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 月が、森の間を抜けていく一本の道を冷たく照らしつけていた。イズラル周辺の、穀倉地帯のちょうど北端のあたりである。
 このあたりからではもう、イズラルの街の明かりはただ、そちらの方角の暗闇の中に蛍の群れのようにきらめいているだけで、わずかに公都のにぎわいをしのばせているのみである。
 月はすでに中天に高い――鮮やかに映えるリナイスの青白い光が、水底のような夜更けの世界を浮かび上がらせている。今宵はことのほかの暗夜と見えたが、雲の切れ間から射す月光で、足元の下生えの草さえもほのかに見えるほどの明るさとなり、アルドゥインは松明を点けることを差し控えさせていた。
 ここはすでにウジャス帝の居城、ヒダーバード市城である。
 そもそもはイズラルこそがゼーア帝国の堂々たる首都であり、その版図は広くイェラント海岸にまで及んでいたのだ。だが、昔日の栄光は既に遠く、今のゼーア皇帝は皇帝と言うよりも名のみの飾り物にすぎぬ。
 表向きはゼーア三人の大公たちも、あえて皇帝家に牙をむいて自ら新ゼーア王家を名乗って中原の非難の矢面に立つことを避け、あくまでも皇帝に臣下の礼をとり、その忠臣としての大公家であるという形をとり続けている。
 ヴァレリアス・ゼーアを祖とするゼーア皇帝家は中原最古の家柄の一つであるし、その血筋をたどっていけば、クライン、メビウスとも深い縁がある。その古い縁故に今さら両国がこだわるいわれはなくとも、もし三大公国――かつての――のいずれかがゼーア王を僭称した場合には、縁戚の縁をおしたてて、両国が兵を起こすのは、十二分にありうることである。形ばかりとはいえ、ウジャス皇帝が即位して、由緒あるゼーアの名を守っているのは、三大公領間の争いを未然に防ぐにも、また二大強のつけこむ余地を無くすためにも有効であった。
 とはいうものの、二大公国、ことに皇帝の面倒を見る立場にあるペルジアには、ウジャス皇帝が自ら兵をたくわえ、力を持つようになり、もう一度ゼーア帝国の黄金時代をこの手で招来しよう、などという考えを持つことこそが、もっとも恐れてやまぬことである。それゆえ、ゼーア皇帝の処遇については、万全の考慮がはらわれていた。
 ウジャス帝の直轄領はイズラルからは少し離れた、ロザンヌ、グラヨーバを含む、ゼア川の東側である。それはペルジア大公領のおよそ四分の一ほどの面積を占め、一見してはなかなか肥沃な土地であった。
 しかし、ロザンヌ、グラヨーバ、ガブールはペルジア大公の砦であり、多数の駐屯兵が常に置かれている。その大公軍ががっちりとウジャス皇帝領の治安に目を光らせているだけでなく、皇帝領の年貢はそれら街道のかなめの町に集められて、少なからぬ関税のかけられてのちにヒダーバードに納められた。
 それに不平を言うだけの軍事力は皇帝には与えられていない。帝に認められているのはごくわずかな儀杖兵と親衛隊のみである。ペルジア禁軍百万騎、その全ては皇帝陛下の軍であり、それゆえにこそ禁軍を名乗るものである――というのがペルジア大公の言い分であった。
 そして、代々皇帝の居城であるこのヒダーバードは皇帝直轄領からはかなり遠く、その往復のためには必然的に公都イズラルを通過しなくてはならない。
 そのような、巧妙な形で、ペルジア大公はゼーア皇帝を監視のもとにおき、同時に皇帝の存在によって、エトルリア、ラトキアに対し上位に立つ国としての権威を主張し、かつてのゼーアの首都を擁する国としての誇りを持ってきたのであった。が、この一、二代の間に、そのペルジアそのものの国力、気力ともに下り坂であり、さればこそ、ラトキア建国の隙もあったのである。
 その、小ヒダーバード市城。
 人口はおよそ一万。その一万がウジャス皇帝の唯一の直属の臣民の全てである。
 ヒダーバードは、イズラル北東の、深い森の中に立つ城であった。まわりに石垣をめぐらし、夜にはぴたりと扉を閉ざす。その城壁の中は、一つの小さな町であると同時に一つの城であり、そのゆえをもって小ヒダーバード市城と呼ばれている。その中に市場もあれば、子らの寺子屋、さまざまな商店もあるのだが、それでもそれは全部で一つの城の中なのである。
 その、ヒダーバードの森を駆け抜けると、目の前にその市城は建っていた。
 青白いリナイスの映し出すのは幾層もの楼閣をめぐらせた、ペルジアやエトルリアのそれとはかなり様式の違う城砦であった。――このヒダーバード市城は、まだゼーア帝国が健在であり、メビウスが建国されて間もなかったころの、古い建築様式にのっとって建てられているのだ。これはもとはイズラルにとっては北東を守る砦町であった。そこへ当のゼーア皇帝自らが逼塞するなりゆきとなっているのだった。
 とはいうものの――さすがに古い文明のあとで、実際には現在のイズラルの味も素っ気もない、特色らしいものもあまりない四角四面の街並み、建物よりも、この古ぼけたヒダーバード市城の方が、芸術的であり、美しかったのも事実である。
 ぐるりとめぐらされた城壁には王冠型に飾り彫りがつけられ、角々にはごく古い神々の像が立っていた。その像も、すでに苔むしてところどころ崩れ落ちており、分厚い一枚板の城門には、今となっては知るものも少ない、双頭の鷲――ゼーア皇帝家の象徴がなかば嘴も欠け落ちて、彫り込まれている。
 アルドゥインは兵たちに森の中にとまっているように命じると、城門の程近くまで出ていって十テルジンばかり、考えにふけっているようだった。
 皇帝の置かれているきびしい境遇を反映してのことだろう。高貴の人の居城でありながら、この城門には衛兵が不寝番をしている形跡もなく、したがって城壁の上からするどい誰何の声がとぶことも、矢を射掛けられることもなかった。それでもこれは中原でクライン、メビウスについで由緒のある、青い血の皇帝の終の栖であったのだ。
 それどころか。その首都イズラルはカーティスと並ぶ中原文化の中心であったのだった。クラインよりも早く上下水道が完備したのがゼーアの誇りであり、そのころには沿海州、メビウスなど、今のエトルリア、ペルジアにとってのラトキアよりもさらに辺境の野蛮国、蛮族の新興の国と軽んじられ、下に見られていたのである。
 が、いまや沿海州は連合として世界でもっとも富んだ国に成長した。メビウスは世界屈指の大国となり、常に競争相手であったクラインはいまだに中原の華、文化の中心の名誉を誇る。
 ひとりゼーアのみが形骸化し、名のみのゼーア皇帝の居城は古びて、朽ち果てる日をただ待つかに見える。しんとして、人けもないようなその市城の石はすりへり、苔むし、ところどころ崩れ――知らぬものが見れば、古びた廃墟に過ぎぬと見えるかもしれぬ。
 アルドゥインはなおもゆっくりとその城を見上げてから、セリュンジェたちの待つ場所まで戻ってきた。
「なあアルドゥイン、早く次の命令を出してくれよ。夜明けまでってあんたは言ったんだし、もうすぐ夜明けになっちまうぜ」
「わかってる。これは、賭だな」
「賭?」
 この非常時に何を――と言いたげなセリュンジェをはぐらかすように、アルドゥインは続けた。
「ウジャス皇帝をイズラルがないがしろにし、あるいは安心していれば、俺たちはわけなくヒダーバードに入れる。あるいはアダブル大公とトティラ将軍の読みが深ければ、そこで俺たちの命運は尽きるわけだ」
「ヒダーバードに入るって、ウジャス皇帝に会うつもりなのか?」
 セリュンジェはぎょっとしたように尋ねた。
「そうだ」
 アルドゥインはあっさりと肯定した。
「会うってさ、アルドゥイン――約束をしてるわけでもあるまいし、そう、紹介状は持ってるのか? それとも、手形か何かは?」
 彼はそう言って、何かとびっきりの冗談を言ったような気になってげらげら笑い出したが、アルドゥインが反応してくれなかったので唇をちょっと尖らせて黙った。
「月が傾く――」
 アルドゥインは言った。
「よし。行ってこよう」
「俺たちはどうするんだ」
 アルドゥインはにっと笑ってセリュンジェに采配を手渡した。
「怪しまれずに城内に入る――そのための六百だ。いいか、俺たちはイズラルからの使者ってふりをして、ヒダーバードに入る。城門の前で整列して待機。俺が門を開けさせるから、俺が入ると同時に采配を振って、それを合図に全員で駆けいる。それからの指示はまた後で出す」
 言い置いて、アルドゥインはまっすぐに馬をかえして、ヒダーバードの城門を目指した。六百騎もそれに続く。彼らはまっしぐらに、ためらうようすなど一瞬も見せずに森から駆け出た。アルドゥインは古びた城門に駆け寄るなり、かいどった槍をくるりと返し、石突を差し延べて、したたかに門を叩いた。
「ヒダーバード――開門! 開門を願う!」
 凛と響く、月光のような澄んだ声が月下の城壁をおどろかせた。不審に思われるか、あるいはメビウス軍のそれと見分けられれば矢を浴びせかけられることもある。待つ騎士たちは手に汗を握りしめた。
 凍りつきそうな夜のしじまと寒気を破るものは、アルドゥインの声だけかと思われた。その時。城壁の上に、一つの頭がのぞいた。
「開門を求めるのは、誰だ?」
 さほど、するどくもない――というよりだいぶびくついたような声が叫び返した。アルドゥインはすかさず答えた。
「アスキアのアルドゥインとその麾下六百。さきほどイズラルにてトティラ将軍にお目通りせし者。開門を願いたい」
「使者か?」
「いかにも!」
「待て」
 頭が引っ込み、そしてやや間があって、重く、木と鉄の、きしむ音がした。はっと、セリュンジェは息を呑み、汗ばむ手に、采配を握りしめた。それは、もっとも耐えがたく長く感じられた。
 息詰まるような数瞬。
 やがて門の間が一バールほどになり、アルドゥインは馬をゆるやかに進めた。彼の馬が門を抜けるか抜けないかというところでセリュンジェはさっと采配を上げ、振り下ろした。とたんに拍車を当てられて驚いた馬が一気に駆けだす。
 怯えて殻を閉ざす貝のようにのろのろと門が閉められようとするのを、すでに中に入ったアルドゥインが右手と、左手に握った槍で突いて押し戻す。
「わ、わ、何をする」
「くせもの、くせもの!」
 衛兵二人はあおりを食らって転倒した。右側にいた衛兵は扉のかげに倒れたが、かんぬきにしがみついていた左側の衛兵は道の真ん中に投げ出され、なだれこんでくる騎馬に巻き込まれそうになった。アルドゥインはすかさず彼を馬上から抱え起こした。
「助けてくれ! 命だけは!」
 殺されると思ったのか、衛兵は泣き出さんばかりの勢いで叫んでもがいた。その拍子に転がり落ちたかぶとの下から現れたのは、真っ白な白髪頭と六十絡みの老人の顔だった。アルドゥインは目に驚いたような光を浮かべたが、態度には出さなかった。
「乱暴にしてすまなかった。許してくれ」
 地面に下ろしてやると、老人はへたへたとその場に座り込んでしまった。全員が入るなり、門扉はメビウス騎士たちの手でぴったりと閉ざされてしまった。
「何でえ、この街は!」
 大した抵抗もせずに武装解除されてしまった衛兵の老人を見て、セリュンジェは驚きとも呆れともつかぬ声で叫んだ。
「ゼーア皇帝の居城ともあろう街を守るのが、こんなよぼよぼのじいさまだったとは知らなかったぜ!」
「俺は、どうせこんなところだろうとは思っていたがな」
 アルドゥインは一貫して冷静だった。
「相変わらず食えないやつだぜ」
 セリュンジェは口の中でこっそりと呟いて内心舌を巻いた。一陣の風のように門を駆け抜けた六百騎はただちにもとのように隊列を組んで、アルドゥインの前に整列した。
「クラルスは二十騎とともにここに残り、門をかたく閉ざし、我が軍以外に開いてはならない。コハンは三騎を率いてナラに伝令。カトライは百騎を連れて城壁を回り、それぞれの門に二十騎ずつを割り当てて、衛兵を武装解除し、ひとところに集めておくように。残りは俺についてこい」
 答えを待たず、アルドゥインはふたたび馬に笞を当てた。命じられた者たちもさっと分かれてそれぞれの方向に駆け出していく。ようやく突入した、ヒダーバードのちょっと珍しい風景に目をくれる余裕もない。
 ヒダーバードのおそらくは大通りと思われる広く長い石畳の上を、アルドゥイン率いる騎士たちの蹄の音が駆け抜けてゆく。人々は寝静まっているのか、それとも怯えて、様子を見に行こうとするものもいないのか――街は、そこに住むものは誰もいないのではないかと思われるほどに静まり返っていた。

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