと他の誰かであったか、それは判らなかった。
 心の内の思いを振り払うように、アルドゥインはわずかに首を振り、セリュンジェに尋ねた。
「ところで、セリュがここにとどまって兵を取りまとめ、俺はユスターシュを連れて行くか、それともユスターシュに任せて俺についてくるか、どっちがいい」
「野暮なこと聞くなよ。これからあの陽気で楽しいじいさまたちとご面会なんだろう? こんな面白い見ものが他にあるか。俺がついていくよ」
「じゃあ、決まりだな」
 彼らがそうして話していたところへ、ウジャス帝の小姓――これも年寄りだった――がよぼよぼとやってきて、謁見の用意が整ったのでついてくるようにと告げに来た。アルドゥインとセリュンジェは目を見交わして、立ち上がった。

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