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                                *



 隊長たちが出ていってしまうと、幕屋の中は急にがらんとしてしまった。小姓たちが床几を片付けに入ってきた。何でまだ自分はこんなところにいるのだろうと思いながら突っ立っていたアルドゥインに、リュシアンは初めて視線を向けた。
「アルドゥイン」
「はい」
「アーフェル水をもらいたい。そこのストーブで温めてあるやつだ」
 疲れた口調でリュシアンは言い、ついでにため息をついた。
「かしこまりました」
 この前ふるまわれたのと同じ、温めたアーフェル水はアルドゥインとしてはあまり好みではなかったのだが、確かにこの寒さではアルドゥインだって冷たいものを飲む気にはなれないし、好みは人それぞれだと一人で考え直した。
 リュシアン専用の銀のカップにアーフェル水を注いでとって返すと、老将軍は礼の代わりのようにちょっと頭を動かして受け取った。
「アルドゥイン」
「何をお持ちしますか」
 反射でそう答えると、リュシアンはふっと笑った。
「持ってくるものはない。そなたの意見をまた聞こうかと思ったのだ。軍議を聞いていて色々と思うこともあっただろう」
「だから俺を引き止めたのですか。閣下もお人が悪い」
 アルドゥインは詰るような響きを込めた声で言ったが、リュシアンは穏やかに笑っただけだった。
「わしは寂しい老人なのだ。慰めに少しばかり付き合ってくれてもよかろう」
「閣下ともあろう方が何をおっしゃいます」
 突然冗談らしいことを言われて、アルドゥインは怪訝な顔をした。
(よっぽど俺、目を付けられてるに違いねえな。まあ、嫌われて目をつけられるってわけじゃないからいいかもしれないが)
「して、何かないのか」
 内心で彼が何を考えたにしろ、とりあえず軍議に関することを何か言わなければならなかった。
「……そうですね。俺は、今日のあれは普通のゾンビーとは違うと思います」
「悪魔に普通も何もあるのか?」
 そう切り返されて、アルドゥインはちょっと詰まった。元来がスペルの力を持たず、魔道などにも疎い沿海州の人間である。同じ沿海州でもティフィリスやセルシャなどと比べたら悪魔に遭遇することも滅多に無かったので、どこがどういうふうに違うのか、と明確に指し示すことはなかなか困難だった。
「言葉が足りなくて申し訳ありません。俺が意味した普通と言うのは、誰にも操られていない、ということです」
 やがてアルドゥインは答えたが、かといって自分でその答えが腑に落ちているようではなかった。しかし彼の言わんとしているところはリュシアンにも飲み込めたようで、黙って目顔で先を促した。
「もしもアヴァールの森にゾンビーが現れ、ペルジア軍の死者がその仲間にされてしまったのだとしたら、今までそのような話が聞かれなかったこと、それに我が軍の死者がならなかったというのが不自然です。それに、ペルジア軍の死者はペルジア軍が引き取ったはず。そうなら、真っ先に襲われるのはペルジア軍であって、当方ではありません」
「ふむ……」
「これは悪魔ではなく、全く別の意思が働いているのだと俺は思います。あいつらの動きは、何だか操られてるみたいでした。多分、魔道です」
「しかし死者を操ることは、魔道十二ヶ条で禁じられているのだぞ」
 びっくりしてリュシアンは言った。だがアルドゥインは静かに尋ねた。
「それはギルドに属する魔道師が従わねばならぬさだめです。黒魔道師にとって、十二ヶ条の制約が何の意味を持つでしょう?」
 森の奥の闇を切り取ったような黒の、それでいて強い意思を隠した目がリュシアンをまっすぐに見た。
「ではそなたは、この戦いには魔道が関与していると、そう申したいのだな」
「仮説の域は出ませんが、おそらく」
 アルドゥインは頷いた。
「さらにこれも憶測ですが、ペルジア軍はこの事を知らぬのでしょう。でなければ先刻スガン隊長がご指摘なさったように、ゾンビーを彼らが利用しなかったこと、発見しても騒がなかったことの説明がつきません」
「何とな。そなたは本当に、予想もつかぬことを言う」
 呆れたように言いながらも、リュシアンは楽しげであった。どちらかといえば、そんなアルドゥインを見込んだのは他でもないおのれなのだ、と誇らしげにしているようにも感じられる声だった。
「全く、そなたの話はなかなか侮れぬな。魔道で操られていた、か。しかし、我が軍の死者たちにいつわりのおぞましい命を吹き込んだほうが、よほど我々の士気を殺ぐことができるだろうが……」
 ついつい彼の話に引き込まれて、リュシアンは困ったように眉を寄せた。ちらりと見上げると、メビウス民族とは全く別の、鷹のように精悍な顔がこちらを見ていた。まもなく二十四歳になる若者とはとても思えぬような光が、ときどきその磨き抜かれた黒檀のような目に宿る。
「我が軍の死者は土には無理ですが、腐敗の防止も兼ねて雪に深く埋めて仮の埋葬を済ませています。その状態では黒魔道の術をかけることが不可能、あるいは困難だったのではないでしょうか。むろんこれはペルジア側の扱いを見て比べなければ何とも申しがたいことですが」
 その探るような視線を受けて、アルドゥインは答えた。しばらく黙って青年の顔を見つめていたが、リュシアンはやがて薄く笑みを口許に乗せて目を伏せた。
「そなたのことだ、まだわしに話しておらぬ考えなどがあるのだろう」
「いいえ、いま申し上げた事で全てです」
 アルドゥインはきっぱりと否定した。
「漠然とした憶測に過ぎぬからまだ話せぬ、とでも言うのだろうが。それでも構わぬ。今の話でも充分漠然としておるぞ」
 若造のその程度の嘘など簡単にわかるのだぞ、というようにリュシアンはにやりと笑って彼を見上げた。何でもない表情を作る代わりに、アルドゥインは困ったような表情を浮かべた。たしかに、今日の戦いを見ていてまた色々と考えたこともあったが、リュシアンがずばりと言い当てたように、それを本当に口に出してよいのやら、言うにしてもどこまでか、と迷ってもいたのである。
 ジャニュアでアインデッドの出生を推理して見せたように、彼はちょっとした手掛かりから色々と想像力を働かせて推論を組み立てるのが好きであった。それを聞いていないと判っている相手にとりとめもなく話すのも好きだったが、いざ話してみろと求められるとどうもおぼつかないような気がして落ち着かなかった。
 リュシアンにしてみれば、常識的な――悪く言ってしまえば固い自分の考えでは到底思いつかないようなことを若い部下たちから聞くのが楽しみの一つでもあった。そこにアルドゥインという絶好の相手が現れたのだから、他にも理由はあっただろうが、彼が気に入られないはずがなかったのである。
「申し上げてもお怒りになりませんか?」
「わしから尋ねておいて怒るような理不尽な真似はせぬ」
 ほっとしたようにアルドゥインは肩を落とした。
「俺から申し上げるのははばかりながら、和平交渉は成功しないと思われます」
「なぜだ」
「さきほど申し上げたように、何者かが黒魔道を用いてペルジア側に介入しているのだとすれば、その範囲がグレインズだけとは考えがたいからです。当然イズラルにも働きかけて、いくさを続けるように仕向けるでしょう」
「そなたの言っていることを聞いておると、まるで誰かがペルジアを唆したか、裏から操っているかのように聞こえるな」
 今度こそ本当に呆れてため息をつくと、アルドゥインはそれに応えていくぶん皮肉っぽい笑みを口許に乗せた。言わせたのは閣下ですよ、とでも言いたげな目だった。
「これは憶測というよりも想像でございますので」
「とんだ想像もあったものだ」
 それから何か言うべきことはあるかと目を宙にさまよわせ、リュシアンはかすかに首を振った。
「まあよい。長らく引き止めすぎたな。そなたの隊に戻るがいい」
 リュシアンは立ち上がり、アルドゥインの肩を叩いた。彼の方がずっと背が高かったものだから、それも何か変な感じだった。
「それでは失礼致します」
 彼が天幕の外に出ていってしまってから、リュシアンは一旦下がらせておいた小姓騎士を呼びやった。ごく下位の兵士を呼んで話をする場合には、護衛の意味も兼ねて幾人かはそばにおいておくものなのだが、他人がいてはアルドゥインが話さないかもしれないと思ったので下がらせていたのだ。
 まもなく、当番の小姓騎士が入ってきて用向きを尋ねた。
「クジャヴァ副将に、少々話があるので来るように伝えてくれ」
「かしこまりました」
 副将の天幕はすぐ近くに張られているので、そう待つことはなかった。
「ただいま参りました。クジャヴァ副将であります」
 折り目正しい挨拶とともに、副将軍が入ってきた。身のこなしは軍人らしくきびきびとしていて若く感じられるが、顔には相応の皺が刻まれ、黄色っぽく見える金髪にも白髪がだいぶ混じっているところから、実際には五十歳を少し越えたくらいと思われる。
「突然呼び立ててすまなかったな、アシュレー。そこに座るが良い」
「戦場にあるときはつねに非常事態と心得ておりますれば、何程のことでも」
 示された床几に腰を下ろし、アシュレーは答えた。リュシアンは小姓の手を煩わせるまでもなかったので、近くの折り畳み式テーブルに置いてあるカップを取り、手ずからアーフェル水を注いでこの忠実な副官に渡してやった。彼は小さく礼を言ってそれを受け取った。
「して、閣下、何のお話でございましょうか。今日の戦闘についてのことでございますか?」
「うむ。それもある。すまぬがそなたら、話が済むまで下がっていてくれぬか」
 アシュレーに向かって頷きながら、リュシアンは再び小姓を下がらせた。二人きりになったところで、彼は話を切り出した。
「アシュレー。この戦いは長引くかもしれぬぞ」
「それしは私も承知しております。冬の戦ですから、或いは雪解けを迎えるまで膠着状態が続くことは考えられますので」
「それとはまた別の話だ。オルテアではペルジアに対し和平交渉を進めつつこれ以上の侵攻を防ぐという方針が定められたが、和平交渉は手間取る――そうでなければ決裂する。ペルジアはおそらく交渉には応じぬだろう」
「なぜ、そのようにお考えに?」
「あのゾンビーどもは黒魔道で操られ、我が軍を襲ったのだ。おそらく黒幕がどこかにおり、ペルジア自体にも働きかけてこの戦争を起こさせたのだろう。だからそう簡単には収まるまい」
 彼の発言に、アシュレーは目を見張った。相手が驚いたということが十二分に判って、リュシアンは満足げな顔をした。
「それでだ。これが事実かどうか確かめるために、至急オルテアに使者を出してこの旨を陛下に奏上せねばならぬ。真実ならばこの上どのような陰謀が企まれているのか、判ったものではない」
 さすが長年従ってきた副将だけあって、アシュレーの飲み込みと対応は早かった。
「では明朝にも早馬を出しましょう。書状のほうはいかがなさいますか。閣下がお書きになられるか、それとも私が代筆いたしましょうか」
「わしが今晩中に書いておく」
「承知いたしました。それにしても、今日の戦いだけでよくそこまで見抜かれましたね。さすが陸軍大元帥を兼ねられる方だけある、と申せましょうか」
 アシュレーの手放しの賛辞に、リュシアンは困ったような笑顔を浮かべ、否定の意味を込めて目の前で手を振った。
「いやいや、残念ながらこれはすべて受け売りだ。アルドゥインがそう申したのだよ」
「アルドゥイン……ですか。よほどお気に召されたのですね。この頃よくその名を耳にいたしますが。たしか、閣下が傭兵から騎士に取り立てておやりになった」
 意外な種明かしに拍子抜けたような口調で彼は呟き、アーフェル水を受け取ったきりだったことを思い出して一口飲み下した。それから、だいぶ火勢が弱まってきているのを見て、天幕の隅に積んである薪から幾本か取ってきて継ぎ足した。
「あれはどうしてなかなか、大した男だよ」
 その動きを漠然と目で追いながら、リュシアンは言った。彼がそういうふうに、自分の部下の業績や能力を我がことのように自慢するのはいつものことだったので、アシュレーは微笑んだ。

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