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                                 *



 雲が流れている。
 まだ青い空に浮かぶ、白い雲のふちは夕焼けの予兆を見せてばら色に染まりつつある。はるかに西を眺めればたしかに大きな赤い円となった太陽がサリア湖に沈もうとしているところだ。
 そしてここは、水の都、エトルリアの首都サッシャ。
 エトルリアは隣国であり、また盟国でもあるペルジアの対メビウス戦役の知らせを受けて、この数日揺れていた。
 メビウスはエトルリアに並ぶ武勇の国として知られており、国家そのものも磐石な国である。だからこそあえて侵略しようという気を起こした国など戦乱時代のゼーア帝国ぐらいのもので、ここ数百年は全くといっていいほど大きな戦争は経験していない。そんなわけで突然のペルジアの行動はいささかどころでない不可解なものをはらんでいた。
 ペルジアはエトルリアの盟国であり、これはエトルリアの人々もともすると忘れがちなことだったが、ペルジアの大公妃ファレンはエトルリア大公サン・タオの異母姉であった。けれども、だからといってメビウスを攻める謂われはない。もしも二国連合での侵攻を持ちかけられたとしても、エトルリアがそれを受け入れるかどうかは定かではなかった。エトルリアはペルジアとは違って国そのものがまだ強力であったし、ラトキアを再併合したばかりで、他国にこれ以上の食指を動かすこともなかったのである。
 しかし地理的にこの戦争の当事者であるペルジアとメビウスに北と東を挟まれ、最も近いエトルリアとしては、この動乱はあまりありがたい状況ではなかった。
 そのように――エトルリアを取り巻く情勢はあまり穏やかではなかったが、しかし自然は常と変わらぬ穏やかさ、美しさを変えずにいる。
 幾つも突き出した尖塔が夕焼けとともに湖の静かな湖面に映りこんでいる様は、見慣れたものでもふと目を奪われるほど美しい。
 中原でも有名な建築物の一つ、華麗な雪花宮の一角、《ためいきの塔》。
 そこには今やたった一人生存を確認されているラトキア大公家の公女シェハラザードが虜囚の憂いをかこっている。
「大公閣下がお越しです」
 小姓が入ってきて告げた。おそらく純粋なエトルリア人ではないのだろう。エトルリア人にしては珍しいぐらい明るい色の髪をぴったりと撫でつけ、半球のような形をした独特の帽子をかぶっていた。中原では珍しいエルボス民族の血が流れるエトルリア人は、黄色っぽい肌とつり上がった目、黒髪と黒目ですぐにそれと判る。そしてその文化も他の中原民族とは全く違う。
「そう。――ただいますぐ参りますとお伝えしておくれ、エリシャ」
 シェハラザードは物憂げに窓際のアルコーヴから声をかけた。サリア湖を見晴らすことのできる窓には入水を防ぐための鉄格子がはめられていて、いかにも監獄めいている。シェハラザードの姉、ドニヤザード公女がその窓から身を投げたのは、たった五ヶ月前のことである。
 彼女はもう一度ちらりと窓の外を眺めた。冬の日暮れは早い。もう空は全て赤とばら色と、橙色に染められてしまっている。ようやっと背中に触れるまで伸びた白銀の髪は西日を浴びて炎のように輝いた。
 当初与えられていた何のそっけもない白のドレスはこの頃ではやっと取りやめられ、彼女がこの日身に付けていたのは柔らかなアーモンドグリーンのドレスであった。冬の最中であること、しっかりとした織りの綿でできている。
 四角く刳られた胸元と背中はなめらかに白く、白鳥を思わせてすんなりとした首の付け根にはなまめかしくくっきりと鎖骨の窪みが影を落としている。装飾品を与えられてもシェハラザードはかたくなにそれを身に付けることを拒んでいたが、そんなものがなくても彼女は充分に美しかった。
 この数ヶ月でやつれたといってもいいほど痩せて、ラトキア人特有の頬骨の高さが目立つ。鼻梁も高くて彫りが深い。紫色の目は鋭く、つり上がってエトルリア人めいて見えた。しかしセラード人の銀髪と紫の瞳はエトルリア民族にはありえぬもので、やはり彼女は異国人なのだった。
 誰もにかしづかれるラトキア公女の身から一転して、明日をも知れぬ敵国の虜囚――この数ヶ月の身辺の流転のためにかその顔はずっと大人びて、少女めいたもののかけらも残ってはおらぬ。今ではめったに心からの笑顔がそのおもてに浮かぶこともない。
 シェハラザードは当面の居間となっている最上階の部屋を出て、階下に降りていった。いつもエトルリア大公家の者と会うときには、二階の一室が使われている。最初にそこに敷かれていた絨毯や、備え付けてあった家具は取り除けられているので、寄木で作られた床がむき出しになっている。
 その床は、もう一人の彼女の姉、エスハザードの血を吸った床なのだ。その時に置かれていたものはもう何一つとしてここには残っておらぬけれども、シェハラザードには姉の魂がまだここに残っているような気がしていた。
 室の端に置かれたテーブルにはすでに大公をもてなすためのアーフェル水が用意されていて、大公はそこに座っていた。
「ラトキア第三公女シェハラザード、ただいままかりこしました。お待たせいたしましたでしょうか、サン・タオ閣下」
 シェハラザードは軽く首を延べ、ドレスの裾をつまんで一礼した。ラトキア公国はエトルリアによってゼーア皇帝の独立許可が取り消され、事実上完全に抹消された国になっていたけれども、シェハラザードは飽くまでラトキア公女として振る舞っていた。それをサン・タオ大公もどうこうしようと思ったようではなかった。
「久しいな、シェハラザード公女」
 彼が言ったのはそれだけだった。
「はい。わが姉たちの奥つ城どころを建てて頂き、参りましてから年が明けますまで、お目にかかっておりません。姉たちを手厚く葬っていただき、閣下の御厚意にはまことに感謝しております」
「あれは、わしの弟と息子どものせいだとも言える。そのぐらいの礼は尽くすのが道理というものだろうからな」
 サンはそう言ったが、これほど人を食った発言もなかった。シェハラザードの父、ラトキア大公ツェペシュの首級は無残にも死体から切り離され、全ての戦争責任を負って処刑されたフェリス伯ハイラードの首級とともにいまだシャームの市門にさらされていることを、むろんシェハラザードは知らない。
「まあともあれ、そこに座るといい」
 言われたとおりに、シェハラザードはサンの正面の席に着いた。女官が彼女にもアーフェル水を差し出す。
「この頃、何やら騒がしいようでございますわね。何かございましたか。ラトキアで反乱でもおきたのですか?」
 それには手をつけず、シェハラザードは微笑みを浮かべた。それは美しくはあったけれどもどこか仮面じみた、顔を動かしただけといった感じの表情だった。サンは酷薄な笑顔をそれに返した。
「そなたは本当に聡いおなごだな。――まあいい、話してやろう。実はペルジアがメビウスに対して戦争を起こしたのだ。国境侵犯などしてな。それで軍を出すべきかどうかで揉めている」
「珍しいこともございますわね」
 シェハラザードは驚いたふうもなく言った。
「まあな。実際のところメビウスはペルジアぐらいがつついたところでびくともせぬ国だ。何を考えてアダブルめもそんなことをしたやら」
「……」
 油断を見せない紫の目をすっと細めて、シェハラザードはサン大公を見た。
「ペルジアをメビウスにぶつけて弱りきったところを突く――。エトルリアが裏で操っている、などということはございませんか、サン閣下?」
「なに?」
 彼女の言葉に、サンは眉を寄せて表情を強張らせた。それから、突然大声で呵々と笑い出した。これには、周りに控えていて彼が怒り出すのではないかと身構えていた女官や小姓たちもびくっとした。
「そこまでわしを悪人と見てもらっては困る。ペルジアはわが姉の嫁ぎ先。無二の盟国だぞ。何条もってそのようなことをしなければならぬのだ」
「あるいは、と思いましただけで」
 シェハラザードは澄まして答えた。
「ですがこの戦争に裏があるのでは、というのは真実そう思っております。そうでなければペルジアが自分から戦争を起こすことなどございますまい。手はお出しにならないほうがよろしいかと存じますが」
 サンは奇妙な表情で、このうら若い亡国の公女を見た。それは不可解なものを見たときのような、恐れと、興味と、疑念が入り交じったような表情だった。シェハラザードは黒ずんで見える濃い色の瞳でサンを見つめている。やがてその視線の対決に負けたのはサンのほうだった。
「わしにそのような助言を与えて、どうするつもりだ」
「わたくしはエトルリアに暮らしております。エトルリアが危うくなればわたくしの身も危うくなりますゆえ」
 日はいつの間にか完全に沈んでしまったようだ。室を照らすのはランプの明かりばかりとなり、向かい合って座る二人の男女を揺らめく赤い光で照らし出している。一方は一国の大公、もう一方はその大公に滅ぼされた国の公女であったが、まるでそんなことはなかったかのような、静かな光景だった。
「そなたの言ったことは一応考えに入れておこう。それはそうと、この前にわしが話した申し出のことは考えておいてもらえただろうか、シェハラザード公女」
 世間話はこれまで、と彼は切り出した。シェハラザードはひっそりとわずかに顔を伏せて、目を閉じた。
「姉たちの喪が明けますまで――せめて半年、お待ちくださいませ。その時には閣下のお心のままに従いましょう。ですがその申し出をお受けするにはわたくしからも閣下にお願いしたき段が二つばかりございます」
「とは、何だ」
 サンは少したじろいだ。知ってのとおり、シェハラザードがなかなかに政治的な能力を持ってもいれば頭も切れることは、とうに証明済みだったからである。
「雪花宮ではなく、どこか離宮を、わたくしに与えていただきとうございます。姉たちが命を絶ったこの場所で閣下のものとなりましては、姉たちに顔向けできませぬ」
「うむ……それで、二つ目は」
「ラトキアにおりました頃わたくしに仕えておりました侍女を一人だけでかまいませんので、わたくしにつけてくださいませ」
「それは……しかし……」
 二つ目の条件に、サンは渋い顔をした。
「わたくしが叶えていただきたい条件はこの二つ。絶対に譲ることはできませぬ。もし果たせぬというのであれば、お申し出は受けかねます。よしや受けぬからとて処刑されようとも、わたくしは厭いはいたしません」
 シェハラザードはきっぱりと言い切った。サンは苦虫を噛みつぶしたような顔をしてしばらく彼女の毅然とした顔を見ていたが、やがて根負けしたように、吐息と一緒に言葉を吐き出した。
「お互いに条件を呑むということでよいな、シェハラザード公女」
 肯定の意味を込めて、シェハラザードは無言で頭を下げた。サンの用事はそれだけだったので、彼は暇を告げると小姓たちを引き連れて雪花宮の本殿に戻っていった。見送るまでもなくシェハラザードはまた、女官も小姓もみな遠ざけて、一人で最上階の自室にこもった。
 すでに湖は夜の中に沈み、星と月の光がきらきらと湖面を照らしている。のんびりと通り過ぎていく松明を乗せた船はおそらく漁船だろう。たった一人でこの光景ばかりを見るようになって、もう五ヶ月になる。
「いいえ、まだ五ヶ月、なのでしょうね」
 シェハラザードは独り言を呟いた。
(あの条件を受け入れれば、もしかしたらもうラトキアの国民に顔向けできなくなるかもしれない。けれども、わたくしにはこれしか方法が残されていない。皆、許してください。父上、エスハザード姉様、ドニヤザード姉様、ナーディル……)
 少女の心は、全く先の見えぬ未来と暗澹たる現在への不安に潰されそうだった。
(ナーディル……そう、ナーディル。それにアクティバル。殺されたという話は聞かないけれど、あの子は生きているだろうか。生きているのなら無事だろうか。どこにいるのだろう。それにグリュン。無事に逃げることができただろうか)
 ひとりきりの窓辺で、シェハラザードは時折誰にも見せぬ涙を零すことがあった。たった一人生きていることが確実なラトキア大公家の血筋として、彼女は誇りと責任感だけを杖にして今までやってきていた。しかし彼女が親もきょうだいも亡くした、敵国で一人ぼっちの、わずか十八歳にしか過ぎぬ孤児なのだということに、彼女自身も気づいてはいなかった。
(フェリス伯は、全ての責任は自分にあるといって処刑されたという。――わたくしが負けてしまったばっかりに、彼を死なせてしまった。それに、叔父様や叔母様、従妹たちもラトキア大公家の血筋だというので皆処刑されてしまった――)
 少ない親戚がランの命令で処刑されたという事を、シェハラザードはハン・マオから聞かされた。彼はエスハザードとドニヤザードの自殺以来、ラトキア公女の夫になろうというもくろみを捨てたらしく、本心からの親切で色々と情報をくれるようになっていた。
(マラン叔父様は母上の弟だからもともと貴族ではなかったし、ロセット叔母様も……みな、父上の血筋ではなかったのに。アルナワーズとシャルナワーズなど、まだたったの十五歳と十二歳で無残にも首を刎ねられてしまった。あの子たちに何のとががあったというのだろう。それもいくさのさだめだとでもいうのだろうか? 怯えて泣くシャルを、アルナはラトキアの誇りを見せねばならないと励まして、両親の血を吸った断頭台にみずから首をのべたとか……)
 涙を呼ぶ思いを振り切るために、シェハラザードは全く別のことを考えた。
(ペルジアとメビウスが開戦――。これは使えるかも知れない。世界が動きはじめているわ。わたくしも、もう一度戦いの場に出てみせる。そのためにも、この戦いに勝たねばならないわ。言葉のかけひきだけの、この戦いに)
 外はのどかに美しいサッシャの夜。春が、もうすぐ訪れようとしていた。

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