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     かれらは厳しい冬のさなかに戦った。
     そこでのちに人々は
     この戦いを冬の戦いと名付けた。
              ――メビウス年代記




     第四楽章 戦いのガリアルダ




 ここはメビウスの国境近く、タギナエ。
 アヴァールの森に、粉雪がしんしんと降り続いている。
 年中葉を落とさぬ樅やレント杉などの針葉樹の、暗く重たい緑の光景がずっと広がっている。色彩を全て埋め尽くすように降りしきる雪の白が目に痛いほどだ。その遥か遠くにレント山脈の突兀(とつこつ)とした連なりがうっすらと見え、そこから重い灰色の雪雲がどんよりと垂れ込めている。
 北国メビウスは北方を凍土に覆われた氷原地帯に接し、西方は流氷連なる北ミリア海に面している。またレント山脈に阻まれた緯度の高い土地であったから、温暖なクラインの盆地とは季節にして一ヶ月以上の温度差がある。
 北方のヴェンドやヴェルザー、アラマンダでは一年のほとんどを寒さに閉ざされる。しかし東南のタギナエでは春まであとわずかとなったネプティアの月になればあまり気温は低くならぬし、雪も降らぬはずであったが、雪は春の水っぽくべたついたそれに変わってもいっかな止む気配を見せない。今年の冬はいつになく厳しい。
 このアヴァールでメビウス軍一万とペルジア軍二万がにらみ合いを始めてから、すでに四旬。年は変わり、本陣をピウリの寒村に移動してからは、まもなく一ヶ月になろうとしている。
 年が明けてから和平交渉の公使としてイズラルに赴いたシェリス伯爵が軟禁され、返還要求にも応じないという事態を受け、新年の祝賀ムードからも完全に覚めたネプティアの月になってから、メビウスは正式にペルジアに対して宣戦布告を行った。それが一日前の出来事であった。
 白い旗を掲げた使者がメビウスからの宣戦布告を携えて現れるや、まるで意気込んでタギナエに向かった兵士たちをあざ笑うかのようにペルジア軍はグレインズに引きこもり、アヴァールの森の中に消えていってしまったのである。
 世界に冠たるメビウス軍が、宣戦布告を行っていながら何もせずに駐屯を続けているとは、中原のいいお笑い種であった。あるいは強力なメビウス軍を分断し、その隙を突いて他の場所を落とそうという深い企みがあるのではないかと読む者もいる。
 だが、相手のペルジアにそのような動きは全くなく、アヴァールの森深くに籠もってしまっているのだった。
 イェライン皇帝からは占領されたグレインズを奪還することが使命であり、ペルジア国内に攻め込まぬようにとの命令が出されている。また受けてたった戦争であるのだから、軽々しくこちらから討って出るようなまねをしてはならぬと将軍からも言い含められていること、時折小競り合いが続き、ゾンビー騒ぎも相変わらず続いていたが、この二旬ほどは全く双方に動きがないまま時ばかりが流れていた。
 いくら紅玉騎士団がよく訓練された軍隊であったとしても、寒さと退屈が慢性的にはびこっているこの状態で士気を維持しつづけるのは困難なことで、このところ彼らの士気はみごとなまでに急速に低下していた。
 さらにそれに追い討ちをかけたのは、最初に陣を張ったグレインズの野に木で防御柵を建設せよという命令であった。総力戦にならないことどころか長期戦の構えを見せるというだけで彼らはやる気の大半を失ってしまっていた。
 ご存知のとおり紅玉将軍やごく上の将校たちはこの戦いが長引くだろうことを充分に予想していたので、それに対する備えをしておこうと思ったわけであるが、そこまで下々の兵士たちに判ろうはずもなかった。
 騎士団の騎士たちはオルテアではこのような大工仕事をさせられたことなど一度もなく、不平たらたらであった。彼らの手は剣を振るい、槍を使うためにあるのであって、斧を持って木こりの真似事をするためのものではないというのである。
 グレインズに残って柵の建設を命じられた隊はピウリに移動した隊をうらやみ、早く当番が回ってくることを祈り、ともあれピウリで屋根のある生活ができる隊は当番が回ってこないことを祈るという状態だった。
 リュシアンは不平を和らげるためとして、近隣の村から買い上げた酒や鳥、牛、豚などの肉を大量に配給させた。これは兵法上まったく無意味とか逆効果というわけではなかったのだが、百騎長以上のクラスのものがほとんどピウリに撤収させられて監視の目もゆきとどかない状況では、軍律厳しい騎士団ならばともかくもこれが傭兵の軍団だったりしたならたちまち彼らは飲んだくれの集団と化すか、反乱を起こしていたことだろう。
 さすがにそんな状態にはならなかったが、兵士たちはぶうぶう言いながら森に入って木を切り、製材して運び出し、アヴァールの森には木を切り倒す手斧の音とすがすがしい木の香りが流れた。
 そうして兵士たちが野営地に戻ってくると、今度は飲み放題の酒と、肉が焼かれているのだった。その香ばしい香りはおそらく森の中の敵軍にも届いていたことだろう。これがメビウス正規軍のよろいかぶとの姿でなかったなら、この光景はさしずめ盗賊たちの饗宴じみて見えただろう。
 さすがにこの状態を見るに見かねてそっと進言するものも隊長クラスにはいたのだが、リュシアンはそうすると、では肉を十荷、酒を百駄増やそう、と全く逆効果にしかならぬ命令を下すのであった。
「おれたちゃ随分な貧乏くじを引いたもんだぜ」
「まったくだ。年越しのご馳走すら出なかったからな」
「あんときゃこんなに長くなるたあ思ってなかったけどよ」
「こんな所で斧を振り回して木こりの真似をするために来たんじゃないぞ」
 今日もあちこちで兵士たちのぼやき、繰り言が聞こえていた。酒が入るので余計に愚痴っぽくなっているのだった。
「俺は初めての子供が生まれるところだったんだ」
 誰かが言い出すと、たちまち一斉に広がる。
「それを言うなら俺だって、三人目が――」
「お前らは女房が待っててくれるからいいじゃねえか。俺なんか……あああ、長いこと女の尻を見てねえ」
「見えるのは野郎どものむさ苦しいつらばっかだしよ。どこを見たって雪、雪、雪! 相手はやる気のねえペルジア兵に不景気なゾンビーども! これで酒もなけりゃあやってられねえよ」
 空に垂れ込めている雲よりも灰色の空気が、メビウス軍の陣内で淀んでいるかのようであった。そんな中でアルドゥインは柵の建設も雪掻きも真面目にやっていた。彼が真面目にやっているので友人たちも何だかさぼりづらくて、結果として彼のいる五番隊ディウス隊は何となくではあったが周りの隊から浮いているように見えた。
 ディウス隊や紅玉将軍の親衛隊、一番隊の中では、アルドゥインが紅玉将軍の天幕に呼ばれていくと、必ずといっていいほどその後で納得いかないような奇妙な命令ばかりが下される、という相関性に気づいているものもいた。その最たるものが本営の移動であり、防御柵の建設であった。
 むろん傭兵上がりの兵士が将軍の決定を左右しているとは考えられないことであったので、たいていの者はもしそう思ったとしても「まさか」の一言で片付けてしまっていたが、それにしても「何かおかしい」程度の疑念がアルドゥインに付きまとっていたのは間違いが無かった。
 アルドゥインが周りの不平不満など自分には関係のないことのように命じられたまま作業にいそしんでいたものだから、疑念を抱いているものにはますますその疑念を深める結果となっていた。
 おかげでアルドゥインは一部のものたちからは南からやってきた黒い疫病神みたいに思われていたし、かげでこっそり「ウーリー」という全くありがたくないあだ名を頂戴していた。実際のところ防御柵を建てさせるという案はアルドゥインが出したものであったので彼に弁解の余地はなかったのであるが、寒波まで彼のせいにしようとしている者がいると知ったら彼はおそらく憤慨したことだろう。
 アルドゥインといちばん親しいセリュンジェたちも将軍の命令とアルドゥインの呼び出しの間に不可解なものを感じていたうちのひとりであった。それである日とうとうカレルが本人に尋ねてしまった。
「なあアルドゥイン、お前この頃よくディオン閣下に呼ばれていくけど、何の用でそんな呼ばれるってんだ?」
「え」
 アルドゥインはそのとき、丸太を作るときにできた木切れを短刀で彫ってニップルの駒を作ろうと奮戦している最中であった。胡坐をかいた彼の足元には彼の手になる王の駒とか騎士の駒が転がっていた。盤は升目になっているものなら何でも使えたので、あと必要なものは駒だけだったのだ。
「俺もよく判らないけど、話をさせられる」
 女王の駒の顔を刻んでいる途中だったので、アルドゥインは手元から視線を離さずにいた。
「話?」
 尋ね返したのはジョーンだった。
「ああ」
 生返事をしながら出来ばえを確かめるようにちょっと掲げた駒をためすがめつして、くっついている木屑をふっと吹き払った。納得いく作りだったようで、彼は次の駒を作るための切れっ端を手に取った。
「その話っていうのは」
「いろいろ、だよ」
 アルドゥインはあまり気のない様子だったが、ジョーンは食い下がった。はぐらかしているようにしか思えなかったのだ。彼は少し声を荒げた。
「お前なあ、黙っていたいことだったら素直にそう言え。誰にだって踏み込まれたくないことがあるのは判るからよ。でもはぐらかそうとするのだけはよせ。そういうのは、礼儀じゃねえぞ」
 思いのほかに強い口調で言われて、アルドゥインはびっくりしたようにジョーンの顔を初めてまともに見た。付き合いの長いセリュンジェとカレル、アロイスも、彼が声を大きくするようなことはほとんどなかったので驚いた。
「何も無理に聞き出そうってんじゃない。だけど俺たちは同じ騎士団の仲間だろ。もう少し信用しろよ。お前が他に話して欲しくないことなら言わねえよ」
 何を言うべきか迷っているようにアルドゥインは口を開きかけて視線をさまよわせ、それから小さい声で詫びる言葉を言った。
「でも、いろいろ話させられるのは本当なんだ。どこまでお前らにも言っていいものか、俺には判らない」
「『そういう』話なのか」
このところ剃っていないので頭を出してきたひげでざらざらしている顎を撫でて、カレルが呟いた。アルドゥインは口を滑らせてしまったことに気づいたが、辛うじて表情に出すのは抑えた。
「いや……その……」
 四人は気まずいアルドゥインをまじまじと見て、互いに顔を見合わせて、それから改めて呆れたようなため息をついた。
「アル、隠しておきたいならもう少し嘘が上手になったほうがいいぞ。まあ、そんなところがお前のいいところだけどさ」
 セリュンジェはため息のあとにそう言った。
「話したくないならこれ以上は聞かないが、これだけは答えてくれ」
 そこまで言うと、周りには聞こえないように彼は声を落としてアルドゥインの耳元に口を寄せてささやいた。
「ディオン閣下はお前の話を参考にして命令を出してるのか?」
 打ち明けるべきかそうでないかアルドゥインは迷ったが、結局のところ覚悟を決めた。友人たちを信頼することにしたのだ。それにはさっきのジョーンの言葉が大きかった。
「……柵を作るとかは……俺が言った」
 ためらいがちに、彼は言った。
 アルドゥインの告白は彼らの中にあった疑惑を確信に変えただけだったので、それほど皆驚いたでもなかった。アロイスがたたみかけるように尋ねた。
「差し支えなければ、どうしてそうしようと思ったのか教えてくれないか」
「俺が言ったってことは内緒にしてくれよ」
「ああ、判ってる」
 一旦喋りだしてしまうと肩の荷が下りたのか、アルドゥインは続きを話すのを拒まなかった。
「防御柵を作ること自体に大した意味はないんだ。もちろん長期戦になるのは最初から予見していたし、そうとなれば必要になってくるものなんだが、あれを作る本当の目的は……」
「目的は?」
 四人はほとんど同時におうむ返しに尋ねた。アルドゥインは身を乗り出してきた四人を押し戻して、念を押した。
「言っても怒るなよ」
「怒るようなことなのかよ」
「多分」
「怒らねえよ。だからさっさと言え」
 ぐずぐずしているのが嫌いなジョーンが急かした。
「あれを作らせるのも、酒と肉の配給量を増やすのも、士気を下げるのが目的なんだ」
「な……なんだそりゃあ」
 自軍の士気を下げるための方策というのも前代未聞であったし、こんな作戦をリュシアンが受け入れて実行したというのも信じられない話であった。四人は目を――これはアロイス以外の三人にはあくまで比喩的な表現だったが――白黒させた。
 四人は最初アルドゥインが冗談を言っているのだと思ったけれども、顔はいたって真面目だったし、こういうところで冗談を言うような性格でもないのだからどうも本気らしいと判ってきて、ますます混乱した。
「どういうことだよ」
 アルドゥインは彼らが怒らなかったのでいくぶんほっとしたようだったが、それと同時に四人を混乱させてしまったということにも気づいていたので、ちょっぴりすまなそうに肩をすくめた。
「とりあえずまあ……成功してるわけなんだが」
「成功って、お前……」
 セリュンジェは思い切り変な顔をした。まさかそんなこともあるまいが、目の前に座るこの沿海州の傭兵がペルジアの手先なのではなかろうかと一瞬本気で疑ってしまったのであった。

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