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                                *



 イズラルが燃えている。
 《青の都》は終末の世界を思わせる炎の色に沈んでいた。
 むろんまことの炎ではない。夕焼けのさいごの残照――それがイズラルの街全体を炎に包まれているように照らし出しているのである。
 ペルジア自体があまり起伏のない土地柄であることもあって、赫光は平地全体を包んでいる。まるでこの世界全体が炎の中にあるかのような錯覚さえ覚えさせられた。
 夕日はすでにイズラルのかなた、山の端になかば沈んで、驚くほど大きなオレンジ色の円盤となって揺らめいている。山の稜線は雪をかぶった輪郭があかあかと光り輝き、周りの森も黒いシルエットとなって浮かび上がっている。
 イズラルには丈が低く四角い建物がほとんどで、クラインのように高い塔が林立しているわけでも、エトルリアのように水路に橋がかかっているでもない、何の特徴もない街である。その真ん中にそびえ、黒々とした影となっている大公城・碧玉宮は、愛想のない長方形の、のっぺりとした建物であった。
 しかしたそがれどきの光の中で、青い都は今やそのトーンを紅に染め替え、薄暗い、ほのかに紫がかったような不思議な色合いに照り映えている。それはゼーア三千年の歴史を偲ばせて、なかなかに古式ゆかしく美しい眺めであった。
 住宅街のあちこちから、夕餉のしたくをしていると見える炊ぎの煙が上がっている。今回アルドゥイン率いるメビウス軍の来襲を知っても、イズラルから人々が落ちていったということはないようだ。そうすることも諦めているのか、それともイズラル衛兵隊に絶対の信頼を置いているためなのか、それは定かではなかった。
 空の明るさがだんだんに薄らいで、橙色とあかね色が濃い群青色に染め替えられていく中で、イズラルの街にも少しずつ、星が瞬きだすように灯が入りはじめる。イズラルの夕べである。
 市民たちの日常を見下ろす、夕陽が照らし出すナラの丘上。
 そこで美しいあかね色の光に染められた紅玉騎士団のよろいかぶとがきらきらと反射して輝いているのもおそらくあと数分のことだろう。
 ナラの村人たちも、怯えていたとしても日々の生活をしないでいるわけにはいかないのだろう。ちらほらと炊ぎの煙がたちのぼりはじめた。木々をすかして見える家々に、暖かく懐かしい火の色が灯りだした。
 戦争に来たのであるし、どこまでメビウスの騎士たちが景色を楽しんでいたかは判らないが、それは旅人の郷愁を誘い、物悲しさをそそる風景であった。馬がいなないて、かいばを求める。
「千騎長――いや、将軍殿っ」
 だんだんに立ち込めてきた宵闇の中を、偵察に出ていた騎士がまろぶような勢いで駆け戻ってきた。
「申し上げます! イズラルの城門が開きました!」
「やった! 今度こそトティラ将軍に違いねえ!」
 セリュンジェは躍り上がらんばかりに喜んだ。
「人数は?」
 対照的にアルドゥインは、何事も変わったことなど起こっていないかのように平静であった。それに気づいてセリュンジェはなんとなくばつの悪い感じで口を閉ざして、振り上げた両手を下ろした。
 完全に太陽は地平線のかなたに没し、まだわずかな残照の名残がかすかに西の空を赤に染めていたが、あの炎の世界は一瞬の夢かまぼろしであったとでもいうように、世界は濃青の闇が濃くなりつつある。陣内にもかがり火が焚かれ、松明が燃えて燻られた煙が目や鼻を刺す。
「暗いのではっきりしませんが、おそらく百騎前後と思われます」
「百騎」
「はい。彼らの先頭に、ひときわ目立つ、甲冑をつけ、長いマントをひいた大柄な騎士が大きな馬に乗っています。おそらく、あれこそがペルジアの大将軍、トティラ将軍にまちがいございますまい」
 騎士は興奮を隠せない様子で言った。だがアルドゥインはトティラ将軍であるかどうかについては一言も触れなかった。一人の平騎士であればともかく、一軍を束ねる長となっては、確信ももてぬうちからそうと断じてしまうものではない、と態度で示しているかのようだ。
 松明の明かりの下で、アルドゥインの姿だけが闇から切り取ってきたように黒い。それを目指して見張りの兵が駆け込んできた。
「申し上げます。イズラルから出てまいりました一隊より、白旗を掲げた軍使が先着し、先陣においてある千騎長に口上を述べております」
「言ってくれ」
「はい。当方はペルジア大公アダブル閣下の代理、トティラ将軍である。アルドゥイン司令官との会見を望む、とのことでございます」
 いよいよ来たか――と興奮した騎士たちのざわめきが広がる中、アルドゥインはしずかに答えた。
「では軍使に答えてくれ。会見に異存はないが、いらぬ争いや誤解などあっては困る。会見の場所は丘の中腹とし、双方代表の他に連れるのは副官五名のみ、またはからぬ事故などを防ぐため、一切の武器を携帯せぬことを条件としよう。それに異存なくば松明を三回振り、了解した知らせにこちらも同様に返すことを合図とする」
「了解。復唱いたします」
 復唱が終わると、彼はそれを伝えるためにまた駆けていった。
「とうとうトティラまで引きずり出したな」
「まあな。ここからが正念場だ」
 アルドゥインは唇の片隅に笑みを浮かべた。軍使が戻って、さきのアルドゥインの言葉を伝えたのだろう。まもなく丘の下の百騎から松明の赤い点が離れ、ゆっくりと三回左右に大きく打ち振られた。メビウス側も同じ合図を返す。
「よし、行こう」
 丘の上と下に分かれた光の群から小さな光の点が離れ、丘の上のものは下り、丘の下のものは登っていく。ゆるゆる近づいていった光はやがて丘の中腹あたりでぶつかって一つになり、そこにぴたりと止まった。
 この会談の成り行きやいかんと、メビウス軍も、丘の下の百騎あまりのペルジア兵も、固唾を呑んで光点を見守った。
「お初にお目にかかる」
 光点の真ん中で、二人の司令官は向かい合って立っていた。まずアルドゥインから口を切った。
「ここまでのご足労いたみいる。それがしはこのたびメビウス軍を率いるアスキアのアルドゥイン。以後お見知りおき願わしい」
「わしはペルジア大公よりペルジア禁軍十万をあずかる右大将軍トティラだ。アルドゥイン」
 さんざんじらされた挙げ句に引きずり出されることになったトティラは、とりあえずのところ腹を立てているようでもなく落ち着いて、相対するアルドゥインをじっと見据えていた。
 ペルジアきっての英雄――というよりも中原で一、二をあらそう勇士との誉れも高い、アダブル大公の至宝である。
 彼は生粋の軍人、生まれながらの武人として知られていた。ペルジア将軍の地位にあって二十年近くもの長きにわたって中原一の英雄、生ける軍神、巨人としての名をほしいままにしていることからもそれが判る。
 アルドゥインの目の前に立っているトティラ将軍の姿は、その評判を裏付ける、噂どおりの姿だった。
 四十の坂をとっくに越えているはずだが、見たところ体力も気力もいささかのおとろえも見せてはいないようだ。彼はとてつもなく大きな男でほとんど身長が二バール近くあり、どこもかしこも鍛え上げられた筋肉に覆われている。甲冑や衣服の上からでもその全身をよろっている筋肉の見事さが窺い知れた。
 肩幅もアルドゥインより広いぐらいで、隆々と盛り上がった腕などは女の細腰よりも太いのではないかと思われるほどであった。その太さと逞しさが示す如く、彼の腕は尋常ならざるほどの力を秘めていて、彼を取り巻いている伝説の中には、若いころ突進してくる猛牛を角を掴んで止め、ひねり殺してしまっただとか、いちどきに両手で敵兵の喉首を掴んで二人ながらに絞め殺しただとかいうものが含まれていた。
 そんな噂や伝説もむべなるかなと思わせるものが、その姿にはあった。彼の顔は無骨といった言葉がぴったりで、どちらかといえば醜かった。肌には歴戦の傷跡が刻まれ、日に焼けて黒々としていた。ひっこんだ小さな目は火を噴くかと思われるほど激しいものを内に秘めてアルドゥインを見据えている。
 彼は、むろん軍使としての任務を果たすためのそれも多分にあっただろうが、非常な興味と関心を隠そうともせずにアルドゥインをじっと見つめていた。
 彼ほどの体格と力を持つ戦士にしてみれば、職業的な剣闘士などを別とすれば、自分に匹敵する体格と、おそらくは力を持っていそうな相手に出会うことなどほとんど稀なことで、この興味も当然のことと言えた。
 同じことがアルドゥインにも言えたわけで、彼も自分に近い大きさの相手に向き合うのは、琥珀将軍ソレールをのぞけば初めてといっても良かった。
 といってもトティラの身長のほうが彼よりも少し高く、横幅もずっと大きかった。彼の猪首と逞しく筋肉の盛り上がる肩、長く太い腕や胴などはむろんもともときわめて太く、がっしりしていたのだが、四十を過ぎて、さしもの英雄もその上に脂肪がずっしりと上乗せされていて、一回りも大きくなっていた。
 元来が逆三角形の体格というよりは腰回りもどっしりと太い、雄牛のような体格であったのが、肩や腕などはいまだ見事な筋肉を保っていたが、腹や腰回りなどはせりだしはじめていた。とはいえまだ俊敏に動くことは充分にできたし、むしろその肉のためにますます彼は巨大に見え、ネプティアその人のように威厳に満ちて見えていた。
 その前に立つとアルドゥインまでが華奢に見えた。彼には無駄な筋肉というものがまったくなかったのですらりとしていたし、そのせいで実際のところトティラ将軍の方が背が高かったのに、同じくらいかアルドゥインの方が高いように見えた。
 二人の周りにいるのは職業軍人ばかりであったから、この二巨人の相対する姿を見て、期せずして同じように彼らの脳裏をよぎったのは、この二人を戦わせてみたらどうなるのか、という問いであった。
 それはなかなかに難しい問いであったに違いない。トティラは譬えるならば巨大な熊か雄牛であり、アルドゥインは豹か獅子であった。体重もあり、体力もありそうな分トティラに分がありそうに見えたが、アルドゥインは若くてすらりとしているぶん彼よりも俊敏に動けただろうし、彼のしなやかでかつ鋼のような筋肉は、豹や狼にも似た瞬発力と力とを彼に与えているはずだったからだ。
 しかし軍の最高司令官である二人は、そのような個人的な感慨にいつまでもふけっているわけにはいかなかった。
「おぬしの名は何度か聞いている」
 トティラはおもむろに口を開いた。松明の明かりを受けて、その目が赤く輝くかのようであった。
「アルドゥイン騎士団などと気取って名乗っても意味はあるまい。メビウスの紅玉騎士団千騎長アルドゥイン。こたびの無謀なふるまい、ディオンの命か、それともイェライン帝の命か」
「トティラ将軍には、思い違いをなさっているようだ」
 アルドゥインはかすかに笑った。彼の整った美しい横顔も、闇の中に赤く照らされて幻想的に浮かび上がっている。
「今一度トティラ将軍に明言しておくが、我々の行動の一切はメビウス宮廷の意思とは何のかかわりあいもない。国境を越える際に、我々はメビウス軍を離脱している。従っていずれの国籍にも、軍籍にも属さぬ。かつてメビウスの兵であろうがなかろうが、今現在のわれらはアルドゥイン騎士団の他なにものでもない」
「そのような強弁、言い逃れが通ずるとでも思うのか」
 トティラは噛み付くように言った。
「言い逃れなどではない。アヴァールに駐留しつつ、俺は紅玉将軍リュシアン・ド・ディオン閣下に再三に亘ってペルジア派兵を嘆願したが聞き入れられず、また我が皇帝イェライン陛下にもかたく拒絶されるに至った。そこで我々は謀って君命に反するとは知りつつメビウス軍を脱走した。もしお疑いあれば今すぐにもオルテア宮廷にこの件につきお問い合わせされるがよい。われら五千騎はもはやメビウス軍の成員にあらず、と返ってくるだろう」
「あくまでそう言い張りたいというのであれば、それはそれでよかろう」
 激するかと思われたが、トティラはまだ冷静だった。しかし彼がアルドゥインの言葉を全く本気と受け取っておらぬことは、その目の暗い光からはっきりと知れた。
「それよりも、だ。アルドゥイン」
 ふいにトティラの声音が激しいものを帯びた。
「きさまの狙いは何だ! 何ゆえこのようなまねをする?」
「……」
「答えろ!」
 剣を持っていたならば、今にも切りかからんばかりの勢いで、トティラは詰め寄った。しかしアルドゥインは動じたようすも見せようとはしなかった。
「将軍は誤解しておられるようだ」
 二回りも年上の相手に対するとは思えぬほど落ち着いた、穏やかとさえいっていいくらいの口調でアルドゥインは言った。
「この会見に応じたのは、将軍に降伏し、尋問に答えるためではない。我々としてはいかなる会見にも応じる必要も理由もないところ、ペルジアのトティラ将軍ともあろう勇武の将みずからのご出馬の労に対する礼儀としてこのような席を設けただけのこと。そのような礼を失した応対をこれ以上続けられるというのであれば、俺はこの場にとどまる理由を持たぬ」
「……」
 トティラはぐっとつまり、ぎりりと歯を噛み鳴らした。

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